▇◇ー◈ー◇▇
ノートパソコンのキーボードを叩いてた手を止め、刃は両手で目を覆い、ゆっくりと深呼吸する。
椅子の背もたれをしならせながら軽く体を解し、立ち上がると台所へ向かって珈琲を淹れる。
珈琲メーカーにフィルターを設置し、適当に粉を入れ、タンクに水を注いでスイッチを点け、こぽこぽと音を立てながら珈琲サーバーに黒い液体が溜まっていく様をぼんやりと眺めた。
彼の職業は翻訳家である。
今も海外の推理小説を国内向けに翻訳中で、納期はまだ先ではあるが眠れずに作業中だ。
静かなクラシック音楽でも流そうか考え、今は僅かな音でも煩わしくなりそうで珈琲を淹れたマグカップを片手に寝台を背もたれにして床に直接座る。
部屋はワンルームで広くはない。
玄関から入って右手側にはユニットバス。直ぐ目の前には台所があり、シンクの隣に小さな冷蔵庫。その先にある六畳程度の室内には仕事用の机と寝台のみでテレビすらない。理由は煩わしい人の声を聞きたくないからだ。
人間嫌いかと言えば解らない。人間が作る音楽、物語、芸術は好ましいと感じる。ならば、嫌いではなく苦手と表現すれば正しいだろうか。幼い頃から優秀な双子の兄と比較され、劣等感を植え付けられてきた弊害か。
刃は兄、応星を好いている。
何でも器用に熟し、神からも人からも愛される存在が誇らしいと思う。
背も高く、手足も長い、顔の造形も整っている上に白子の特徴を色濃く映す銀白色の髪色に青紫の瞳は神聖すら感じさせ男女を問わず魅了する。実際、黒い髪で血色のような瞳をした陰鬱な己と違い、愛想も良かったため幼い頃から可愛い可愛いと、いつも持て囃されていた。
幼い頃は病弱だったが成長すれば体力もつき、闊達で傲慢とも言える自信家に育った兄が、高校の時分にギターを購入してからバンド活動を始めた際も、多才で人から愛される彼ならば成功するだろうと感じ、何も疑わなかった。才能ある仲間を集め、当然のようにインディーズから注目され、瞬く間に全国ツアーを成し遂げる人気バンドへと駆け上がった兄は誇らしく、同時に刃の劣等感を過分なく刺激した。
兄に憧れ、刃自身も楽器に触ってはみた。
しかし、不器用な手は幾ら教えて貰っても上手く動かず、何一つ身につかなかった。
天才肌な兄は、自身が何でも簡単に成し遂げてしまうためか、出来ない人間の気持ちに今一疎い。逆に、『何故こんな簡単なものが出来ないのか』と、困惑する事すらある。
「俺には向いてないみたいだから」
その一言で楽器には一切触れなくなっても、周囲の『応星の弟』なんだから頑張れば出来るよ。などと言う無責任な言葉にも押し潰されそうになっていた。俺と応星は違うんだから興味なんか持つんじゃなかった。そんな後悔ばかりが頭を占め、せめてとばかりに勉強を頑張ったお陰で現在、翻訳の仕事に就けている。
だが、活躍する兄の傍ら、どこまでも劣等感はついて回った。やっと身に付けた仕事すら、人の著書を文字起こししていると結局模倣でしかない、己では何も作れない現実を見せつけられているような感覚に陥り、心身の不調が続いて病院に行くと軽度の鬱病と診断され薬を飲むようになった。
そんな中でも納期より早く仕事を終えれば喜ばれる事。社会との繋がりが切れ、不要品扱いされる事を恐れるあまり、無理してでも作業する癖がついた。その心労が不眠を誘発し、どうせ眠れないのだから。と、良くないとは知りつつ少しでも気を紛らわそうと仕事をしてしまう。
疲れているのに眠れない。思考もぼんやりして刃は目を閉じる。
己は兄の劣化コピーである。
神に愛され、才能を詰め込まれた残りかすで己が作られたに違いない。
落ち込み出すと、こんな思考が頭をぐるぐると回る。
才能ある兄ばかりを可愛がる両親とは違い、応星は過剰なほどに刃を愛して気にかけてくれるが、存在自体が愛おしくも心身を蝕む毒のようで、精神的に不安定な刃を心配しての同居を提案されても拒絶し、彼は粗末なアパートで暮らしている。
「お腹、空いたかも……」
最後に食事をしたのはいつだったか。
作業に没頭しすぎて時間も記憶も曖昧だ。
億劫そうに立ち上がり、まだ半分以上中身が残っているマグカップを机に置いてカーテンを開けば外は薄暗い。夜なのか、朝なのかは解らないが、コンビニで適当に簡易食でも買えれば良しとして刃は黒い長袖Tシャツとデニムパンツに着替え、長く伸ばした髪を項で束ねて出かける準備をする。
玄関の扉に引っかけていた黒いキャスケット帽を目深に被り、靴箱の上に置いてある箱からマスクを取り出して付け、財布を握ると何度か深呼吸をして扉を開く。
季節は春先。外は少しばかり空気がひんやりとして湿気を帯びている。
地面を見れば雨が降ったのか地面が薄らと濡れていた。
東の空から薄明かりが登り始めているから朝らしい。
遠くから車の動く音がして、人間の気配を感じた。
まだ一般人は活動を始めたばかりで、直ぐに目的のコンビニへと行き、手早く買い物を済ませれば人に会わずに済むとして刃は足早に金属製の階段を降り、しっとりと水を含んだアスファルトを踏み締めた。
数分も歩けば目的のコンビニに辿り着き、薄暗闇で浮かび上がる光にどことなく安心感を覚えた。入店すれば軽快な客の来店を店員に知らせるチャイムが響き、こんな時間にも関わらず入り口付近に居た数人の視線が刃に集中する。
僅かな安心感は吹き飛び、刃は俯きながら慣れた簡易食コーナーへと足を運び、カロリーメイトやプロテインバーを適当に掴むとレジへ向かう。
ねぇ、あれさ。と、ひそひそ声が聞こえて嫌な予感に気が急く。夜勤を終える間際の店員は眠いのか動作がやや鈍く、商品をレジに通しながら目が何度か閉じかけていた。
怒鳴ったり、急かしたくはないが早くして欲しい。既にクレジットカードを用意している刃がそわそわしていれば、
「あのー、応星さん……、ですよねぇ?髪イメチェンですか?わ、紅い眼はカラコン?素敵」
見た目は派手だが年若い女性に声をかけられ、刃は息を呑む。
「えーっと、合計で三?に、えーっと?」
数字も上手く読めなくなっている店員を余所に、半セルフレジを操作して会計を済ませ、商品を掴むと、
「人違い」
それだけを伝えてコンビニを出た。
刃と兄の応星は一卵性の双子である。
髪や眼色の違いはあれど顔、背格好も酷似しており、応星が派手な職業故に髪を染めたりもするため、ファンからの勘違いも間々あった。刃が外に出たくない理由の一つでもある。
逃げるような早歩きで刃はアパートに帰宅すると荒い息を吐きながら帽子やマスクを毟り取り、髪を解いて膝をついた。折角買った簡易食も床に放り出し、半ば這うような覚束ない足取りで寝台へ向かうと倒れ込む。
あの女性は、刃など知るはずもない。
故に、耳の奥で繰り返される『応星のなり損ないの分際で』そんな非難するような響きを持った言葉は被害妄想の幻聴である。
大柄な体躯を出来得る限り縮めながら両手で耳を塞ぎ、固く目を閉じていればいつの間にか眠っていたらしく、起きれば昼過ぎ。起き抜けから腹が鳴った。流石に限界を訴える肉体からの要望に、冷蔵庫からミネラルウォーターを出して飲みながら足りない栄養を補うように碌に味もしない簡易食を腹に詰め込み薬を飲む。
「ネットで買おうかな」
自身に問いかけるように刃は呟く。
そうすれば、不特定多数の目にはつかなくなる。が、刃は通販にも消極的だ。何故かと言えば、通販を利用して食料品を購入していたら配達員の女性に矢張り応星と勘違いをされた。その上、弟だと伝えても関係を迫られ、拒絶すればストーカー化し、警察の厄介にまでなってしまった経験から中々利用出来ないでいる。
嫌な記憶を思い出して憂鬱に堕ちそうになった頭を左右に振り、刃は立ち上がると服を脱ぎながら移動し、狭い浴槽に座ると暖かいシャワーを浴びる。
布団も被らずに眠ったせいで随分と体が冷えていたらしく、肉体の深部に熱が染み込み、心の汚泥が拭われていくようで、刃は脱力しながら目を閉じて暖かさを享受する。
シャワーを浴びながら咥内を洗浄し、体が温まると伸ばしっぱなしの長い髪を洗う。泡立てたスポンジを肌に滑らせれば運動習慣など殆ど無い薄っぺらな肉体に毎度溜息が出そうになった。体力をつけたい気持ちはあれど外出を厭い、暇さえあれば作業に没頭する習慣のせいで上手くいかない。
体を洗い終えてもぼんやりとシャワーを浴びていれば、再び睡魔が寄ってきて刃は浴槽にもたれながら眠ってしまった。
▇◇ー◈ー◇▇
背中を強く叩かれて意識が覚醒し、重い瞼を開ければ目の前には良く見知った顔が合った。
「お……せ……」
「お前、こんなとこで寝て……、病気になるぞ」
シャワーを流したまま狭い浴槽で縮こまりながら眠る弟を見て仰天したのか、応星の顔色は些か宜しくない。
「暖かくてうとうとした……」
どの程度眠っていたのかは判らないものの、濡れた髪を絞りながらのろのろとした動作で浴室を出ると、応星は笑顔でバスタオルを構えながら待っていた。歳も変わらない弟に随分と世話を焼きたがる。とは思いつつも勝手にさせ、服を着ると今度はタオルを当てつつ髪を丁寧に拭いていく。
「随分、伸ばしたな」
「放っていたら伸びただけだ」
応星のさらさらと流れる銀白色の髪が目の端に映る。
しっかりと手入れされているのか、透き通る絹糸のように美しく輝いて、応星の美貌を引き立てている。それに引き換え、ただ伸ばしているだけで大した手入れもしていない刃の髪は麻紐の如くぼそぼそとしている。
「髪質はいいのに勿体ないな」
「人前に出る仕事じゃないし」
「そうだけど、鏡見て自分が格好いいな。って思えたら気分いいだろ?」
刃は返事をせず、膝を抱えて体を小さくする。
鏡など見ない。似ているのに似ていない劣等感を刺激する顔が写り込むからだ。
母の胎で全てを分けあったはずなのに、何もかも違う己と兄。鏡はその差を如実に映し出し、刃の心に針を刺す。賃貸でなければ鏡など叩き割ってしまいたいほどである。
「今日は何で来たんだ?」
「最近、連絡取ってなかったから心配なのもあったけど、ちょっと困った事になっててさ」
あからさまに話を逸らしても、特に気を害した風でもなく応星は刃の髪にヘアオイルを塗り込み、櫛で梳きながら整え、ドライヤーで乾かしていく。自身の髪で手慣れているのか、手入れの仕方は淀みなく、憐れなほど傷んだ髪が少しばかり見られたものになったようだった。
「お前でも困る事があるんだな」
「そりゃあるさ。一々言わないだけだよ」
天才故の苦悩などもあるのだろうな。と、勝手に納得し、背後から抱き締めて頭を撫でてくる応星の体温を享受する。
翻訳する過程で様々な種類の本を読む刃は、主人公の人生を追体験する。
無能が故に最悪の事態を引き起こす者。有能過ぎるが故に凡人に理解されない者。苦しみながらも己が人生をどうにか生き延びようと足掻く者。大事な存在を失った挙げ句、自身の存在価値が崩壊する者。
上げれば切りがないものの、本を読んでいる間だけは己が己でないようで心が穏やかになる。
薬である程度抑えつつも鬱が酷くなりすぎないのは、他者の価値観を取り入れられる本と言う逃避先があるからだと刃は考えていた。
「ご飯は食べたか?」
「風呂に入る前、色々食べた」
寝台脇にある小さなゴミ箱を指差せば、簡易食の包装紙だらけな中身に応星は苦笑した。
「刃、やっぱりお兄ちゃんと一緒に住まないか?セキュリティはしっかりしてるし、人と居るのが嫌なら俺も毎日は帰って来ないしさ……、頼んどけば人に会わないでデリバリーもしてくれるから結構、自由は利くと思うんだけど」
「いい、応星の負担になりたくない」
一緒に居れば居るほど、じわじわと蝕まれるのは分かり切っているのだ。
応星の提案を無下に断り、刃は無言になる。
「負担なんて思う訳ないだろ……」
刃の言葉をそのまま受け取り、抱き締める力を強める応星。
応星は優しい。こんな不出来な弟にも。生きているだけで負担になっていると時に感じる。己が一緒に生まれなければ、兄はもっと自由に飛び回れただろうとさえ考える。
「せめてもっとセキュリティのしっかりした所に引っ越してほしい気持ちもあるんだけど……」
「別にか弱い女子供じゃあるまいし……」
「でも、お前押しに弱いし、女子供じゃないから逆に心配なんだよ……」
ストーカー化した女性に押しかけられ、危うく襲われそうになったが飲んでいる薬のせいか、不摂生すぎる生活のせいか幸い下半身は不能であり、はねつけて施錠できる風呂場に逃げ込んでから住居不法侵入で警察に引き渡せたのだが、それを押しに弱いと思われているのか刃は内心、首を傾げる。
もしも、普通の男のように反応していたら、婦女暴行で訴えられていたのは己なのだろうが。
「俺のファンにさ、声かけられたりしてるだろ?」
「偶に……」
幸い、良く行くコンビニの店員は興味が無いのか踏み込んでは来ないが、雇われの翻訳会社に用事があったり、別件で外に出なければいけない場合、目敏い応星のファンに捕まる事が間々あった。
その度に『人違い』とだけ言って逃げるのだが、しつこいファンだと腕を掴まれたり、写真を強要される事もあって辟易し、外出恐怖症も加速している。つい最近も、突然腕を引かれて迫られた驚きから咄嗟に振り払って逃げてしまった。
「悪い、迷惑かけて……」
「何言ってんだ。迷惑かけてるのは俺だろ……。俺のファンなんだからさ」
視線を床に落とし、応星の顔を見ないようにしながら言えば、即否定された。が、ストーカーといい、己さえ居なければこんな面倒を起こさずに済んだとしか考えていないため、応星と刃の思考は噛み合わない。
「お前が写真嫌いなのは知ってるんだけど、一枚だけ一緒に撮ってもいいか?」
応星がレザージャケットのポケットからスマートフォンを出し、言い辛そうに刃へ頼む。
曰く、応星のSNSに時折、『ライブはファンサしてくれるけどプライベートだと態度が悪い』『黒髪にしたりカラコンで変装したつもりかもしれないけど、ばればれだから。話しかけられたり、写真撮られるくらい有名税でしょ?』『こないだ応星に話しかけてやったのに突き飛ばされたんだけど、最悪』等々、最初は無視していたが人気者を嫌う者達まで同調しだして少々ボヤ騒ぎになっているらしい。
無論、『プライベートにしつこくする方が悪い』『個人的な時間くらい関わらず自由にさせて上げるのもファン』などの意見もあるが、火を付けて騒ぎたいだけの人間の分母が多すぎて、最早収集がつかなくなっている。との事だった。
「ご、めん……」
「だから、お前は悪くないって。俺じゃなくて弟つっても信じないし、こういう連中は一々人を疑って、わざと煽って騒ぎたいだけなんだよ」
それを沈静化させるためにも刃の存在を証明して『弟は一般人だから絡まないで欲しい』旨を主張したいと応星は言う。それで絡まれる回数が減るのであれば刃にとっても悪い話ではなく、逡巡しながらも頷いた。
「じゃあ、ほらスマホの画面見てくれ」
自撮りの体制で、応星が刃へと頬を寄せ仲睦まじい様子で写真を撮った。
画面に映る自身を見ても、刃は『無表情で陰気な男が映っているな』としか感じず、これで少しでも日常が平和になってくれる事を祈るばかりである。
▇◇ー◈ー◇▇
結果だけを見れば、応星の目論見は失敗したと言える。
応星が刃との写真をSNSに投稿し、宣言通りに『弟は人見知りで芸能とは関係ない一般人なので、そっとしておいて上げて下さい』と、書いたのだが、
「溌剌とした応星とは違うアンニュイさがいい」
「黒髪と赤眼がエキゾチック」
「モデルとかやればいいのに」
そんな予想外の方向に盛り上がってしまい、『応星の弟』として、芸能界デビューまで話を膨らませる者も現れる始末。
幸か不幸か、刃はSNSなどの閲覧はしないため、騒動を一切知らずに過ごしていた。しかし、一週間も経たない内に、どこから調べ上げたのか刃が勤める翻訳会社に問い合わせが来るようになる。
刃と親しくしている編集者が最初こそ防いでいたが公、一般問わず問い合わせが多数寄せられ、彼が応星の弟である事が社内でも広まってしまった。刃が所用でビルに訪れれば普段会話をしないような社員にまでしつこく話しかけられ、酷く狼狽え疲弊する様子を見かねた編集長が刃を使っていない会議室まで連れて行き、
「直接資料見ながら打ち合わせした方がいいと思ってたけど、今後は全てリモートでやりましょう。必要な物は私が届けるか、郵送するわ」
沈痛な面持ちで提案すれば精神が摩耗した刃は一も二もなく頷いた。
刃の災難はそれだけでなく、夜にコンビニへと買い出しに行けば以前は干渉してこなかった店員から写真を求められ、驚いた刃は買う物も買わずに店を飛び出した。
近所で水や食料もまともに買えなくなってしまった刃は、家にある僅かな備蓄で過ごし、アパート内の誰かが漏らしたのか知らない人間が家に来るようになったため外出すら困難に。応星が連絡のつかない刃を気にして訪れた頃には心労と栄養失調で倒れており、刃は緊急入院を余儀なくされる。
応星が刃の勤める会社へと入院した旨を伝え、その間に引っ越しの準備を進めた。
オートロックで宅配ボックスもあるマンションを選び、病院食や点滴でどうにか回復した刃を連れて引っ越しすれば、使った業者が応星と刃を隠し撮りした写真をSNSに上げ、しかもマンション名まで映っていたため引っ越しは無意味となってしまう。
元のアパートにも戻れず、新居も利用できず。
致し方なく仕事道具だけを持って応星が住むマンションに避難するも常に人から監視されているような恐怖が刃の心に巣くい、仕事など出来るはずもなく、病院にすらまともにいけなくなり、自身の愚行から頼りの薬もなくなって酷い倦怠感、耳鳴りや吐き気、頭痛などの離脱症状に苦しんでいた。
事態を重く見た応星から病院への付き添いとして年若い男を紹介されたが、疲弊しきった刃は相手の顔や名前すら覚えられず、手首に何かを巻かれ、手を引かれるままに病院へと連れて行かれて抗鬱剤を手に安堵する有様。
軽くとは言え食事も出来るようになり、ようやっと幾許かの安寧を得たかと思った数日後、ソファーの上で丸くなりながら夕闇の空を窓から眺めていた刃の耳に、つんざつくようなインターホンの音が室内に鳴り響いた。
刃は全身を振るわせて身を潜めるように更に体を小さく丸める。そのまま得体の知れぬ誰かが去るのを待ったが、インターホンは一度のみならず、何度も鳴らされて刃の呼吸と心臓は酷く乱れた。
両耳を塞ぎ、どれだけ耐えていただろうか。
夕闇がより濃くなり、夜が訪れようとする頃にようやく静かになった。
息を吐き、恐る恐るベランダに出て、街灯に照らされた地上を覗き込めばカメラを持った人間が複数居り、空気が急に喉に詰まったようになる。偶々他の人を撮るために来たのかも知れない。そうではないかも知れない。転がるように室内に戻り、寝室まで逃げて布団を被りながら刃は震えた。ともすれば、あのストーカーの女性のように押し入ってくるかも知れない恐怖から嫌な想像ばかりが頭の中に浮かんでは消える。
「おうせい、おうせい、はやく……」
唯一、自身の絶対的な味方であろう人間に救いを求め、帰宅を願うが都合よく帰っては来ない。刃の思考はどんどん悪い方向へと流れていき、『とうとう見捨てられた』『もう応星はここに帰って来ない』『消えてしまおう』そんな妄想から、マンションを飛び出して煌びやかな光溢れる街中を彷徨う。
寝乱れた長髪に簡素な衣服、裸足でぶつぶつと何をか呟きながら胡乱な様子で彷徨う人間に近づく者は居らず、湾を跨ぐ大橋に辿り着くと吸い込まれるように真っ黒な水を覗き込む。
あの真っ黒な世界に落ちたら楽になれるだろうか。
恐怖も苦しみからも開放されるのか。
背後を走る車のライトに横顔を照らされ、通り過ぎる音を聞きながら、眼下に広がる海を刃は柵に凭れながら見詰めた。
揺らぐ波が自身を手招いているようで、見ていれば見ているほど思考がぼやけて黒く塗り潰され、何の感情もなく柵を乗り越えようとすれば腕を掴まれて意識が引き戻される。
「みつ、けた……」
夜はまだ肌寒いと言うのに、頬を赤らめながら肩で息をする少年が刃の腕を掴み、スマートフォンを操作する。
「帰りましょう。皆、待ってます」
「だれが……?」
こんな不要品でしかない出来損ないを待つというのか。
刃の虚ろな眼差しを受け、少年は苦しそうに口を引き結ぶ。
「足、後で手当てするので、もう少しだけ我慢してて下さい」
「あぁ……」
尖った小石や硝子でも踏んだのか、今更じくじくと痛み出した足を無感情に見下ろし、少年が誘導するままに目の前に来たタクシーへと乗り込めば、どこかへと連れて行かれる。
この少年が自身を救ってくれる死神であったなら良かったが、見慣れないマンションに着き、彼が住んでいるらしい部屋へと着くと真逆の存在であったと勝手な失望を感じた。
「じん……!」
エレベーターに乗り、共通路の先にある鉄扉を開けば応星が玄関まで駆け、刃に飛びつきながら声を上げて泣く。
「丹恒、お手柄だったな……」
「あぁ……、うん……」
応星の後ろから何となく知っている顔が現れ、刃がゆるりと首を巡らせて背後を見れば、似ている顔が合った。
「ごめんな、俺がSNSなんかに写真上げたから……!」
少年が口籠もる中で、応星が刃へと謝罪を口にする。
刃への予想外の反応と反響。余計な真似をした引っ越し業者への対応や仕事に追われて、一番大事な存在を蔑ろにした後悔を胸に、刃をしかと抱き締めて只管、謝り続けていた。
ただ、写真は切っ掛けに過ぎず、根本的な原因は応星への劣等感や依存を拗らせ、精神的に追い詰められてしまった故の行動である。恐らく、この認識の擦れ違いは永遠に交わらないだろう。
「応星さん、刃さんも疲れてるようなので、一旦、そっとしておきませんか?」
「あ、あぁ……、でも、刃、あの……」
「俺が見てるので、もう大丈夫です」
「応星、帰ろう」
「お、俺、俺が一緒に居る……」
「お前も疲れているだろう。諸共倒れるつもりか」
応星の背後から、男性が背中を摩りながら、お互いに離れるよう促す。
応星は涙ぐんだまま後ろ髪を引かれるように連れて行かれ、室内には刃と丹恒と呼ばれた少年だけが残される。
「お風呂、入りましょう。足も手当てしないといけませんし」
「あぁ……、うん……」
最後に風呂に入ったのはいつだったか考えるが思い出せず、傷ついた足裏だけでなく砂や泥で汚れた自身に今更気がつく。
「これ、外しますね。また後で付けさせて貰いますが」
手首に嵌められていた電子時計らしい物を外されても、いつから付けていたのか記憶が曖昧だった。服を脱がされ、浴室へと入れば床に座るように言われて従う。
「熱くないですか?」
「いや」
何故、この子は当然のように入浴介助をしているのだろうか。
髪を洗われながら考えてはみたが、楽だしいいか。などとぼやぼやとした思考に着地する。丹恒は刃の濡れた髪を箸のような棒で撒いて器用に纏めると、次いで顔や上半身を洗われる。
「あの、触っても……?」
「別に……」
許可を出せば陰部や脚を洗われ、傷も丁寧に流される。
肌に柔らかい湯が当たる感触、人に優しく撫でられる心地好さに瞼が落ちそうになってくるも、苦笑されながら、
「もう少し頑張って下さい。俺では貴方を運べないので」
の、言葉に瞼を開けているよう尽力する。
体についた泡を綺麗に流し終えれば丹恒が大きなバスタオルを構え、丁寧に水滴を拭っていく。一通り拭い終えればバスローブを纏わされ、寝室まで手を引かれて寝台に座らされた。
刃はされるがままであり、眼は動くものを何となしに追っているだけ。
丹恒が出て行ったかと思えば、手にゼリー飲料とドライヤーを持って現れる。
「これなら食べられますか?」
わざわざ蓋を開けてから渡され、口を付けると飢えていた肉体が栄養を欲して瞬く間に飲み終わる。
「幾つか置いておきますから、好きに飲んで下さい。俺は髪を乾かしてますから」
丹恒も寝台に乗り、刃が隣に置かれたゼリー飲料を開けて吸っている間に髪を解き、水気を拭いながら温風を当てて乾かしていく。髪のアレンジを楽しむために伸ばしている応星と違い、只伸びただけの綺麗でもない髪を丁寧に梳きながら丹恒が乾かしていく。彼は何も追求しない。ただ黙って優しさだけを与えてくれる。申し訳なさ、情けなさ、心地好さが同居し、涙が溢れて止まらない。
「ここには俺だけなので、安心して下さい。俺も他人ですけど、貴方に危害を加えるような真似はしませんから」
髪を乾かし終えた合図のように緩く編んで纏め、涙を拭いながらあやすように背中を叩き、眠るように促す。
刃が横になり、完全に寝入るまで背を撫で続けてくれたお陰か久々にゆっくりと眠る事が出来た。
▇◇ー◈ー◇▇
次