縁の切れ目は仔で繋がる:前
▇◇ー◈ー◇▇
「丹恒、俺はお前が刃ちゃんとどんなプレイに勤しんでたとしても親友だからな」
「何を言っているんだお前は……」
「だって……」
今、丹恒の手には胡麻パイの涎まみれになったおしゃぶりがある。
それを穹は指差して、『俺は味方だから』などと宣うのだからたまったものではない。
「これは胡麻パイの物で、流石に一日一回は洗わないと不潔だから洗っているだけだ」
パーティ車両で朝食を取った後、カウンターの内側にある洗い場で食器を洗うついでに胡麻パイのおしゃぶりを洗浄していただけで、あらぬ誤解を受けた丹恒は親友であるはずの穹に『頭は大丈夫か』そう尋ねたくなった。
「俺が刃と何をすると言うんだ……」
「だって、なんか仲良くない?」
「監視しているだけだ」
あれから、何度か刃が缶詰を持って訪ねれば胡麻パイが甘えたがるため、その度に資料室に籠もってはいた。が、刃は胡麻パイをあやし、丹恒はそれを見ているだけなのだ。なのに、この親友は何を思ったのか良からぬ妄想をしていたらしい。
「ふぅん?刃ちゃんってさ、本当に胡麻パイのママみたいだよね。てことは、作った俺はパパかな⁉」
「馬鹿を言うな。あれは庇護された相手に甘えているだけだ」
特に洗い物を手伝うでもなく、穹は目の前のカウンターに座りながら四方山話をする。他愛ないものと理解はしているが、どことなく心に靄がかかったような、嫌な感覚がして丹恒は小さく嘆息すると、洗ったばかりのおしゃぶりを渡し、
「自分の目で見てくるといい。資料室にいるはずだ。驚かせないようにゆっくり入るんだぞ」
そう言って、胡麻パイへおしゃぶりを配達するように頼む。
穹は胡麻パイの可愛い姿が見たいのか、受け取ると直ぐに飛び出していった。かと思えば五分も経たずに戻ってきて、洗い物中の丹恒の肩を抱きながら強引に引き寄せ、端末の画面を注視させる。
「可愛くない……?」
「なんだ?」
一見すれば、胡麻パイがただ手を嘗めているような様子だったが、微かに聞こえてくる音と共に、しかと確認すれば、自身の肉球をおしゃぶり代わりに吸っているらしかった。うっとりと眼を細め、遠くを見ながら一心不乱に肉球を吸っている。
「吸う行為が精神安定剤になっているんだろうか……」
「それは分かんないけど、丹恒にも動画送っとくな。んじゃ、おしゃぶり渡してくる」
見せて満足した穹が、再び飛び出す。
落ち着きのない行動に、パムが遠くから叱りつけているが聞こえてはいないだろう。
洗い物を終え、資料室に戻った丹恒が目にしたものは床に這いつくばりながら、おしゃぶりを咥えた胡麻パイの写真を撮りまくっている穹の姿である。穹の奇行に関しては通常運行で在るため、特に気にする事なく丹恒はアーカイブ整理を開始する。
「おしゃぶりって美味しいの?」
何十枚も撮って満足した穹が胡麻パイに訊ねれば、曰く、『ママの匂いがする』らしいのだが、部屋は散らかった被毛を片付けるために何度も掃除をしており、おしゃぶりも定期的に洗っているのだから匂いなど残っているはずもない。とは言え、折角、精神が安定してきたのだ。野暮は止めて置いた方が無難だろう。
「胡麻パイは刃ちゃんが大好きだねー」
穹が丹恒の寝床でごろごろしながら胡麻パイと戯れていれば、彼の端末から音が鳴る。
「また何かの依頼か?」
「んーん、刃ちゃんにさっきの胡麻パイの動画と写真送ってあげたんだけど、銀狼だこれ。『なにこれ、ちょーかわいい』だって」
「携帯するべき端末を軽率に貸してるんだな……」
「いつもだよー。刃ちゃんのアイコンで『やっほー』とか来るから面白いけどさー、刃ちゃんは全然返事してくれないんだよね」
自らの肉球を吸い、おしゃぶりを口にした胡麻パイの写真を刃へと送ったものの、既読はついても何の返事もしない彼に対して口を尖らせて不満を漏らす。
「彼奴が何をしているかは知らんが、あまり邪魔してやるな」
穹とのやり取りを聞いていれば忘れそうになるが、相手は宇宙規模で指名手配された犯罪者なのだ。深入りは感心出来ない。
親友の奔放さに感心半分、呆れ半分。
それと、羨ましさがほんの少し。
初手から殺そうとしてきた相手に難しい話しではあるものの、穹のような柔軟さが己にあれば、刃との関係は別の物になっていたのか悩む事がある。
何というか、穹はめげない。『刃ちゃん』呼びも、最初は嫌がられていた。否、怒りを買っていたらしいのだが、持ち前の愛嬌や真っ直ぐさで諦めさせてしまった。どんな相手でもめげずに向き合う彼の剛直さが、最終的に心を開かざるを得なくさせるのだろう。真似しようと思って出来る物ではないが、憧れを感じる。
「胡麻パイも寝ちゃったし、ゲームしてくる」
「あぁ、余り長時間やるんじゃないぞ」
「解ったー」
銀狼とゲームの約束でもしたのか、勢い良く飛び起きた穹は跳ねるような足取りで資料室を後にした。
いつも元気な穹を見送り、常に敷きっぱなしの寝床に視線を移せば、おしゃぶりを咥えたまま眠ってしまった胡麻パイが幸せそうに眠っている。
一緒に仲良く暮らしていたのに譲渡され、会いに来てくれないから捨てられた。との悩みが解消された胡麻パイの精神面は今でこそ安定しているが、この関係が延々続くとも思えない。運命の奴隷に絶対の忠誠を誓っている刃が『もう胡麻パイの元へ行ってはならない』と、命令されれば確実に従うだろうからだ。
刃が必要ないほど、精神的に自立してくれれば良いが、おしゃぶりを大事に抱える姿からはとても想像が出来そうにない。
▇◇ー◈ー◇▇
「ママは今度いつ来るの?」
「ご飯がなくなったら……?」
胡麻パイが無邪気に訊ね、毎度の如く資料室に籠もって論文を書いていた丹恒が首を傾げつつ答える。
「後どれくらい?」
「まだ大分あったと思うが……」
広々とした穹の部屋に置かせて貰っているコンテナを一人と一匹で確認に行けば、中にはまだまだ大量の缶詰が入っており、縁に足をかけて体を伸ばしながら中身を見る胡麻パイの顔は険しくなっている。これでは『ママ』が会いに来てくれない。
「ゴミケーキ、これ全部食べて」
「いいよ!」
「駄目だ。一日に決まった量と約束しただろう」
刃に会いたいがために強硬手段をとろうとした胡麻パイと乗っかろうと駆け寄ってきたゴミケーキを窘る。離れた寝台で寛いでいるサングラスにゃんこは馬鹿馬鹿しいとばかりに大欠伸。
可笑しな知恵が回るようになって来た胡麻パイに頭を悩ませるが、ふ。と、妙案が浮かぶ。
「刃……、あー、妈妈が今度来るまで、お前に一つずつ課題を与える。それを達成できたら花丸をやろう。それを見せたら彼奴も喜ぶ」
「ママが喜んでくれるの?」
丹恒がしかと頷けば、胡麻パイはやる気になったようで、何をすれば良いか訊ねてくる。
ルアンの創造物である彼等は基本的に働き者だ。それぞれに自立して独自のコミュニティを築きながらロボット達と一緒に最下層のシステムを管理している。胡麻パイにも出来ない事はない筈だ。
「先ずは、そうだな……、好きなものばかりを食べずに、色んな物を食べる訓練だ。どうしても食べられないものは無理しなくてもいい」
「美味しい物がいい……」
気持ち的には理解できる。
しかし、これから先、この缶詰だけを食べ続けられる保証がない以上、必要な訓練である。
「お前がどこかの惑星に転送された時、食べ物は見つけられたか?」
丹恒の問いに胡麻パイは押し黙る。
「じ……、妈妈がお前を見つけてくれなければ、飢えて死んでしまっていたかも知れない。俺達が居ない場所でも、安全な食料を見つける知識は生き延びるために重要な要素になる」
胡麻パイが、ヘルタから見知らぬ惑星へと転送され、食べる物も暖をとるための場所もなく、追いかけてくる見慣れない動物から必死に逃げていた事を思い出したのか、体が小刻みに震え出す。
「ゴミケーキを見ろ。彼奴はそれこそ何でも食べる。逞しくどこでも生きていけるだろう。格好いいと思わないか」
もしも、災禍に見舞われた際、創造物の中でも随一のしぶとさ、逞しさを誇るであろうゴミケーキを丹恒が指し示す。件のゴミケーキは小腹が空いたのか丁度、齧っていた空の缶詰めを咀嚼し、呑み込んだところだ。
「凄いとは思う……」
「そうだろう。彼奴のようにゴミは食べなくともいいが、色々食べられた方が何かとお得だ」
星穹列車、或いはヘルタに居れば食料には困らないだろうが、あれは嫌、これは嫌。では心労が溜まるばかりで、妥協を覚える事も処世術の一つだ。
「色々勉強していこう」
「したら、ママは偉いって褒めてくれるんだよね?」
「あぁ、褒めてくれるとも」
胡麻パイは純粋な眼差しを丹恒の向け、丹恒もそれを肯定する。
丹恒は、刃が胡麻パイに甘い様子を何度も見てきた。甘えられて鬱陶しがっているように見えても強くは叱らず、根気強くあやしている。何一つ許可は取っていないが、胡麻パイが褒めて欲しいと強請れば合わせてくれるだろう信頼はあった。
先ず、創造物が食べられる物を確認し、丹恒は紙に課題一覧を作ると朝、昼は缶詰以外の物を食べさせ、夜にご褒美としてやる。以前も似たような試行錯誤はしたのだが、その際は匂いを嗅いで無視するか、一口食べても吐き出す、食べても不味いとぐずってしまっていた。
「缶詰の方が美味しいけど、他のも美味しいかも……」
刃に褒められたい。認めて貰いたい気持ちがあるだけで、こうも違いが出るものなのか内心驚きながら丹恒は胡麻パイの頭を撫で、一覧に花丸を点ける。
「ほら、一個丸がついた」
一覧用紙に朱で点けた花丸を見せれば、胡麻パイは解り易く顔が緩み、飛び跳ねて喜ぶ。
「次は何をしたらいい?」
「端末の使い方を教えよう、宇宙ステーションヘルタでは胡麻パイの仲間が各々役割を持って働いていたと聞いている。覚えておいて損はない。次は少しお出かけして、もしも遭難してしまった際の安全確保の勉強だ。最初は良く解らなくとも繰り返していく事で解るようになる」
胡麻パイが丹恒の膝に乗り、手に持った端末を興味深そうに覗き込む。
「少しずつ覚えていくと良い」
丹恒は仙舟より永世追放されてから星穹列車に拾われるまで、様々な惑星に行き、野宿で一夜を過ごし、カンパニーの職員として働いた経験もある。貴人である丹楓では決してやらないだろう生活も、犯罪紛いの行為も生きるためにやって来た。
そんな経験は、出来得るならばしない方がいいと断言は出来るものの、知っていれば有事の対処に役立つ。救われたとは言え、安全な場所から突然、転送されて孤独と恐怖を味わった胡麻パイなら必要性が理解出来るだろう。
最初の動機こそ『刃に褒められたい』とする物だったが、用紙に花丸が点き、出来る事が増えて行く己に楽しさを見いだしたのか、十日も経つ頃には自ら出来る事を探してはやってみて、失敗すればどう改善するべきか丹恒へ相談に来るようになった。
学習能力の高さは、流石天才クラブ、ルアンの創造物と言ったところだろうか。一ヶ月も経つ頃には達成できた項目に小さな花丸が並び、書く場所がなくなれば用紙一杯に大きな花丸が描かれた。
資料室の柵に貼った紙一杯に書かれた花丸を胡麻パイが丹恒の布団の上にて嬉しそうに眺めている。まだ幾許か缶詰に余裕はあるが、穹に頼んで刃へと胡麻パイの頑張りを報告して貰った。
返信は珍しく刃自身がしたのか『そうか』とだけ返ってきたそうで、実に彼らしい。
「よく頑張っている。この調子で沢山覚えていこう」
「うん、パパありがとう!」
「爸爸……?」
新しい課題を作り、胡麻パイが見やすいよう柵に貼り付けていた丹恒が、予想外の呼び名に驚いて目を丸くする。
「サングラスにゃんこがね、優しくて大事にしてくれるママが居るなら、色んな事を教えてくれる丹恒はパパだね。って教えてくれたの。だからパパ」
「なるほど……」
この無邪気に慕う瞳を邪険に扱える者が果たして居るのだろうか。広い宇宙全土を探せば居るには居るだろうが、少なくとも丹恒にはとても出来なかった。
▇◇ー◈ー◇▇
「刃、胡麻パイの言葉に他意はないし、俺もない。だから剣を抜くような真似だけは止めてくれ」
いつも通り、戦闘を想定しない服装で創造物の餌を持ってきただけの刃が、出会い頭に丹恒から忠告を受け、訝しげに眉を顰める。それも当然で、刃は星穹列車内で剣を抜くような真似は一切していないのだ。
『抜くな』などと言いつつ、実は剣を抜かせようとしているのだとしたら、敵対行動とも言えるが、胡麻パイを言い訳に使っている辺りが不可解すぎて、まだ睨むに留めている。
丹恒と刃の二人から、不穏な空気が漂いだした頃、客室車両からラウンジへと続く扉が開いて胡麻パイが駆けてくる。
「ママー!」
胡麻パイはいつも通り、愛らしい声を上げながら刃へ向かって飛びつく。触覚の鈍くなった手でも感じる柔らかさや暖かさに、意識して口角が上がらないよう堪えていれば、
「パパがね、色んな事教えてくれたんだよ。ママにも教えてあげる」
謎の報告が齎され、刃は思わず無言で目を瞬かせながら胡麻パイを見詰めてしまった。
パパが、パパが、胡麻パイの口から何度も出てくる人物に該当する人間が思い浮かばず視線を丹恒に移す。
「説明するから移動しよう」
丹恒が先導して資料室に移動すれば、『パパ』の詳細を知った刃の口角があからさまに下がった。
「ママ、嫌な事でもあった?」
「いや……、お前が学んだ事を教えてくれ」
胡麻パイに真っ直ぐ見詰められては、不満も言いづらい。一旦は否定し、『パパ』はさて置いて胡麻パイの話を聞く姿勢に入る。
報告会は三十分以上続き、嫌な事があれば直ぐにぐずり、赤ん坊のように甘えていた胡麻パイが少しずつ自立への道を進んでいる事実を刃に伝える。
「良く頑張っているようだな」
「ママも嬉しい?」
「あぁ……」
以降も胡麻パイが『パパ』と一緒に課題を熟した話しが続き、時に刃が丹恒へと視線を寄越す。どういう感情から見てくるのか丹恒には解らず、それとなく目を合わせないようにする。
喋り疲れた胡麻パイがうとうとと寝入り、寝息を立て出すと刃は気怠げに息を吐いた。
「飲月、下らん呼び名を訂正しようとは思わなかったのか?」
「ならば、俺が飲月ではなく丹恒だ。と、伝えても止めない、妈妈と呼ばれても訂正しなかったお前はどうなんだ」
経緯は理解しつつも苦言を呈する刃に反論する丹恒も負けてはいない。
「貴様は飲月だろうが。妈妈呼ばわりは此奴が勝手に呼んでいるだけだ」
「俺だってそうだ。胡麻パイが爸爸と呼ぶから、本人に任せているだけに過ぎない。後、いい加減に俺と丹楓を区別しろ」
「区別だと?今は脚本のために見逃してやっているだけだ。調子に乗るな飲月」
「だから、俺は丹恒だと言っている!」
堂々巡りの言い合いをしながら睨み合っていれば、煩かったのか胡麻パイが目を覚まし、喧嘩をしている様子に目を潤ませ始める。
「パパとママは仲良くするんじゃないの?なんで喧嘩してるの?」
「けん、か……、は、していない。泣くな……」
誰が胡麻パイに入れ知恵をしたのか苦々しく思いながら、刃が撫でれば悲しみに歪んだ表情は緩むものの、涙を溜めた瞳が刃と丹恒を捉える。
「ほんとに?」
「あぁ、問題ない。だから、お前が悲しまなくていい」
浮いた涙を手巾で拭ってやり、ぎこちなく微笑む丹恒に胡麻パイは暫し無言で何をか考えていた。
「じゃあ、仲良しして」
考えた末の科白が何とも抽象的で、刃と丹恒の双方は困惑に視線を合わせる。
「お前の言う仲良しとはどういう風にするものなんだ?」
「サングラスにゃんこがね、一緒に寝たり、ご飯食べたりするのが『仲良し』だって言ってた」
丹恒が『仲良し』の定義を尋ねれば入れ知恵の犯人が判明し、あの妙にませた創造物を列車に置いておくべきではなかった後悔が過る。丹恒が爸爸だとする認識も、サングラスにゃんこが吹き込んだものなのだ。
「あれ、でもママもパパもずっと一緒じゃない……、なんで?」
「俺は……、他にやる事があってだな……。ずっとここには居られないから、い……、爸爸にお前をお願いしている」
見上げてくる胡麻パイの視線を避けるように、刃が壁を見やりながらぼそぼそと返す。
「そっか、ママはルアンみたいに忙しいんだ。でも帰ってきたら一緒に居るから仲良しだね」
刃の苦しい言い訳を好意的に受け取った胡麻パイが胸元に頭を擦り付け、撫でられる心地好さに再び目を閉じたため『創造物が純真で良かった』と、心から安堵する。
「疲れた。帰る……」
「丹恒だ」
胡麻パイを起こさないよう静かに渡そうとしてきた刃に対し、丹恒は受け取りながらも呼び名を訂正させようとする。
「爸爸が言えて、何故『丹恒』が言えないんだ、お前は」
「小煩い男だな。どうでもいいだろう」
「良くないから言っている。百歩譲っても飲月は歴代羅浮龍尊の称号であって俺の名前ではない」
「また喧嘩?」
呼び名で言い合いを始めた丹恒と刃を黒く大きい純真な瞳が見詰めていた。今度は不満に表情を険しくさせている胡麻パイに二人は言葉を詰まらせる。
「仲良しして!」
「な、仲良しだとも、なぁ?」
「う……、ぅむ……、では、俺はこれで……」
「駄目!」
適当な肯定で列車を去ろうとする刃へ、胡麻パイが丹恒の腕の中から強引に飛び移り、背中に爪を立ててぶら下がった。慌てて剥がそうとするも、刃の不器用な手では背に張り付く胡麻パイを捕まえられず、丹恒が手を伸ばして捕まえようとしても、ふくふくとした体格からは考えられないほど素早く逃げ回り、床に着地して扉の前に立ちはだかった。
全身の毛を逆立たせて唸り上げる胡麻パイ。腕の中に収まる程度の小さな生き物が威嚇したところで、刃にとって何一つ脅威ではないが自らを慕う生き物を害する程、人非人でもない。
「飲月、あれをどうにかしろ……」
「嫌われたくないからと俺に嫌な役目を押しつけるな。そもそも、名前くらいまともに呼べないお前が悪いんだろうが」
刃が図星を突かれ、苦虫を噛み潰したような表情で丹恒を睨んでいれば、
「ながよじじゅて!」
胡麻パイが声高に叫ぶ。
自身が慕う二人が不仲である状況に耐えられないのか、足で床を叩きながら激しくぐずり、二人は仲良くする事を強制される事態に陥る。ただ、丹恒と刃は腕を組んだまま、互いに半眼で相手を見やり動けないでいる。
「ばばどにゃにゃはにゃがよじじでぇー!」
怒っている胡麻パイの眼に涙が浮き出したかと思えば、しゃくり上げながら号泣し、咽せて嘔吐きながら叫ぶせいで聞き取れる言葉になっていない。が、何と言いたいかは解る。
「ごめん、何が起きてんの……?」
「ぎゅーっ、ばびゃとまみゃが、ながよじっしてぐれっない……!」
騒ぎを聞きつけた穹が恐る恐る扉を開き、様子伺いをすれば、ここぞと胡麻パイが不満をぶつけ、更に被害を拡大させていく。酸欠状態で無理に喋ろうとするせいで、胡麻パイは激しく咳き込みだし、先程食べた物を吐き出して苦しさから余計に泣き出す。
「胡麻パイ!落ち着け、大丈夫、刃ちゃんと丹恒は仲良しだから!ねっ⁉」
「あぁ……」
「うむ……」
尋常ならざる状況に、凄まじい剣幕で二人に肯定を促す穹だが、歯切れの悪い返事に胡麻パイは余計に傷ついたようで、泣き声はけたたましさを増すばかり。
「胡麻パイ、サングラスにゃんこやゴミケーキと遊ぼうか!」
このままでは悪化するばかりと考えた穹が、胡麻パイの返事を聞く前に抱えて資料室を飛び出し、遠ざかっていく泣き声の後には気不味い空間だけが残る。
「帰る……」
「解った」
吐瀉物を避けながら刃が資料室の扉を開き、一度だけ丹恒を顧みると数秒だけ見詰め、
「もう来ない」
それだけを言って背を向けた。
瞬間、丹恒の胸の裡に言い表しようのない激情が駆け巡り、刃が出て行く寸前で腕を掴むと強引に引き戻し、意識の外から腕を引かれた刃はたたらを踏み、吐瀉物を踏みつけて足を滑らせて引かれるまま床へと倒れ込んだ。
「貴様、何をする⁉」
「少しばかり、お前とは話し合わないといけないと思った」
苛立ちを声に滲ませ、丹恒が刃に馬乗りになると抵抗する腕を掴み、碧眼にて睥睨する。まだ姿こそ龍化はしていないが、感情の乱れから龍気溢れ出でて瞳がぼんやりと光を放つ。
「人に乗っかって話し合いか?随分と乱暴だな?」
「話し合いの途中で帰られても困るんでな」
鼻で嗤いながら挑発してくる刃を見据えながら丹恒が何度か深呼吸し、
「俺は、転生をしたとしても、過去が無かった事にはならないと理解した。『何も知らない』事を口実に、もうお前から逃げない。『最後まで付き合う』そう約束もした。なのに、何故、お前は俺と向き合ってくれない?俺は、俺を通して丹楓しか見ていないお前が腹立たしい」
一息に言い切ると、刃の腕を掴んだ手に力が籠もる。
「馬鹿馬鹿しい、俺は貴様に代価を払わせるために黄泉還った亡霊だ。それ以外、貴様に求めるものはない」
「そうだとしても、生まれた意味と生きる目的は等しい物ではない。お前には意思も感情も在る。せめて名前を呼んで、『今』を見て欲しい。それだけだ」
「名前程度で何が変わる」
「では、何故頑なに俺を飲月と呼ぶ?俺を別の個人だと認識してしまえば、お前にとって不都合があるのか?」
龍尊にも個々の名前がある。
丹恒も、龍尊としての力は受け継いでいても名は己で考えたものだ。丹楓ではない。
「俺の名は、丹恒だ」
視線を合わせようとせず、横を向いたまま動かない刃の顎を掴み、丹恒が強引に正面を向かせて顔を近づける。
「丹恒だ」
「これは話し合いではなく、強要だろう。鬱陶しい男だな」
「話を逸らすな。お前は、『彼』を表す際に一人称ではなく、区別するための名前を呼んでいた。既に『彼』である自認はなく、記憶や肉体を共有しているだけで『刃』と言う固有の人間性を確保しているんだろう?要は特性が持明族と変わらない認識だ」
「詭弁を……」
くどい言い回しが癪に障ったのか、自由になった手で刃が殴りかかるも、持ち前の反射速度で手首を掴まれ、床に縫い止められて形勢は変わらないまま。
「いい加減にしろ飲月」
「たった一言、お前が俺を認めれば良いだけだろうが。頑固な奴だな」
頑固。とは丹恒にも言えるのだが、要求する立場であるからか気付いてはいない。
「どうしたら、俺を見てくれる?」
「どうもこうもない……、貴様は飲月だ」
決して呼び名を変えようとしない刃に対し、丹恒は舌を打ちそうになるが、平静を欠いてしまえば堂々巡り。
「俺達は、もっと歩み寄るべきだ」
「歩み寄ってどうする」
嘲笑う刃へ、丹恒が手首を掴む手により力を込める。
「俺達は長命種で、必然的に定命の者達には置いて行かれる。俺は『最後まで付き合う』と、言った。それは、俺達が二人だけになってもだ。お前がここへ来るようになってから、俺も色々考えた」
もしも、二人だけになった場合、毎回殺し合う訳にもいかない。
刃の魔陰の症状を落ち着かせるため、カフカの言霊に変わるものが必要で、暗示は有用。薬はどの程度効果があるのか、本人の協力無しには解析不可能である。
「貴様の寿命は永遠ではなかろう……」
「『追行が長びいても構わない。そっちの方が面白い』お前が言ったんだぞ。ずっと俺と居るんだろう?自分から約束した事を反故にするのか?」
「そういう意味では……」
「転生してお前を忘れても、俺はお前を必ず見つける。約束する。だから不安にならなくてもいい」
羅浮に於いて、転生しても同じ相手に何度も求婚する持明族が居た。希有なら例ではあれど、魂に刻まれるほどの意志と情は次代にも引き継がれ、前世の己が書き記した記録があれば確実に実行可能であると判断した結果の科白である。
「は、陳腐な愛の告白だな」
しかし、刃からすれば児戯めいた希望的観測を口にする丹恒へ薄笑いと共に悪口でしか出て来ない。が、刃の言葉を受けた丹恒自身は衝撃を受けたように瞠目し、そのまま固まってしまう。じわじわと、丹恒の頬や耳が紅潮をし始めた事へ、嫌な予感しかしない。
「離せ……!」
「そうだな、あぁ……、うん……」
苦情に対する返事のようでありながら、独りで勝手に納得している丹恒から逃れようと刃が掴まれた腕を振り払うように動かせば、あっさり解放された。代わりとばかりに手を包まれて寒気が全身を駆け巡る。
「お前に対する感情が俺は良く分かってなかったが、そうか、愛か……」
長年、刃へ抱えていた恐怖、怒り、蟠りが解消された末に生まれた不明瞭な感情に名前を付けられ、丹恒は動揺しながらも納得してしまった。
「馬鹿か貴様は……⁉」
「何故怒る。お前が気付かせてくれたんだろう?」
「違う!本当に貴様は空気が読めないな⁉」
うっそりと笑む丹恒に鳥肌を立てながら刃が押し退けようと肩を押すも、今度は眉を下げてしょぼくれだしてしまった。
「昔はお前から俺を追ってきた癖に、何故、俺が近づいたら逃げるんだ。あれか、穹が言っていた……、つんでれ?とか言う……」
「つんでれは解らんが恐らく違う……」
「俺に恋愛経験は無いが……、お前の事もきちんと責任は取る。逃げないでくれ……」
「では……」
今直ぐ代価を払え。と、言おうとしたが、それでは脚本に支障が出る故に出来かね、カフカにも丹恒を害しないようにする言霊を強くかけられているのだ。どうにかしたくても、どうしようもない。
言葉を途中で止め、刃は全身を脱力させると顔を背けて肺から息を絞り出すような溜息を吐く。この押し問答も、丹恒の感情の否定も、面倒が勝ってしまった。
「もういい、好きにしろ……」
「なら、その……、連絡先を教えて貰えるか?いつも穹を介するのも手間だし、な……」
好きに。そう言ったからには、名呼びを強要か、服を剥かれる覚悟もしていたが、恋愛初心者らしく照れながら随分と奥手な提案に、思わず刃が片頬を上げて笑う。
「連絡先だけ知った程度でどうする」
「俺もナナシビトだ。アキヴィリの加護を受けた移動用の界域アンカーが使えるから、遠くても星穹列車が開拓した惑星ならば会いに行ける」
「勝手にしろ……、端末を出すから退け……」
刃が億劫そうに体を起こそうとすれば丹恒は脇に避け、刃の尻ポケットに入っていた通信端末を渡されると直ぐにメッセージを起動し、自身の物にも入力していく。
刃の端末に登録された名前は、当然のように『飲月』ではなく、『丹恒』になっていた。
「すまない、急ぎすぎた。今直ぐでなくてもいいから、いつか、名前を呼んでくれ……」
幸い、俺達には時間がある。
未来を語る丹恒は育成環境の違いか、我も押しも強く強引な丹楓とは違う生真面目さがあった。刃は通信端末を受け取り、吐瀉物を踏んだ靴を脱ぐと立ち上がる。
「本当にもう来ないのか?」
連絡先の確保は出来ても、刃が応じるかは解らない。
丹恒が脳裏に過った疑問を投げかける。
「時間が空けば、来てやってもいい。仕方ない……」
あからさまに面倒がる科白と態度を見ても、丹恒の目元は赤らみ、口角はほんのりと上がっている。彼を好む人間であれば、『愛らしい』との感情が溢れ、喜びが満ちるだろうが、刃の心の内は虚無である。
刃の生きる理由は、『飲月』に死を味わわせる事。この倏忽の恩賜を受けた不死の肉体を完全に殺しきる術を探す事。殺すべき対象に憐憫を抱かれ、情愛を込めた眼で見詰められる。最早拷問である。
敵対心を抱かれ、殺意を込めた瞳にて睨まれる方がどれほど安楽か。
「胡麻パイの写真でも送る」
「勝手にしろ……」
妙に疲れてしまった刃が片手に汚れた靴をぶら下げ、のろのろとラウンジへと向かえば、扉を開けて直ぐに穹の背中があった。
「小僧、何をしている」
「あ、話し終わったんだ?仲直りできた?」
自室でサングラスにゃんこやゴミケーキの力を借りながら胡麻パイを寝かしつけた穹が資料室に戻ると、未だ言い争う二人の声を聞きつけた。気を利かせたつもりでラウンジに移動し、人が入ってこないよう客室車両へ入る扉前で地蔵となっていたようだ。
「貴様には関係ない」
穹を無下にあしらい、刃は矢張りのろのろと溜息を吐きながら列車から去る。
翌日から、一日一枚ほど胡麻パイ、或いは開拓のために向かった惑星の景色を撮った写真だけが送られ、何も返信しない日々が続く。
▇◇ー◈ー◇▇
「刃、差し出がましいとは思うんだけどさ、返事くらいしてあげたら?」
任務後、自室で休んでいた刃の元へ、端末を借りに来た銀狼がやってきて苦情じみた発言をするものだから寝惚け眼で向けられた画面をよくよく眺める。映されていたのは丹恒とのやり取りメッセージである。最新は数分前だ。
「既読はついているだろう」
「私が見てるからでしょ。こないだ私が気を遣って可愛いね。って送ったら『誰だ貴様』って一瞬でばれたし、何なのあの竜の子」
刃としては、見られて困る物ではないが、勝手に返信するのもどうか。他人の返信だと見た瞬間、看破する丹恒もどうなのか。
「どうでもいい」
「刃が返事してるの、胡麻パイの禿げが治った報告の時だけじゃん。ガン無視は竜の子可哀想」
「銀狼、さっきからなんだ、たつのこ。とは……」
「丹恒?だっけ、持明族って龍の末裔なんでしょ?だから竜の子。うっかり外で名前使うと、ハンターの仲間だって勘違いされたら大変だしさ。渾名」
可笑しな渾名は彼女なりの気遣いのようだが、生体が全く違う水生生物の名を付けられ、連呼されている事を知ったらどんな顔をするのか、想像すると薄く刃の口元が緩む。
「あ、いいね」
ぱしゃ。と、機械的な音が鳴り、銀狼が端末の画面を弄っている。
「勝手に撮るな」
「竜の子も黙って画像ばっか送ってくるのも変だけど、ちょっとくらいは返して上げた方がいいんじゃない?列車とは友好的な方がいいってエリオも言ってたし」
しゅぽ。何らかの送信した音が聞こえ、刃の眉間に皺が寄る。
どう考えても今撮った写真である。
寝起きのぼさぼさした髪に上裸、目つきも頗る悪い。
そんな写真を送られたとして、丹恒も反応に困るだけだろう。
「あっ、既読ついた。『何をやっているんだお前は』『誰に撮られた』だって、焦ってるのウケるー」
『可哀想』などと同情する素振りを見せながらも丹恒を茶化して遊んでいる銀狼を放置し、刃は寝床に潜り込んで無視を決め込む事にした。横になっていれば、睡魔が夢の中へと誘ってくる。遠くから、しゅぽ、しゅぽ、と、連続で聞こえているが、面倒故に確認もしたくなかった。
別日、穹から餌がなくなった連絡を受け、郵送で済まそうか悩んだ果てに、カフカに『行ってらっしゃい』そう背中を押されて刃は渋々、コンテナを持って星穹列車を訪問する。
「刃ちゃん、胡麻パイも待ってたよー」
「ママ!」
穹は満面の笑みで、胡麻パイも直ぐに刃へと飛びついてくるが、丹恒だけが仏頂面であまり歓迎の雰囲気ではない。刃としては、諸手を挙げて歓迎されても困るのだが、再び口論になって胡麻パイに泣かれると考えれば、長居は不可として胡麻パイを撫でてから穹へと返し、直ぐに踵を返す。
「もう帰るのか?」
真っ先に引き留めたのは意外にも不機嫌そうな丹恒で、
「ママ、もう帰っちゃうの?あれからもっと出来る事増えたんだ。聞いて……」
止めに切なげな声で目を潤ませた胡麻パイから追撃を受け、刃は足を止めてしまった。胡麻パイの『聞いて』にカフカの言霊のような強制力は無い。ないが、後ろ髪を引かれてしまう。
「穹、胡麻パイを……」
「うん、ほら行きなー」
丹恒が胡麻パイを抱き抱え、刃へ視線をやる。
「わかった……」
不承不承ながら、資料室へと赴き、定位置となった階段へ座ると胡麻パイを受け取り、話を聞く。
丹恒は一言も発さず、それを眺めるばかりだ。
「良く頑張っているな。偉いぞ」
まだまだ甘えはするものの、赤ん坊のようだった面影は最早ないに等しい。胡麻パイの目覚ましい成長に、刃が率直に誉めれば照れたようで顔を隠してしまう。動物の動作というのは、どうあっても愛らしく映るもので、知らず刃の口角も上がってしまう。
そうして胡麻パイをあやしていれば、丹恒が急に通信端末を落とし、床を滑って刃の靴にぶつかった。
「何をしている……?」
「写真を、撮ろうかと思ったら、手が滑った……」
「盗撮とは良い趣味だな」
刃が嫌みっぽく半眼で見やれば、
「お前の仲間が羨ましかったんだ……」
丹恒は気不味そうに首を撫で付けながら零す。
曰く、無防備な刃の写真を送られて苛つくと同時に心がもやもやと淀み、原因を考えた結果、嫉妬だと結論が出たらしい。解らない物事は調べ、解析し、懸命に分析する辺りが学者気質というか、生真面目な彼の性質をよく表していた。
「馬鹿馬鹿しい、彼奴は悪戯者だからな、咎めたとしても徒労だ」
「仲が良いんだな……」
呟きながら、落とした端末を拾うついでに階段の端に丹恒が座り、刃に対してどのように接したら良いか、解らず悩んでいるとも吐露された。
「変わる必要があるか?俺と関わると碌な事はあるまい」
「今までなら、そうだった……」
寡黙ながら物事を明確に告げる丹恒にしては思い惑っている。敵対する関係からの変化を欲してはいるものの、ではどうするべきなのか答えが出ないようだった。
「喧嘩してる?」
「あぁ、大丈夫、喧嘩じゃない……」
不安に震える声で胡麻パイが二人を見ながら声をかければ、丹恒が困ったように笑いながら宥めるように頭を撫でた。
「良かった。パパとママは仲良しだよね?」
「あぁ、そうだな……」
刃がおざなりな返事をすれば、何故か丹恒の耳が紅くなる。
今は肯定的な言葉だけで嬉しい時期なのか、本当に恋愛慣れしていなさそうな様子に可笑しさが幾分込み上げ、胡麻パイを抱き締める事で顔を隠していれば、丹恒がそわそわと体を揺すり、落ち着きを無くす。
「トイレに行くならさっさと行け……?」
「そうじゃない……」
催したが離れづらかったのか。刃が促すも丹恒は否定する。
丹恒の肌の赤みが耳から頬までに広がっており、何に照れているのか不可解すぎてじ。と、見詰めていれば、余計に赤くなって行く。
「ママ、もっとちゅーしてー」
胡麻パイが無邪気に強請り、刃へと頭をすり寄せる。
銀狼との戯れとも言えない戯れまで羨んだとするならば、もしや。
馬鹿馬鹿しい発想に自嘲しながらも、胡麻パイの頬へと唇を寄せてやれば、口付けを受けた胡麻パイは腑抜けた声を上げて喜び、丹恒の頭はうなだれて下がっていく。
「餓鬼か……」
鼻で嗤い、顔を上げた刃が丹恒の顎を掴むと引き寄せ、唇をあわせてやる。するとどうだろうか。丹恒は手先まで茹で上がった海老の如く真っ赤になり、言葉もまともに発せないでいる。
「面白いものが見れた。帰る」
「また会いに来てくれる?」
「時間があればな」
茹で上がって硬直している丹恒の腕の中へ胡麻パイを押し込み、刃が立ち上がれば名残惜しそうに縋ってくる。胡麻パイの小さく愛らしい手を指先で一撫でし、丹恒へは額を弾く。
「貴様はもう少し耐性を付けろ。事あるごとに銅像になっていてはつまらんぞ」
「わか、わか……た」
ぎこちなく頷く丹恒に、嘲弄とも似た感情が込み上げるが不快ではない。
言葉通り、胡麻パイを抱き締めたまま銅像となっている丹恒を置いてラウンジへ移動すれば、穹が絡んでくる。
「刃ちゃんご機嫌だねー?」
いつもなら懐いて擦り寄ってくる鬱陶しさに一睨みか拳の一発でもくれてやるのだが、事実、機嫌が良いため丹恒と同じく額を軽く指で弾く。
「精進しろ。カフカも貴様には期待している」
「えっ、うん、頑張る」
不敵に笑む刃の言葉を、素直に褒めと受け取った穹は、照れ臭そうにしながらも笑顔であった。
刃が自室へ帰ってからも、赤らんだ丹恒の顔が浮かんでは消える。
永い追行の間に、こんな戯れがあっても一興か。そんな思考が浮き出る程度には機嫌が良い。
なお、餓鬼だ、餓鬼だ。と、舐めてかかっている間に、持ち前の勤勉さで学習し、覚悟を決めた丹恒に押し倒される未来が来るなど、刃は微塵も気がついていない。