忍者ブログ

スターレイル用

情緒纏綿の恋心2


▇◇ー◈ー◇▇

 目が覚めた瞬間、『死にたい』そんな衝動が湧く。
 僅かでも栄養を取り、休んだ事で体力が戻ると希死念慮が強くなる。

 しかし、ここは他人の家。
 扉の向こう側には人が動く気配がして、あんなに優しい少年の住屋を己如きが汚してしまう事は自分自身が赦せなかった。

 衝動が落ち付くまで、何も考えないようにするために真っ暗なクローゼットへ自ら籠もり、目を閉じ、耳を塞いで蹲る。暫くすると寝室へ人が入ってくる気配を感じ、
「刃さん?」
 己を探しているような声がした。
 二、三分ほどして扉が閉まり、刃は再び暗闇に身を委ねる。このまま溶けて消えてしまえればいいのに。そうは思えども、出来ないのが人間だ。

 じっとしていれば、生命活動をする肉体が食料を求めて腹を鳴らし、下腹部に溜まる物がある。このまま、誰も居なくなるまで待っていたいのにままならない。

 クローゼットの扉に耳を着け、人の気配を探るが外は静かなもので、少年は学生のようにも見えたため、学校へと行ったのかもしれない。好機だと刃は考える。
 このままトイレだけを借り、出て行ってしまおう。これ以上の迷惑はかけられない。それから、邪魔されない場所を探して己は死ぬべきだと結論を出すと、クローゼットを開いた。
「お早うございます。朝食出来てますよ」
 寝台に寄りかかりながら本を読んでいた少年が、事もなげに朝の挨拶と共に刃を朝食へと誘う。
「あ、う、えぅ……」
「気配殺すのが得意なもんで、驚かせてすみません」
 驚きすぎて漏らしそうになった刃は足を内に締め、床に蹲りながらどうにか耐える。
「どうかしたんですか?具合……」
 背中を摩られ、刃が真っ赤な顔で見上げると何故か少年も頬を赤らめる。
「あ、もしかしてトイレ?あとちょっと我慢して下さいね」
 もじもじ足を摺り合わせている様子から察した少年が、そうっと刃の手を取って誘導する。
 トイレは何とか間に合って、最低限の尊厳を守れて安堵する刃だったが、これから死ぬのに漏らすくらいを気にするなど本当に死ぬ気があるのか悩んだが、他人の家で漏らして掃除をして貰うなど死ぬより嫌ではないか。
 己を納得させ、トイレから出ると少年が待ち構えていた。トイレと玄関は近く、刃は視線を外へと続く扉へ泳がせるが、手首を掴まれて浴室の手洗い場へと連れて行かれた。逃げられない。
「冷えてしまいましたが、ご飯にしましょう。消化にいいようミルク粥にしてみました」
 刃が手洗いを終えると、タオルを出して拭いてくれた。
 この子は何故にこうも世話を焼いてくれるのか。
 友人どころか知人ですらない赤の他人である。
「なんで……」
「お話は食べながらしましょう」
「はい……」
 疑問をぶつけようとすれば、矢張り手を握られて食卓まで誘導される。
 刃の住屋と比べるまでもなく広い部屋だった。寝室だけでも刃の部屋がすっぽりと入りそうで、学生の割にいい生活をしているようだ。
「何から話せばいいのか……」
「なんで、こんなに世話してくれるんだ……?」
 悩む少年に面倒を見てくれる理由を尋ねる。
 例えば福祉関係の仕事がしたいとか、他人の役に立ちたいだとか、何かしら理由がなければ、この甲斐甲斐しさは意味が分からない。
「貴方と会うのは、初めてじゃないんですよね。覚えてないとは思いますが」
「すまない、全く……」
「いえ、いいんです。俺もまだ小さかったですし」
 少年が語るには七歳の時分に兄と応星の家を訪ね、最初こそ会話に混ざっていたが、いつの間にか二人は良く分からない機械や音楽の話に夢中になり、トイレに行きたくなった彼は静かに廊下に出た。しかし、人の家故に勝手が分からず、楽しそうに話している兄達の邪魔もし辛い。所在なく廊下に立ち尽くしている間に限界を迎え、彼は漏らしてしまった。
 足を濡らす生暖かい水溜まり、張り付いて気持ち悪い服、立ち上る臭気。恥ずかしくてみっともなくて、震えながら涙ぐんでいれば刃が気付いて声をかけ、汚れを厭わず抱え上げると風呂に入れてくれた上に服を洗っている間、自分の服を貸してくれた。
 そのまま、兄達が騒ぐ部屋の隣で少年が寝落ちるまで膝の乗せて本の読み聞かせなどをし、随分と構ってくれたのだと言う。
「あった……、ような……」
 刃が奥底に潜んでいた記憶を懸命に掘り返すも、あったような気がする。程度ではっきりとは出てこない。
「たった一回ですし、その後、俺も友達が出来て兄と一緒に行動する事が減ったので、仕方ありませんよ」
「しかし、君は覚えている……」
「まぁ、初恋だったので」
 理解し難い言葉が少年の口から吐き出され、ミルク粥を口に運ぼうとしていた刃の手が止まる。今も昔も愛想などは一切無く、ただただ陰気でつまらない人間であった己が他人から好かれる要素などあったのか。少しばかり優しくされただけで相手に心を寄せてしまうとは、なんて惚れっぽい子だ。と、思いつつも世話になった手前、口を噤む。
「こんな人間で幻滅しただろう……。すまない……」
 理由はともあれ、初恋の人間は記憶の中で輝いているもの。その相手がこんなにも見窄らしくなっていては落胆は免れず、今、優しくしてくれているのは微かに残った情故か。
「迷惑をかけた。食べ終わったら家に帰る」
 一度、情を寄せてしまえば見捨てられない。
 どこまでも優しい子なのだろう。だが、彼には悪いが、もう疲れてしまった。入院や諸々のトラブルで本業も滞ってしまい、信用も信頼も地に落ち、恐らくは解雇される。住む家もなく野垂れ死にするくらいなら、今、潔く死を選ぶべきなのだ。
 刃の思考は『死』一色となり、抜け出せない。
「駄目です」
 自らの人生を自己完結させ、終えようとしていた刃が少年のはっきりと断じる声に顔を上げる。
 「パパラッチみたいな変なのが家の周りに居ると思うので、帰らないでここに居てください。鍵は預かってるので、必要な荷物は俺が取ってきます」
「俺なんかを置いてたら、君にも迷惑が……」
 家を出る口実を主張するが、少年は首を振る。
「放っておけませんし、貴方が気にするほど迷惑ではないので、ここに居て下さい」
 頑として譲らないとする瞳が刃を見据え、少年は刃の隣に移動すると左手を取る。
「これ、俺の許可無く外さないで下さいね?絶対ですよ?」
 四角い液晶に、透かし編みのチェーンベルトがついたスマートウォッチが手首に巻かれ、かち。と、小さな音に違和感を持って手首を返せば小さな南京錠がついていた。
「調子が優れないようなので、薬を持ってきます。昨日飲んでませんよね?」
「はい……」
 匙を置いて、手首に巻かれたチェーンを触り、南京錠を引く。
 そこまで堅固な作りではないため、無理矢理外そうとすれば十分外れそうだったが、少年の顔を思い浮かべれば心理的な抑制がかかるのか、引こうとしても力が入らない。
「どうぞ、ご飯を食べたら飲んで下さい」
 病院から貰った薬を食器の隣に置かれ、刃は少年を見上げる。
「ちゃんと貴方が飲んでいる薬ですよ。応星さんに持ってきて貰いました」
 それを疑った訳ではないが、『何故』が顔の前面に出ていたのか、少年は暫し考えた後、
「実は、貴方のファンでもあるんです」
 などと告白した。
 『ファン』の三文字にいい記憶が無い刃は息を詰まらせ、全身を強ばらせる。
「誤解しないでください。貴方の翻訳のファンです。原文の良さを崩さないようにしながらも緻密で繊細な描写を用いて読者に伝えようとする丁寧な文章がとても心地好くて、図鑑、論文、小説も、俺は貴方が翻訳したものは全部持ってます」
 言葉だけでは信用に欠けると判断したか少年が寝室に引っ込み、程なくして本を何冊か持って出てくる。
「これ、初版です」
 差し出されたのは世界の珍しい動物が紹介された図鑑。随分読み込んだのか表紙がすり切れ、頁に捲り癖がついていた。
「これ、初めてやった仕事の奴だな……」
 懐かしさを覚えて表紙を指先で撫でる。
 何の信用も実績も、後ろ盾もない己を編集長が文章の長くない物から。と、与えてくれた仕事だった。
「最初は貴方だと知らずに読んでました。文面からどんな人だろうと想像しながら読んでいたんですが、兄が貴方だと教えてくれたんです」
 本が出た際、弟が翻訳した物だ。と、応星が自慢して回り、メンバーやスタッフ全員に配っていたため印象深かったそうで、実弟が知らずに持っていた事に驚いたらしい。
「はは、重ね重ね夢を壊して悪いな……」
 奇妙な縁だ。
 乾いた笑いしか漏れない。
 初恋も、憧れも、全部ぶち壊してしまった罪悪感が止めどなく湧く。
「うーん……、取りあえず食べて下さい」
 刃が置いた匙を少年が手に取り、ミルク粥を掬って口に押し込む。
「呑み込んで」
「ん……」
 刃が呑み込んだ事を確認すると、もう一度掬い、口に押し込む。皿が空になるまで続けられ、最後は薬を乗せて呑まされた。
「はい、お疲れ様です。水分も取って下さい」
 常温の水が入ったコップを渡され、飲むように促されて刃は従う。
「荷物取ってくるので、その間、休んでて下さい。この家にある物は何でも自由に使って構いません」
 何となしに出て行く少年を追って玄関まで行くと、薄く微笑まれただけで、外出はさせてくれないようだった。
「外に出たら判りますので、大人しく待ってて下さいね?」
 些か心臓が縮むような科白を吐かれ、刃は扉が閉まる様を眺めていた。鍵もしっかりかけられた。無論、内鍵はついているので開けようと思えば開けられる。が、忠告から鑑みるに、外に出るなとの命令だろう。
「疲れたな……」
 刃は、ぽつ。と、呟いてのろのろした動作で玄関の近くにあった台所へ入ると口を濯ぎ、寝室に向かうと布団の中に潜り込んだ。

 ▇◇ー◈ー◇▇

 顔を触られている感触で刃は瞼を上げ、薄暗がりで覗き込む少年を視認する。
「なん……」
「刃さんって髭生えないんですか?」
 寝起き故に発声が上手くいかず、惚けた声になったが少年には伝わったのか、素朴で率直な疑問をぶつけてくる。
「これは……、おうせいが、だつもう……、付き合って……」
 体を起こそうとすれば頭が重く、目眩がして軽い吐き気がした。
 力が抜けて寝台へ逆戻りし、声が出せずに目元を腕で覆っていれば回答は諦めたのか少年が寝室から出て行く気配がした。
「刃さん、水です。体起こせますか?」
 小さく呻くと背中に手を回され、介助されながら体を起こすと唇に冷たく固い感触が触れた。唇を開けばゆるりと液体を注がれ、嚥下する。
 水分不足にでもなっていたのか、するすると入ってくる液体が体の芯に灯った嫌な熱が拭ってくれているようで、少しずつ一本を飲み切ると頭を少年の肩に預けて深い溜息を吐いた。
「すまない……」
「大丈夫です。今の貴方は休む事が仕事ですから」
 兄の次はこんな子供に依存して情けない。
 自罰的な思考に囚われそうになると背中に回された少年の手に力が籠もり、刃の髪を撫でて落ち付かせようとしてくる。どこまでも甘やかそうとしてくる様子から情の深さは伝わるが、初恋だの憧れだの、さっさと捨てて欲しい。
 兄は元より若者の重荷になどなりたくないのだ。
「貴方の仕事道具と、服も持ってきたので体調が戻ったらリビングに来て下さい」
「わかった……」
 丁寧に寝かされ、霞む視界で少年の背を捉える。
 学校は。そう言いたくなったが、今日が何月の何日で何曜日かすら判らなくなった事に気がつき、両手で顔を覆う。

 時間すらまともに判らない。
 大人としてどころか人間としても終わりかけている。
 半端になってしまった仕事も謝罪しなければいけないのに、体が動かない。
 頭では解っている。解っているのに何もできないもどかしさで自身へ苛立ち、鬱屈した感情が溢れてくる。

 駄目だ。
 駄目だ。

 あの少年が折角、動いてくれた。
 無駄にしては。

 それだけの意思で刃は寝台から這い出し、扉の前まで赤ん坊のように移動しながら扉の取っ手を握る。
 取っ手と壁を支えに時間をかけて立ち上がり、扉を開いて居間の眩しさに眼を細めていれば、直ぐ傍に少年が立っており、当然のように手を取られた。
「ソファーまで手伝います」
「すま……」
「謝らないで下さい。好きでやってるので」
 刃が反射的に謝ろうとすれば、口を塞がれてしまった。
 人助けを好むとは、かなり博愛精神が強いようだ。
「消化にいいように、またお粥にはしましたけど、生姜とか薬味は大丈夫でしたか?」
「何でも食べる……」
 刃は味覚が壊れているのか、碌に味を感じない。気にした事もなかったものを改めて訊かれ、昔は好物もあったと思い出す。
「じゃあ、直ぐよそってきますんで」
 刃の荷物を纏めたソファーから少年は離れ、居間とカウンターで繋がっている台所に入ると鍋を掻き混ぜている動作が見えた。頻繁に自炊をしている手際の良さが垣間見え、碌に料理などせずに簡易食ばかり囓っていた己がまた情けなくなってくる。
 人と比較してはいけないと上っ面の思考では理解していても上手くいかない物だ。

「どうぞ、味は薄めにしてあります。足りなかったら言って下さい」
 目の前に置かれた玉子粥の入った椀を持ち、匙で口に運べば僅かに生姜の香りがして、食べ終わる頃には不快ではない暖かさがじんわり広がっていく。
「まだ要りますか?」
「もういい……、すまない、あまり食べれなくて……」
「謝らなくてもいいですよ。少しずつ増やしましょう」
 幼い頃は、応星と食べる甘い物を好んでいた気がした。
 味も良く分からなくなったのに、簡易食の中でもチョコレート味やフルーツ味を手にとっていたのは、少しでも嬉しかった記憶をなぞりたかったのか。
「食事だけでも疲れるでしょうし、もう休みますか?」
「もう少し、大丈夫。電話をしたい……」
「あぁ、充電しておきました。電源は点けてませんので、プライバシーは安心して下さい」
 気遣いの塊のような対応を受け、ここに居ては駄目人間が加速しそうな予感をひしひしと感じた。
 電源を入れれば次から次に通知が入り、刃は目を剥いて固まる。開くのが怖い。絶対にあるだろう苦情の連絡に胃が軋むような心地になりながら、薄目になりつつ確認していく。

 一番、目についたのは応星からの連絡。
 昨夜から他愛ない日常会話、返事が来ない事を気にする文言、少年、丹恒と仲良くしているか、何を食べたとか睡眠時以外は一時間ごとにメッセージを送っていた。返事がなくともめげない姿勢は最早、天晴れである。
 次いで会社からの連絡。退院報告は応星がしてくれたらしいと聞いている。しかし、向こうは家族ではなく金銭が絡む関係である。与えられた業務を期限までにやれない人間は不要なのだ。不要になれば、今の時代は簡単に切り捨てられる。
「ん……?」
「どうしました?」
「傷病手当とは何か分かるか?」
 気が利く少年らしく、お茶を淹れていたが、信じられない面持ちで凝視され、尻の据わりが悪い。
「労働者の権利ですよ……、病気や怪我で仕事を休まざる得なくなった場合に出る手当です。法律で定められています」
「へぇ……」
 会社からのメールには、傷病手当を申請するように。だとか、心配する言葉が綴られるものばかりで安堵はしたが、業務を放り出したも同然の己を何故、責めないのかの方が気になった。
「電話してくる……」
「立てますか?」
「あぁ、大分、楽になってきたから」
 決して強がりではなく、正直に伝えたのだが少年は不安だったのか立つ手伝いまでしてくれた。
 寝室まで移動し、編集長へと電話をかければ直ぐに出てくれる。
「お久しぶり。もう大丈夫なの?」
「あ、その……」
「そうじゃないみたいね。何が気になって電話してくれたのかしら?」
 刃が言い淀めば、彼女は相変わらず心を読むが如き察しの良さで涼やかな声を響かせる。
「仕事に穴を開けた分際で傷病手当なんて貰ってもいいのかと……」
「頭はいいのに、世間知らずな所があるとは思ってたけど、流石に驚いたわ。要項はメールに記載してるからそれ読んで……、難しいようならお兄さんか誰かに手伝って貰うか、最悪、私が行くから安心して。これは君の権利だからしっかり行使しなさい。それにね、君には元気になって貰わないと困るの」
「解雇しないんですか……?」
 穏やかでありながら芯のある声が、刃を窘めながらも背中を押す。
「君がやってた仕事のクライアントね、君の翻訳じゃ無いと嫌って言うのよ。今から粗末な翻訳家に任せるくらいなら本を出さないって」
 曰く、刃の豊富な語彙と繊細な描写は書いた者の意図を的確に汲み上げ、美しい形に組み立て直してくれる。彼の完璧な仕事ぶりに慣れたらとても他の者になど任せられない。そう言っていたそうだった。
「ねぇ、『聞いて』君は人から与えられる愛を自ら刃に変えて自分を傷つけてしまう癖があるわ。でも、少しだけでいいの、そのまま受け取ってみて?きっとそれは暖かく貴方の傷を癒やしてくれるものよ。君は自分が思っている以上に愛されてるのよ。自分から独りぼっちにならないで。ね?」
 刃は、はい。と、返事しか出来なかったものの、編集長はそれでも満足したようで、
「しっかり愛されて回復してきなさい。焦らなくていいからね」
 それだけを言うと通話を切ってしまった。
 ふわふわした夢見心地で居間へ戻ると、少年が新しくお茶を淹れて差し出してくれた。
「ありがとう……」
「はい」
 愛を、好意を受け取るなら謝罪じみた言葉よりも感謝の言葉がいいのか考えた結果、すまない。よりも気持ちが軽く、少年も目を細めて喜んでいるように見えた。
「お仕事どうでした?」
「しっかり休んで戻ってこいと……」
「そうですか。良かったですね」
 確実に解雇だろうと思い込んでいたが、刃が思うよりも世間は優しいらしい。
「応星にも連絡しないと……」
 ただでさえ忙しい応星が合間に刃を訪ねてきて、入院の世話、転居手続き、その他連絡ごとの諸々。何一つ自身ではやっていないのだから、全て応星が仕事の合間に走り回り、金も出してくれた事になる。これだけ気遣われ、世話になっていながら気付かず間借りしてだらだら過ごした挙げ句、独りよがりな思考に侵され衝動的な行動をした己を絞め殺したくなった。
「刃さん?」
 考え込みだしたかと思えば、膝を抱えて小さな塊になり出した刃の背中を撫で、少年が気遣わしげな声をかける。
「君にも迷惑を……」
「迷惑ではないので頼って下さい。俺は嬉しいので」
 生粋の世話焼きか、本物の仏だろうか。
 しかし、どれほど良くして貰っても刃自身は何も持っておらず、他人が何を望でいるのかも察せ無い。編集長は『愛』を受け取れと言ったが、受け取り方が判らない場合はどうしたらいいのか。
「名前、もう一度訊いてもいいか?」
「丹恒です。丹薬の丹に恒久の恒です」
 目の前に居るにもかかわらず、名前すら知覚できないのは果たしてどうか。たんこう。たんこう。と、頭の中で刃は何度も唱える。
「たんこう……、くん」
「はい」
 呼び捨てでも構いません。
 そう丹恒は付け加えたが、兄弟でもない相手に余りにも馴れ馴れしく感じてしまい、それだけは固辞した。

 食事や連絡、多少の会話だけで疲れてしまったのか、ソファーに凭れながら応星へとメッセージを綴ろうとするも刃の瞼は無意識に下がり、手は脱力してスマートフォンを取り落とす。膝に落とした衝撃で幾許か覚醒するも、直ぐ様睡魔は容赦なく眠剤をふりかけて眠りへと誘おうとする。
 刃が顔を顰めながら抗おうとしていると傍で笑う声が聞こえ、体を引き寄せられたかと思えば硬い枕と頭を撫でる手があった。
「休んでて下さい」
 頭上から聞こえる丹恒の声。
 静かな響きを持った落ち着く声である。
「で……」
「今は休むのが仕事ですから」
 反抗しようとしても肩をしかと掴む手の体温、一定の間隔で撫でられる感触が睡魔に加担し、敢えなく刃は陥落してしまう。

 ▇◇ー◈ー◇▇

 目を覚ませば変わらずソファーの上ではあるものの頭には枕、体には布団を掛けられており、正面に見える掃き出し窓はカーテンで外が見えない。
 背後の台所から音が聞こえ、背もたれを掴みながら起き上がると丹恒と目が合う。
「お早うございます」
「もう、朝?」
「夜ですね。お腹空きましたか?」
 問われても、空いているような。ないような。
 元々、味覚が曖昧で食欲などあって無いようなものだったがために、刃は首を傾げるしかない。
「一応作ってはあるので、食べられそうなら食べて下さい」
 丹恒の手で並べられていくのは蒸し野菜と煮魚に茶碗蒸し。
 最後に卵スープとお粥が置かれ、素晴らしいきちんとした食事に感動する。
「料理、上手なんだな?」
「お手伝いさんに教えて貰いました」
「なるほど……」
 彼の兄は、芸能活動もしているが大きな会社で副社長の肩書きも持っていると聞いた事があった。興味も無かったため詳しくは記憶にないが、実家がかなり大きい事は間違いない。
「俺なんかに、構ってていいのか?」
「どういう意味ですか?」
 料理もきちんと作ろうとすれば時間がかかる。
 丹恒が将来どうしたいのかは刃には知れないものの、勉強したい事、しなければならない事は幾らでもあろうだろう。こんな人間に時間を割いていて良いのか、訥々と刃が語れば丹恒は難しい顔をする。
「取りあえず食事にしましょう」
 刃の隣に座り、匙を手に先ずは粥を一口分押し込まれた。
「熱くないですか」
「あぁ……」
 次いで蒸し野菜、茶碗蒸しと代わる代わるに食べさせられ、腹が苦しくなって刃が顔を背けると、最後に一口だけ。と、薬が乗った粥を含まされる。
「残りは俺が食べるので、気にしないで下さい」
 水の入ったコップを渡され、飲み終わると脱衣所へと押し込まれた。
「洗うの手伝いますか?」
「今日は、大丈夫……」
「はい、シャワーは任せます」
「あ、はい」
 強引にはぐらかされたのは判るのだが、どう指摘すればいいのか思いつかず、刃は素直に服を脱がされて浴室へと誘導される。
 ここまで来たからには体を流さない選択肢はなく、寝乱れていながらも形は保っている編まれた髪を解し、シャワーの取っ手を捻れば暖かいお湯が頭上から降り注ぐ。
 浴室は浴槽と洗い場が分かれており、慣れない広さに落ち着かないがユニットバスの中でもぞもぞ体を洗っていた時期と比べれば広々として快適である。
「どうやったら俺を諦めてくれるんだろうか……」
 ぼやきながら全身を洗い、泡を流して出ると当然とばかりに丹恒がバスタオルを構えている。最早何も考えずに任せた方が良いのか、頭の中が疑問符で満たされている間にバスローブを着せられ、昨日と同じように髪を乾かされる。
 場所はソファーに座ってであるが乾いたら髪を編まれるのも変わらず。
「歯磨きしましょう。歯ブラシは洗面台の裏にある青い奴です。緑は俺のです」
 為す術もなく手を引かれ、仲良く並んでの歯磨き。
 応星といつでも一緒に居た子供時代以来である。
「では休みましょう」
「眠くない……」
「目を閉じておくだけでもいいですから」
 丹恒は刃を寝室のベッドに座らせ、自身は風呂へと行く。
 どうしようか困っていれば寝台の脇棚の上に本が数冊あり、手持ち無沙汰の余り開いて見れば絵しかない絵本のようだった。不思議の国のアリスのように、不思議な世界に迷い込んだ少女の物語。

 科白はないが、登場人物の過剰にも見える表情や動きで驚いたり、悲しんだり、怒ったりする様子は分かる。少女は動物達の助けを借り、様々な困難を乗り越えながら自身の大切な家に帰り着くと、両親らしい二人に抱き締められる幸福な終わり方だった。
 丹恒の趣味なのか考えながらも鮮やかな色彩で描かれた絵が愛らしく、冒頭から捲り直す。科白が無いため説教臭さもなく、物語がすんなりと呑み込めて良い読後感だった。
「それ、気に入りましたか?」
「悪くはない……」
 ハーフパンツにTシャツを着た丹恒が寝室に来る。良く考えればここは彼の家で、寝台は一つしか無い。
「すまない、俺はソファーで……」
「行かなくてもいいですから」
 立ち上がろうとして肩を押さえられ、寝るように促される。
 拒否は聞いて貰えず、布団を掛けられて背中越しに丹恒の体温がある状況に緊張する。
「俺は無駄に大きいし、狭いだろう……」
「じゃあ、明日もう一つベッド買ってきます」
 そんな話はしていないのだが、もう丹恒の中では決定事項なのか返事をしなくなった。それどころか眠りを促すように抱き締め、頭を撫でてくる。
 刃が眠る事を優先し、譲らない姿勢は従わざるを得ないのだろう。
 彼は好意でやっているのだから、せめて目を閉じる。

 すると、日中あれほど寝ていたにもかかわらず刃の意識は暗闇に落ちていき、気がつけば寝室のカーテンから朝日が差し込み、丹恒は朝食の準備をしていた。

 ▇◇ー◈ー◇▇

拍手

PR

コメント

プロフィール

HN:
No Name Ninja
性別:
非公開

P R