・くっついてないけど丹楓には甘える鈍感応星
・くっついてないのに応星に激重感情を抱えてる丹楓
・応星がぶっ倒れて死にかけたりする
・失禁や排泄に関する表現在り
・ちょいちょいモブが出張ります
・楓応というか楓→→→→←応
・捏造しかないので悪しからず
▇◇ー◈ー◇▇
応星は、基本的に暇な時間などないと言える。
数百、千の寿命を持つ長命種が幅を利かせる仙舟に於いて、百も生きぬ己が『刹那の人生であろうとも、仙舟人の長く無能な寿命よりも価値がある』と、証明し、豊穣必滅の望みを叶えるためには怠けている時間などない。
ないのだ。
ないのに、現在、応星は簀巻きにされ、柔らかな布団を敷かれた牀で横になっていた。
天井をまんじりともせずに見詰める応星は、身じろぎすら出来ない体を揺すり、足先をそわそわと動かす。
「龍尊様……、これ外してくれませんか」
「ならん」
応星の慇懃な心からの要望を龍尊、丹楓は芋虫にも似た彼に背を向けたまま、書簡を片手に自らの職務をこなしながら無下にあしらう。
「下が限界なんですよ。漏らしそうなんですけども」
簀巻きにされて早、数時間。
暫く眠ってはいたが、膀胱の限界を脳が察知し、肉体を覚醒させ、溜まったものを外に出せ。そう指示を出している。
応星は下腹に力を込め、身動きが取れない体を左右に振り、自身の膀胱をどうにか宥め賺しながら解放してくれるよう下手に出てお願いを試みるも、簀巻きにした目の前の男が一切の自由を許そうとしない。
「漏らしても洗ってやる。案ずるな」
許さぬばかりか、失禁を推奨する有り様。
おむつをした赤子ではないぞ。
横暴が過ぎる。
人間としての尊厳を損なわせる気か。
等々、言いたい事は山ほどあれど、何よりも身の解放が最優先事項。
「冗談言ってる場合じゃなくてですね……、本当に限界なんですよ。ねぇ……」
どうにか丹楓に紐を解いて貰おうと、哀れを誘うような猫撫で声かつ初めて出会った幼少期以来の丁寧語になっていた。
それでも丹楓は振り返りもしない。
完全に怒らせている。
応星は込み上げてくる生理現象に小さく呻り、細く長い息を吐き出した。
この現状は、端的に言えば身から出た錆である。
応星は普段からかなりの不摂生を繰り返しており、此度も奇物作成を終わらせた勢いそのままに提出期限間近であった書類を片づけるため飲食を疎かにし、睡眠も碌にとらず気温の低い部屋で過ごしていれば体は不調を訴えて頭痛を起こした。
それをいつもの睡眠不足のせいとして、彼は仮眠をとるべく仮眠室へと移動しようとしたが、立ち眩みにて床に膝を突き、異様な震えと眠気に襲われて気絶するように倒れて寝入ってしまった。
幸いだったのは、夜になっても工房に灯りが点いている事を気にかけた景元が倒れた彼を発見出来た事だ。応星の体は死んだように冷え切り、元々白い肌はより青白く、呼吸も耳を唇まで寄せなければ判らない程か弱い上に揺り起こそうとしても一向に目を開けない。
慌てた景元は丹楓の元に機巧鳥を飛ばし、死体のような応星を燃える炉の側まで連れて行くと一向に暖まらない肉体へ体温を分け与えるように抱き締めながら、自らも青ざめた顔色で助けを待っていた。
程なくして轟雷の如き破裂音が工房の外から聞こえ、丹楓の来訪が知れると景元の強ばった表情は幾許か和らぐも、
「丹楓!炉の近くに居る。早く来てくれ!」
と、有らん限りの大音声にて叫び、丹楓も常に優美である彼には似つかわしくなく、化龍した肉体を人型に戻す時間も惜しいとばかりに半人半龍の姿で飛び込んできた。
「寝かせて離れろ!」
龍鱗が浮き出た肌を隠そうともせず、丹楓は指示を出しながら応星へ馬乗りになるように覆い被さると乱暴に衣服を開き、首筋、胸部に掌を当てて体内の状態を探りだす。
「景元、早急に体を包む物、砂糖と湯があれば持って来い!」
「分かった!」
極度の低血糖と著しい体温の低下による意識障害と判断した丹楓は、景元へと必要な行動を示唆し、自らは雲吟の術での治療を試みながら耳は人が集まってくる煩わしい気配を感じ取っていた。
今の丹楓は、応星以外に目をやる精神的な余裕がない。邪魔だけはしてくれるなと願いながら仮眠室から布団と茶壺を持って戻ってきた景元が入り口から覗き込む人の群を視認すると、群衆の中に居た雲騎軍の兵士を呼びつけて移動用の星槎を呼ばせ、集まった野次馬の自治を開始した。
景元の機転に感心しながら丹楓が傍に置かれた布団で丁寧に応星を包み、口移しで甘い味のする湯を与えながら少しずつ体温を上げるよう尽力する。
三十分以上の時間を経て、炉の炎、丹楓により与えられた熱によって意識が浮上した応星が瞼を上げ、息苦しげに咳込む。
「な……、に……?た……」
状況が掴めてないのか瞳を左右に動かし、胡乱な声色で誰何する。
「応星、余が判るか?」
「たん、ふー……?」
「うむ」
直近の記憶では休みに行こうとしていたはずで、何故、炉の前で布団に包まれながら丹楓が傍らに居るのか、応星は上手く情報を処理出来ずにいた。
「今は考えるな。疲れただろう、休んでおけ」
「あー……、うん、わか……た」
頭がぼやけて何も浮かばず、応星は言われるままに目を閉じ、静かな寝息を立て、丹楓を安堵させる。
「丹楓、星槎の用意は出来てる。応星は動かせるか?」
「うむ、余の屋敷まで連れて行く」
景元が応星を抱きかかえた丹楓を先導し、人ごみを掻き分けながら星槎へと乗せると、
「私は後始末をしておくから、そっちは頼んだ」
「あぁ、頼まれた」
丹楓と景元が互いに頷き合う。
百冶たる応星の生命が危ぶまれる緊急事態とは言え、慌てすぎた丹楓による門以外からの不正な侵入は工造司の罰則規定に抵触し、着地の際に勢いづいて破壊された石畳も人民を脅かす危険行為に当たる。
相当な量の始末書と修繕費用の捻出に頭を悩ませるであろう確定事項に景元は一瞬だけ遠い目をしたが、見過ごしていれば応星は確実に命を落としていた。
己と丹楓の行動は決して誤りではない。
理解は得られるはずである。
「とりあえず、騰驍様に相談しようかな」
ここぞと将軍の側近であり、護衛である雲騎驍衛の立場を活用すべきだと考えた景元は頭の中で時系列を整理し、整然と説明するための草案を考え出す。
場所は変わって丹鼎司の一角にある龍の宮。
丹楓が日常的に使用している寝台にて眠る応星の体温が問題ない範囲に戻っても依然として油断は出来なかった。
栄養不足のせいか肌が乾燥し、ただでさえ痩せ気味の体がまた軽くなっている。気、血、水。いずれもこの肉体には足りていない。
丹楓は悪くなった血の巡りを少しでも良くするためと、汚れた応星の体を湯に浸した布で丁寧に清め、肌触りのいい衣服に着替えさせて思考に耽る。
応星が倒れるほど無茶をするのは生き急ぐ性質故か、それとも他に原因があるのか、原因の究明を迅速に行う必要があった。
「応星、余は頼りにならぬか?」
寝台に広がる銀白色の髪を撫で、丹楓は独り言ちる。
応星が常日頃から飲食、睡眠を削りながら無理をしている様子は感じていても、倒れるまで何一つ、頼るどころか弱音すら吐いて貰えぬ己が不甲斐ない。
意識がない相手へ問うたところで無意味と理解せしとも、歯がゆい思いを吐露せずにはおれず、この日の丹楓は眠れぬ一夜を過ごしていた。
▇◇ー◈ー◇▇
明るい光の刺激で目を覚ました応星は、己が丹楓の寝所で目を覚ました事に驚きはしなかった。床で寝てしまった己をいずこかのお人好しが運んでくれたのだろう。程度の認識である。
彼に死にかけた自覚など皆無だ。
故に、薬湯を片手に寝所へ入って来た丹楓へも、
「手をかけさせて悪かった。直ぐ帰るから、迷惑料は次払うよ」
こんな軽薄な言葉で終わる。
龍尊たる丹楓の立場、目をかけられている己を理解出来ないほど頭の出来は悪くないが、自らを蔑ろにする余り周囲が心配性過ぎるだけだと認識してしまっている。
「帰せるものか」
丹楓が眉根を寄せ、寝台から降りようとした応星の肩を掴むと押し戻し、持参した薬湯を渡す。
「仕事あるし……」
如何にも苦そうな匂いと見た目の薬湯を両手で握り締めたまま丹楓を上目遣いに見るも、手の動作で飲め。と、指示される。
応星は苦いものを好まない。
薬湯などその筆頭である。
しかし、体調を崩した際に丹楓が与えてくれる薬の効果は身を持って知っている。これを飲めば確実に体が楽になり、この場からも解放して貰えるとなれば飲むしかない。
生唾を飲み込み、薬湯の湯気を吸わないよう天井を向いて深呼吸。呼吸を止めて一息に飲み干すと、酷いエグ味と苦味、返って体調を崩しそうな味に応星の顔は酷く歪む。
「じゃ、じゃあ、飲んだし帰る」
咥内の酷い味で涙目になりながらも丹楓へ湯飲みを返し、去ろうとするも今度は猫の仔の如く首根っこを掴まれて戻される。
次は長い説教か。と、膝を抱えて覚悟を決めるが、丹楓は中々言葉を発しない。訝しく思った応星が、俯かせていた顔を上げて様子を伺えば片手で目元を覆い、口元もきつく引き結んでいる。
「丹楓?」
なにやら仰々しい動向に幾許かの動揺を見せながら、応星が丹楓を呼べば、突然抱きすくめられてしまい、戸惑いは大きくなる。
「丹楓?」
「うむ……」
これはただ事ではない。
流石に察した応星が丹楓を宥めるように背中を叩く。何事があったか考えるも思い当たる節がない。本人は床で寝てしまった。だから迷惑をかけた。怒られる。としか認識していないためだ。
「あのー、何かあった?」
「こっ……」
応星が問えば丹楓が瞠目し、怒り混じりの震える声が吐き出されたものの、言い切る前に喉が詰まったように制止したかと思えば藍玉の瞳が揺らいで大粒の涙が零れ落ちた。
短命種である応星が丹楓と親しくなってから、たかだか十にも満たない付き合いだが、涙を流す姿など終ぞ見た記憶はない。
元々、喜怒哀楽が表面に現れづらい男だ。龍の末裔である彼は、只人とは隔絶された感性を持っている。龍尊たる立場も彼を感情的にさせる事を許さなかっただろう。それが、怒りに身を震わせながら涙を流すなど、天変地異が起きても有り得ないだろう姿を応星に見せた。
「其方は危うく命を落としかねなかったのだぞ。己を粗末に扱うのも大概にせい!」
「へっ……」
繰り返すが、本人としてはいつもの寝落ち感覚だったのだ。
ただ、いつもより具合が悪い。寒気がする。そんな自覚はあったが、少し眠り、何か温かいものを食べれば治るだろう。最悪、丹楓から薬を貰って一晩寝ればどうにかなる。そう考えていた。
しかし、今回はどうにかならなかったのだ。ようやっと応星は事の重大さを理解し、滅多にない発露の原因が己だと知る。
丹楓は顔を濡らす涙を上衣の袖で雑に拭い、応星の顔を撫で、両手で頬を包み、じ。と、眼を真っ直ぐに見詰める。
人間よりも体温の低い丹楓の掌に包まれながら、応星は『お前、俺の事が好きすぎないか』などと、全く情緒のない事柄を考える。彼も初めて見る丹楓の有様に動揺しているからこそであるものの、言葉にすれば頭を叩かれるくらいには暴言である。
「食事を運ばせる。食べられる物を食べられるだけでも構わぬ。少しでも体力を戻せ」
丹楓が応星の頬から手を滑らせ、髪を梳きながら言付けて室を出る。
どこか放心してしまった応星は、家人の手によって寝台の上でも食事が出来るよう用意された卓に、鹹豆漿風味の粥や芙蓉汤、杏仁豆腐が並んでいく様をぼんやり眺めていた。
「ではごゆっくりお召し上がり下さい」
「えっと、ありがとうございます?」
「龍尊様のご指示ですので」
主人の指示でなければ、短命種の応星など歯牙にもかけぬ。とでも言いたげな目つきと慇懃無礼とも言える態度で家人は寝所を出ると、面廊にて待機しているようだった。要するに応星が勝手に出て行かないようにする見張りだ。
どれほどきつく申しつけたとしても、応星が大人しく療養しているはずがない。そんな、安静にしない事にかけては信頼度が地を這っている応星の行動を踏まえ、敢えての人選であろう。
「俺の事、良く分かってんなぁ」
もしかすれば応星自身よりも癖や思考、行動を把握しているような先読みをする丹楓の顔を思い浮かべ、粥を匙ですくうと一口だけ飲み込む。濃厚な豆乳の滑らかさにほんのりと酸味と辛味を感じるが思いの外重くなく、すんなり飲み込めた。
卵の入った汤は上品な上湯で塩味も丁度良く、口に含めば渇いていた喉を潤しながら滑り落ちていき、杏仁豆腐は柔らかな甘さが薬湯の苦みで痺れた舌を優しく癒やしてくれるようで、食養生の基本である五味を意識しながら滋養がつき、食べ易い物を選んでくれたようだ。
「食べたし、帰らせてくれんかな……」
胃に食べ物が入った事で体が温まり、どこか眠いような心地にはなれど、応星の頭には半端になっていた仕事ばかりが思い浮かぶ。普段、感情を露わにしない存在を泣くほどに心配させ、怒らせておきながら、多少具合が良くなっただけでもう大丈夫。などと考える応星は、実に医士泣かせな愚か者だ。
卓と食器を適当に片付け、応星はいい匂いのする布団に潜り込んで欠伸をする。
問題点は一つ。あの、龍尊の命で無ければ梃子でも動かないだろう家人だ。
「八方塞がりだな」
丹楓と親しくする応星に親しみを抱いてくれている家人も居るが、持明族は特殊な血筋と生体のせいか矜持が高く、殊俗の民どころか天人までをも見下している者が多い。如何にも応星を嫌っている見張りの彼を口八丁で丸め込むのは難しいだろう。
「期限いつまでだっけ……」
自身がどれほど眠っていたのかを聞き損ねた後悔をしながら、どこまで終わっていたかを思い出す。
それは、応星の天敵とも言える書類仕事だ。
応星は心の底から、書類仕事が嫌いで苦手である。理由は単純。まだ彼が年齢も一桁の時分、歩離人の襲撃によって家族も住む場所も全てを失って仙舟、朱明へとやってきた際に、先ず苦労したのは異星の言葉と文字。
師匠である懐炎や他惑星出身の人間が通う手習い所での勉強で言葉や読みはどうにか形になったが、字を書く事がどうしても苦手だった。
基本的に酷い悪筆であり、早く書こうとすれば時に書いた本人にすら読めないほど。公的な書類となれば己が理解出来れば良し。と、する訳にも行かないため、一筆したためるにも時間が掛かる。
工造司の長とは名ばかりで、実権のない百冶である応星の『代理』である天人が、補佐として煩雑な仕事の大半は担ってくれているが、複雑な機巧や奇物に関しては造った応星にしか分からない部分も多いため、仕様書、報告書は彼自身の手でしたためる必要があった。
丁寧に書こうとしつつも、いつもの手癖で書いてしまい書き直し。字を間違えては書き直し、実に無駄な時間に苛立ちながらも頑張って書き上げた報告書は残り僅か。故に仮眠を取ろうとした所までは思い出した。
どうやって仕上げるか。
持明、天人共に嫌味を言われた所で、最早、堪える応星ではないが隙を見せ、ただでさえ鬱陶しい連中を調子に乗らせるのは腹が立つ。百冶大煉の時のように、下らない嫌がらせに発展すれば無駄な対応に時間を取られてしまい、更に足下を掬われかねない。
仕事は完璧に熟さなければならないのだ。
見張りの家人を直接説得するは困難。ならば丹楓に許可を得れば問題なく仕事に戻れるが、言動を鑑みるに、それは難しそうだった。では、どうやろう。
「失礼致します」
扉の透かし窓から家人の動きが見え、応星は慌てて寝た振りをする。
「龍尊様の寝所で悠々と寝入るとは、短命種の図々しさには恐れ入るな」
完全に眠っていると判断してか、家人は応星に対して吐き捨てるような言葉を投げつける。解り易く敵対心が剥き出しで寧ろ良いまであった。
卓や食器を片付ける音を聞きながら、どう彼の目を欺いて抜け出すかを応星は悩み、扉が閉まると同時に寝台から音を立てないよう降りて室内を見回し、屋敷の中央にある園林へ通じる窓を開く。
窓自体は十分に人が通れそうな大きさだが、現時刻の園林には植えられた樹木を手入れする者、掃き掃除をする者が複数存在しており、窓からは見えないものの丹楓に招かれての月見酒の際、出入口には見張りが立っている事を知っている。
「応星様……、お目覚めになったのですね。良かった」
掃き掃除をしていた持明の女性が応星に気付くと窓へ駆け寄り、回復を喜んでくれた。
彼女は丹楓に仕える家人の中でも応星に好意的な持明族の女性である。彼女は龍尊が卵から産まれた際、守り役を務めていたせいか丹楓に対して個人的な情が強く、矜持と自尊心の塊のような彼が心を開いている応星へも親しげに話しかけてくれる。孤独な彼の傍らに立つ、友人の存在が嬉しいのだと言って。
「龍尊様が飛び出したかと思えば、貴方を抱えて帰ってきた時は生きた心地がしませんでしたよ。死人みたいな顔色で、二日間も眠りっぱなしだったんですもの」
「そんなに眠ってたんですか……」
「えぇ、龍尊様がずっとお側についてらっしゃいましたよ。それはもう献身的で、私達には指一本触らせないくらい!」
「なる……ほど、まぁ、彼奴にとっちゃ短命種の俺なんて直ぐに死ぬ羽虫みたいなもんでしょうしねぇ、目を離したら死ぬとでも思ってるのかな」
「まぁ、嫌だ。羽虫なんて、あんなに大事にされてるのに、伝わってませんわねぇ……」
実際、死にかけた分際で応星が軽口を叩けば女性は頬に手を当て、眉を下げながら困った子供を見るような視線を寄越す。
応星は曖昧に笑い、感謝はいつもしてますよ。そう言い訳をする。事実、他の長命種と比するまでもなく優しいのは解っている。丹楓の気にかけ方は、よちよちと覚束ない足で歩き回る幼児に危険がないか、危ない真似をしないか心配してついて回る口煩い親のようであり、反発したくなる時もあるが感謝をしているのも本音である。
女性が遠くから声をかけられたため、手を振って別れると応星は窓を閉めた。
倒れてから既に二日も経っている。
応星は頭を抱えたくなった。
逆算すれば期限は明日の朝までであり、あの頑固な丹楓が意見を覆して今日中に許可を出してくれるとも思えない。
下手にお伺いを立てれば見張りを強化される懸念がある訳で、ならばどうにかして抜け出さなければならない。が、出入口には応星を嫌う見張り、窓に通じる園林にも人が出入りしているため、窓から抜け出すのは目立つ。
ほんの数時間で良い。工造司にある工房へ赴き、足りない部分を書いて後は『代理殿』の天人に頼めば終わり。打診してみるか応星は窓の前にしゃがみ込み、うんうん呻る。
だが、丹風の性格を鑑みれば相談は悪手だと応星の脳味噌は同じ答え弾き出すばかりで、良い解決策が出てこなかった。出入口に立つ彼さえどうにか出来たら後はどうとでもなりそうだが。
出入口の見張りさえどうにか出来れば。
「殴ると後が面倒になりそうだな……」
応星を嫌う彼へ危害を加えた場合、ある事ない事を地衡司辺りに申し立てられれば実際に手を出しただけに立場が悪くなるだけ。
丹楓のように雲吟の術で姿が隠せるのなら楽だが、そのような特殊技能は持ち合わせていない。書類を持ってきてくれるよう連絡しようにも玉兆もなければ機巧鳥も居ない、園林から出るにしろ、正面から出るにしろ、矢張り命令された見張りを排除しなければ話にならない。
誰かが呼び出すか、迎えに来てくれないかと期待してみても、龍尊の住処へ遠慮なく立ち入れるのは龍師くらいのものだ。
それでも、諦める選択肢は浮かばなかった。
無能の長命種に『矢張り短命種は』などと嘲笑われる己が赦せない。
見張りが単純である事を願い、応星は椅子に置いてあった座布団や布団を使って人が横になっているような偽装工作を施すと中が見えないよう薄く扉を開く。
「あのー、水でもいいので、置いといて貰えませんか?ちゃんと安静にしておくので……」
見張りは軽く眉を顰めはしたが、人を使う事なく水を取りに行ってくれた。第一関門は突破である。
彼が角を曲がるまで確認し、応星は足早に寝所を飛び出した。丹楓に出くわせば一巻の終わり。途中、家人と出くわしたものの、
「お世話になりましたー」
そう言って、堂々とにこやかに挨拶すれば相手も頭を下げてお大事に?などと、どこか疑問符はついていたが言及はなかった。内心、心臓がばくばくと激しく鳴っているが、不振がられないよう急ぎつつも急がず、門まで辿り着いた。
門を叩けば小窓から門番が顔を出し、応星の顔を見ると軽く首を傾げる。
「帰るので出して貰っても?」
「あ、はい……、もう宜しいのですか?龍尊様はご一緒ではないのでしょうか?」
「彼奴も仕事中だろう?わざわざ見送りなんてして貰うほど寂しがりでも幼くもないよ」
「あぁ、成る程」
持明族らしい雲騎軍の兵は、深く考えず応星の言い分に頷き、門を開けて送り出してくれた。帰りは酒の一つでも持ち、礼とでも言って戻ればいいだろうか。
まぁ、なるようになれ。だ。
運良く工造司職人の制服を着た男と、其奴が呼んだであろう工造司用の星槎を見つけたため同乗させて貰い、順調すぎて後が怖くなりつつもほっと息を吐く。
「百冶様、倒れられたと聞いたのですが、もうお体は宜しいのですか?」
「大丈夫、大丈夫、この通り元気だよ」
へら。と、応星が笑って誤魔化す。
この男とは直接的な面識はないはずなのに、応星が倒れた話は伝わっているらしかった。大した関係性がないため追求されずにすんだが、うっかり丹楓と繋がりのある人間、白珠、鏡流、景元と顔を合わせた場合、大分面倒な事になりそうだった。にわかに緊張が高まる。
工造司へ着いて星槎を降りる際、余り顔を動かさないようにしつつも周囲を確認しながら早歩きで工房へ向かう。仲間は今の時間であれば修練場で兵の訓練に当たっているはずだが確実ではない。
やや遠回りになるが、高い塀や建物で身を隠せる道を選びながら慣れ親しんだ場所へと辿り着く。
「あれ、先生?もう……」
「もう大丈夫!」
戸惑う弟子に、それだけを伝えて襤褸が出ない内に執務用の部屋へと飛び込めば、倒れた夜の状態のまま変わりない。
開きっぱなしの墨壷、筆についた墨はすっかり乾いていても、応星は安堵に息を吐く。下手に片付けられれば探すにも時間がかかるのだから。
よし。と、意気込んで新しい筆と墨を出し、応星は残りを仕上げにかかる。
「案外、終わってるな。偉いぞ俺」
自画自賛をしながら作業に入ってどれほどの時間が過ぎたかも曖昧になり出した頃、名前を呼ぶ声がした。したが、後少しで終わりそうだったため、集中を切らしたくない余り無視をした。
声を無視すれば肩を叩かれた。それも無視をする。鬱陶しい。しつこい。忙しいんだ察しろ。とばかりに筆を走らせていれば、今度は頭と筆を持った手を鷲掴みにされ、耳に『応星』と、聞き慣れた声が吹き込まれた。
ひきつった悲鳴が喉奥から漏れい出て、直ぐ隣にある顔を眼球だけ動かして視認する。
「これは龍尊様……、随分とご機嫌芳しくないご様子で……」
「あぁ、芳しくないとも、容易く騙される間抜けな我が民と、どこぞの脱走患者のお陰でな」
時計を見れば、ここへ到着してから二時間程。
脱走してからの移動時間を含めても早すぎる発覚だった。
見張りの家人は応星に悪態は吐いても、布団を剥いで確認するような無礼は働かなかった故、せめて夕餉までは発覚すまいとの目算だったが甘かったようだ。恐らく、丹楓本人が様子見にでも来たのだろう。
「あのー、今書いてる書類なんですけど……、提出期限が明日の明朝でして、これだけ仕上げさせてはいただけませんか」
お怒りも、説教も後で受けるからこれだけは仕上げさせて欲しい。
懇願してみれば、丹楓はあっさりと手を離す。
「疾くと仕上げよ。終われば直ぐに連れ戻す」
「わ、悪いな……」
丹楓は腕を組み、応星を睥睨する。
これを終わらせなければ、連れ戻しても再び脱走しかねないからだろうが、威圧する視線を受けながらでは書き辛い。
切れた集中力と背後からかかる圧のお陰で筆はかなり遅くなってしまったが、どうにか仕上げて制作した奇物と共に代理殿に渡すと、いやに恭しく受け取られた。
所詮、実権もない百冶と蔑み侮る視線がなく、隣に立つ丹楓の権威を改めて実感してしまう。思わず奥歯を噛み締めていれば軽々と肩に担ぎ上げられてしまい、驚きから悲鳴をあげてしまった。
「丹楓!?」
「戻るぞ」
「別に担がなくても……!」
「また逃げられては適わんのでな」
安静にするばかりか素直に同行するとの信頼も完全になくした応星は、星槎に乗るまで丹楓の肩に担がれ、星槎内では子供のように抱き抱えられた上に体へ龍尾を巻き付けられ、身動きが出来ないよう拘束された。
「丹楓……」
「黙れ、余の傍から離れる事は許さん」
これは、大分お怒りである。
直ぐに戻るつもりだった。などと言い訳しても、火に燃料を注ぎ入れるようなもの。我が身を粗末にし、相談もせず脱走した事自体に怒っているのだ。理由が明確すぎるため、口減らずの応星も言葉が紡げずに黙り込む。
星槎が丹鼎司に到着すれば、流石に降ろしてくれるだろうとの甘い考えは打ち砕かれ、丹楓が応星を抱えたまま外に出れば酷く注目を浴び顔に熱が集まってくる。
「あの、逃げないから降ろして……」
「黙れと言っている」
丹楓は目もくれずに龍の宮への門まで進み、顎で開くよう示した。
「お帰りなさいませ……」
「あ、はい……、すみませんでした……」
確認もせず言い分を鵜呑みにして応星を逃がしてしまった門兵は、丹楓によって相当に絞られたのか声が震え、真っ直ぐに伸ばしていた背を丸めて萎れていた。手に持つ槍がまるで体を支えるための杖のようだ。
「お帰りなさいませ」
出迎えたのは見張りの家人。
こちらは萎れていないが、丹楓へは拱手にて頭を下げていても、通り過ぎれば肩を怒らせ応星を睨み付けていた。こちらも丹楓とは別の意味で怒り心頭の様子である。
悪かった。と、応星が声を出さずに口を動かせば、読み取れたのか眼を何度か瞬かせ変な表情をした。
連れて来られた場所は丹楓の執務室。
執務机の後ろには布団を敷いた牀が置いてあり、その上には大きな布と長い紐が鎮座していたため嫌な予感がしてしまう。
「ここで寝てろって、事かな?」
恐る恐る訪ねれば、肯定の頷きが返ってくる。
あまつさえ、丹楓は応星を降ろすと布を体に巻き付けて拘束し、入念に紐までも使って簀巻きにする。
「え、え……、やり過ぎじゃない……」
「医士の安静にせよとの言葉を無視した輩には相応しい処遇であろう」
丹楓の手に顎を掴まれ、睨み据える眼には容赦の感情は一切無かった。
偽装工作までして脱走しているのだから、何を言っても正当な理由にはなり得まい。誰がどう見ても、自業自得と嘆息しながら救いの手は差し伸べないだろう。
掴まれた顎からちりちりと刺すような痛み。
ぱち。ぱち。と、弾けるような音と共に丹楓の髪がゆらゆらとうねっている。
丹楓の怒りに反応して溢れ出た小さな厳つ霊が、空気を弾いてい髪を浮かせているのだ。
ゆらゆらと浮く髪を煩わしげに手で梳いて落ち付かせると、再度、応星の体を抱え上げて布団の上に寝かせる。
「あの、いつまでこのまま?」
「一先ず夕餉までそのままだ」
少なくとも三時間以上このままである。
体に巻かれた布も紐も体に食い込む程ではなく、苦しくはないものの全身をしっかり包んでいるため体が固体である以上、脱出は不可能である。
「水は飲んだか?」
「飯食う時に少し」
「では少し飲んでおけ、鎮静作用のある茶だ」
吸い飲みに入れられた花の香りがする茶を腔内に流し入れられ、応星は慌てて飲み下す。このような飲み方で落ち付くものか。そんな苦情を聞き入れる気は皆無だろう。
「では休んでおくように」
吸い飲みの中身がなくなれば、丹楓が応星の髪を撫でて眠るように促す。
茶の苦みと花の香りに紛れて分からなかったが、睡眠を誘発する薬でも混ぜられていたのか、程なくして瞼が下がり始め、応星は小さな寝息を立て始めていた。
▇◇ー◈ー◇▇
斯くして、冒頭の失禁寸前まで追い込まれた応星が丹楓へ拘束を解いてくれるよう懇願する場面へと戻る。
「家人を騙して脱走するような輩から目を離しては、余が自ら監視する意味がなくなる」
「だったら閑所まで一緒に行ってもいいから、絶対逃げないから……」
応星は切実に訴え、譲歩案を出す。
丹楓の言葉通り、残した仕事が気になりすぎて脱走した応星が悪いのだが、おむつをつけた赤子ならいざ知らず、大人の失禁は人としての尊厳に関わるものだ。心も相応に傷つく。
年齢だけ見れば、応星の年齢など長命種達には未成熟な赤子、幼児の部類だろうが、彼は短命種で大人なのだ。
「全く信用ならんな」
「丹楓、閑所に行かせてくれたら、今後なんでも言う事聞くから……」
「ほう……、言いおったな。その言葉、違える事は無かろうな」
「違えない……、違えないからぁ……」
芋虫になった体を丸め、応星は今にも漏れてしまいそうな状況に身を震わせながら、応星は虫の鳴くようなか細い声で兎に角、必死の懇願を続ける。
失禁よりは、するべき所でするべき事を見られる方がまだしも救われるのだから。
丹楓が鷹揚に立ち上がり、応星の体を拘束する紐を外し、布を払う。
「動けるか?」
「ちょっと……、まって……」
体の閉塞感が無くなると、動いただけで決壊しそうな下腹部を両手で押さえる。
丹楓がもっと早く動いてくれていれば。そんな恨み言も吐きたくなるが、こうなった元々の原因は己である。
「手伝おう」
丹楓が宣言すると応星を横抱きにし、移動を介助しようとしてくれるも、急な浮遊感に尿意が加速する。
とん。
応星が止める間もなく丹楓が一歩踏み出した時、暖かい湿った感触が褲に広がり、内股を締めても止まらない。汁気の多い療養食とお茶、眠る前にも水分を摂取したのだから溜まっていて当然。
しかも、床、自身の服のみならず、横抱きにしている丹楓の着物にすら広がって汚してしまっていた。
「浴室に行った方が早そうだな」
丹楓の何気ない一言に、魂までもが抜けてしまうような脱力感。
この貴人の事だ。自身で掃除や洗濯などは死んでもすまい。
「俺が掃除するし、服も洗うから……」
「今、其方の仕事は休む事だ。家事をする事ではない」
失禁して生気を失ったような表情の応星を横抱きにしたまま悠々と歩き、扉を足蹴にして開くと、面廊にいた家人へ掃除を命じて浴室へ行く事を伝えた。床を塗らしたとしか言わなかったが、臭気やら応星の様子で察するに余りある状況である。
「湯はもう沸かし始めておりますので、まだ温いですが入浴は可能です」
ここの家人は先読みの能力でもあるのか疑いたくなる用意の良さ。応星が遠い目をしながらぼんやり考えてはみたが、尿意を訴える人間へ、丹楓自身が『そのまま漏らせ』などと宣っていたのだから、気の利く家人であれば万が一を考えて用意は可能である。
「相分かった」
返事をしたのは丹楓のみで、応星は喉から声が出ずに空気を吐き出したのみだ。
迷いの無い足取りで浴室まで行くと、丹楓は応星を床に降ろし、当然のように脱がしにかかる。
「自分で……」
「良い、やらせろ」
失禁の衝撃でやや茫然自失としていた応星だったが、丹楓が服に手をかけたところで制止するも、強引に脱がされる。
「お前、いつからこんなに甲斐甲斐しくなったんだよ。汚いしさ……」
体が動かない介護対象者ではないのだ。
排泄物で汚した服を片付けさせる事に憚りを感じていれば、丹楓は片眉を上げ一つ鼻を鳴らす。
「其方の意識がない間、排泄も面倒見ておったのだ。汚れた服を扱う程度、なにがあろうか」
応星は息を呑み、声も出せずに丹楓を見詰める。
よくよく考えれば、応星は二日も眠っていたのだ。
肉体の生命活動が止まない限り、内臓に排泄物が溜まるのは当然の摂理。
応星は時間の事ばかりを気にかけていたが、聞いた情報の中に、『家人は応星に指一本触れていない』と、するものがあった。要するに、目を覚まさない応星の排泄介助を全て丹楓が担っていたのだ。
「なんだ?」
「あの、わるかった……」
顔を真っ赤にさせながら、気がついた事実に対する謝罪をたどたどしく口にすれば、丹楓は軽く首を傾げた。
「いや、だって、気持ち悪いだろうし、お前がするような事じゃないだろ、そんなもん……」
「体が生きている証だ。なればこそ厭う理由はない」
いつからそんな献身的な人間になった。
毎度、龍師等を怒らせていた傲岸不遜で横柄な龍尊様はどこに消えたのか。
「今は、起きてるし、自分でやるよ……」
「そうか、少しでも動きに違和感があれば申し出よ。極度の疲労による昏睡だろうが全く目を覚まさぬ其方には肝が冷えた」
丹楓が応星の体温を確かめるように頬に指を滑らせ、僅かながら口角を上げる。茶化す訳ではないが、今日は、随分と喜怒哀楽で感情が忙しいようだ。
丹楓も服を汚したを理由に、応星と共に湯を浴び、体を流した後は程良く温めてくれる湯に浸かって息を吐く。
「其方、随分と過密な制作環境のようだな?幾ら仕事が早いとは言え、一度に幾つも抱えては、身が持つまい」
「ん、そうだなぁ。でも、何かしてないと落ち着かないし……、持って来る奴も居るし……。脱走したのは悪かったけど、本当にやらないと終わんないんだよ……」
肌当たりが良く、草っぽい匂いがする薬湯に応星が顎先まで浸かる程に身を沈め、暖まる心地好さで睡魔に誘惑されている中、丹楓が体を抱き寄せてそれ以上沈まないように支える。
「お前、ほんとに優しいよな。なんで俺なんかに良くしてくれるんだ?」
抱き寄せられる擽ったさに笑みを零し、崩れた体制を直そうと応星が湯の中で藻掻くも眠気に支配された脳は上手く指示を出してくれず、完全に丹楓に寄りかかる。
「其方が愛しき故」
「ふーん……」
夢現で丹楓の告白を聞き、素気ない返事を返す。
既に瞼は閉じきっており睡眠、栄養の不足。疲労が蓄積した肉体は休憩を求めているのだ。今まで本人の精神力でどうにか持たせていたものが、限界に来ているのだろう。
「せめて、寿命は全うせい……」
湯に濡れた髪を撫で、応星を抱き締めながら丹楓は独り言つ。
次に目を覚ました応星が、また丹楓に介護させた事実ばかりを気にして、告白を忘れきっていた様子には苦笑するほか無かったが。
▇◇ー◈ー◇▇
「余は暫し留守にするが、再び許可無く脱走した場合、解っておろうな?」
「はい……」
翌日、朝餉の際も寝台から出して貰えないまま済ませた応星は、傍らに立つ丹楓から訓告を受ける。
何かやらかせば、簀巻き以上の拷問でもされるのか。応星は一瞬だけ身震いをする。丹楓が応星の妄想を聞けば一笑に付し、噎び泣くほど苦い薬湯を飲ませてやろう。と、笑って言うだろう。
だが、そんな会話はなく、簀巻きがすっかり恐ろしくなった応星は手を振って送り出す。
「昼もきちんと食すように、良いな?」
「解ってるって。ちゃんと食べるし、安静にもしてる」
「ならば良し、足りない物が在れば家人に伝えよ」
丹楓が深く頷き、寝台に置かれた大量の本を見やる。
応星の暇を潰すため、筆と紙、鍛造や造形、意匠に関する本を多種多様に揃え、寝台に積み上げてあるのだ。応星自身は、現在抱えている奇物、武器の納品期限は気になるが、何度も気にするな。と、言い含められてしまった故に、気になるが気に出来ない状態である。
「では、任せたぞ」
「はっ……」
扉を開き、恭しく頭を下げながら家人が丹楓を送り出す。
応星嫌いの家人は、一度の失敗は見逃され、次の機会を貰えたようだった。
前回の失敗を踏襲し、彼は外の面廊ではなく、室内にて応星を見張る事にしたようで、腕を組み、胸を張って応星を睨み据えている。
「逃げたら、ふん縛る許可は貰ってるからな」
「もうしない。悪かったよ……」
応星は降参とばかりに両手を挙げ、家人が頷く姿を確認して本を開く。
車輪の再発明などをする気が無い応星は、先人の知識に対しても貪欲に学習する。最近は納期に追われて本を読む余暇もなかったため、丁度良い好機と開き直り、読み漁る。
応星は、端から見れば本当に読んでいるのか疑問に思う程の速度で頁を捲り、気になる部分は手元の紙に書き記していく。元々の悪筆もあり、素早く書き付けられるそれは、余人には到底読み解けない暗号の如き有様ではあるが。
丹楓が出て行くまで、家人に対して気不味そうにしていた雰囲気などは微塵もなく、恐ろしい集中力で本は既に3冊目に突入していた。己が悪いと思えば素直に謝る姿勢といい、職務に対する真摯さに見張っていた家人は舌を巻く。才に胡座を掻き、長命種を無能と嘲りながら龍尊を利用しているような人間かと勝手に思い込んでいた彼は、認識を改める必要性を感じていた。
応星が龍尊である丹楓を利用していると言うよりも、丹楓が勝手に彼のために行動しているのだと。
その件の龍尊は現在、神策府の一角にある室にて円卓を囲む六御会議の場に居た。
例の『応星の代理殿』も出席している。
「此度、百冶殿が倒れられた。そちらに侍する驍衛殿が早期発見をしたため、治療が間に合ったが、そうでなければ命を落としていたであろう」
丹楓が騰驍将軍の背後に侍る景元を指し示し、経緯を簡便に説明する。話は通っているようで、将軍及び、各司の長達も驚きはしていない。
白で統一された簡素ながらも光溢れる室内は窓を開け放され、朝の清浄な空気と愛らしい鳥の声が流れ込んでくる。が、丹楓の低く静かな声が空気を振動させると雰囲気は一変し、ひりつく空気に様変わりする。
「代理殿は、この件をどう受け止めておられるのか、お聞かせ願えまいか」
「は、彼は……、その、飲食や睡眠を疎かにする性質でありまして、此度もそのために体調を崩されたのだと……」
応星代理の天人は、真っ白な大理石の円卓の表面を視線で辿るばかりで顔を上げず、冷や汗を掻きながらしどろもどろに回答する。しかし、それで納得する者は居ない。
「余は『間に合わなければ命を落としていた』と、申した。体調を崩す水準の話ではない。納品に関する日程管理、疎かにしがちであると理解しているならば、食事や体調の管理も其方の役目では無いのか?彼の者が造り上げた奇物を我が手柄の如く並べてみせるのが『代理殿』の仕事であろうか?」
丹楓は一息に言い切ると、白々と光る冷酷な瞳を代理に向ける。
「敢えて付け加えるが、百冶殿は納期が差し迫っているからと深夜の工房に独りで業務に当たっておった。代理殿はご存じであったか?」
「は、い……。自分は残るから、先に帰っていいと仰いましたので……」
「無理のある日程も、百冶殿の不調も、遅くまでやってしまうであろう性質も、代理殿は何一つ気付かれなかった……。と、成る程」
丹楓の声は、仙舟方壺の生命すら凍り付かせる冷気の如き鋭さを以て、無意識とは言え応星を死に追い込んだ者を奈落の淵へと立たせる。代理は懸命に言い訳をしようと酸欠の金魚の如く口を開け閉てしているが、上手い言葉が思いつかないのか程なくして黙り込んでしまった。
丹楓が短期間で調べた範囲でも、この『代理殿』は応星の名声に乗じはしても彼自身は軽んじ、都合のいい道具のようにしか考えていない。百冶代理の名の下に専横も目立ち、仙舟から出された予算、大口の取引先からの依頼金の横領と列挙するにも口が腐りそうな有様である。
これだけでも唾棄するべき存在でありながら、無闇矢鱈と依頼を詰め込み、応星を間接的に殺そうとした。とも言える。余程、荒唐無稽で非現実な依頼でない限り、応星は納期を理由に『出来ない』とは決して言わず、自身を蔑ろにしてでも完璧にやり遂げるがために。
「龍尊殿の報告書によって子細は確認させて貰った。この者を解任し、新たな代理を選考するべきと考えるが、異議のある者は在るか」
騰驍将軍が、威厳に満ちた声色を以て宣告し、視線が周囲を一巡するも、六御の誰もが口を開こうとはしない。
「百冶、応星殿の一年は凡愚の千年にも相当しよう。この者の行いは替えの効かぬ仙舟の宝を傷つけたにも等しい。貴様の最後の仕事は無理のない日程の調整と幽囚獄へ入る事だ」
丹楓の言葉を合図に、代理と呼ばれた者は異様な量の汗を流しながら、雲騎驍衛である景元にその場で捕縛され、連行されて行った。可能であれば死ぬまで拷問にかけても飽き足らないほどの怒りを内包していた丹楓は、連行される背中を眺めながら大理石の卓に龍爪を立て、一筋の傷を残していた。
▇◇ー◈ー◇▇
太陽が真上を向く頃に丹楓は龍の宮へと戻り、真っ直ぐに応星の居る寝所へと赴く。
「ん、おかえりー」
「体調は良くなったようだな」
脇棚に幾つも置かれた皿の量を見て、丹楓が眼を細める。
「おい、持ってきたぞ。誰だよお前さんは食が細いなんて嘘吐いた奴……っ!」
見張りを務めていた家人が料理を抱え、文句を言いつつ寝所に入った瞬間、丹楓の姿に驚いて体を硬直させた。
「不摂生で弱った胃腸が整えられ、睡眠を十分にとって食欲が回復したのだろう。なぁ、応星」
「うん、別に小食では無いな?」
本を片手に持ったまま、肉饅を囓っていた応星が丹楓に視線を向け、小食の噂を否定する。見張りの彼は『そうですか』などと恐縮しっぱなしであるが。
忙しくなれば、ながら食いが出来る物ばかりを食べ、最悪食べずに仕事へ集中してしまう悪癖。日々の不摂生のために胃もたれを起こして量が食べられず、酒を嗜む際も少しのつまみで酒ばかりを煽るが故に小食説が出だしたのだろう。
「其方は玉実鳥串を好んでおったな。食べられるなら用意させよう」
「食べたい。あと十中八九、食いすぎで寝込むと思うから胃薬貰えると嬉しい」
「相解った。そちらも砂糖で包んでやろう。長く嘗めると苦いからな直ぐに呑むのだぞ」
「うん」
苦い薬が出てくると想像した応星だったが、甘くしてくれると聞いて表情が綻ぶ。
「玉実鳥串なら美味しい店を知ってますが、買いに行きますか?」
「頼む。応星は余が見ておく故、ゆっくりで良い」
家人は拱手にて応じ、直ぐに買い物に走って行った。
「さて、胃薬を調合してくるが、脱走は企てるでないぞ。企てたら、これから出される薬が味覚を破壊するほど苦くなると思え」
応星は一瞬だけ丹楓から視線を逸らし、考え込む。
「ふむ、苦い薬で足らぬのであれば、足を鎖で繋ごうか」
「脱走しない、しないから……」
丹楓が自らの顎を撫で、苦みが罰にならぬと知れば強硬手段を提示する。
焦った応星は、故意に隙を見せた丹楓へ苦々しい心地になるが、深く追求すれば罰が増やされそうで、口を噤んだ。
「それで良い、暫し待て」
応星の髪を撫で、丹楓がうっそりと眼を細めて寝所を離れる。
丹楓は悩む。
今後、代理となる者の選定。
応星に何某かあった際、即時に対応できる方法。
数日の内に、応星が職務に復帰し、調整された日程に驚いていたが、暇になれば別の無茶をするのがこの男である。
応星へ、誠実ながらも厳しく対応できる人間の必要性を、工房の床で寝入る痴れ者を眺めながら丹楓は考え込む。一応、学習したのか暖かい炉の前で眠る程度の知恵は出たようだが、こんなものはその場凌ぎでしかない。
丹楓は、自ら応星の補佐として動く事も考えはしたものの征伐に出れば直ぐには戻れず、矢張り誰かを専用で付けるが最善との結論になってしまう。
代理を解任し、別の補佐を探す確約をくれた騰驍将軍も、同じような問題が起こっては無意味として、人選は難航してた。
「何も、機巧に通じておらぬ者でも誠実ならば……、だがあれの口に丸め込まれるようでは、また無意味」
元々、仙舟の民は長生に驕り、殊俗の民、要は短命種を見下して差別する。そも、『百冶代理』の存在自体、応星へ百冶という名の首輪を付けながらも実権を与えないとする仙舟の悪辣さを表しており、歓迎される物ではない。仙舟の建前は、応星が殊俗の民であるが故、雑事に追われて鍛造が疎かにならないようにする。とするもので、今でこそ応星も鍛造に集中できるとしてそれを許容はしているが、宣告された当時は酷く傷ついていた。建前から、『短命種如き』に頭目たる権限を与えるなど、あり有り得ぬ前例を作りたくない本音が透けて見えていたのだから。
そんな中から選抜しようにも難航は当然で、同じ殊俗の民であればどうか。との意見は、先ず殊俗の民が寿命尽きるまで仙舟に籍を置く事自体が珍しいため不適合である。
相応しい人物が浮かばず、丹楓も頭痛がしてきた頃に執務室から出て外の空気で落ち付いていれば、家人同士の会話が聞こえた。
「あの応星って奴が、また夜遅くまで工房に居たから引っ張り出して飯食いに連れてってやった」
「最近、用も無いのに工造司に行ってると思ったら、応星様を気にしてらしたんですね」
「いや、だって、彼奴に何か遭ったら龍尊様がご迷惑だろう?」
「あの子が気に入ったのだと素直に仰ればいいのに。心を開けば素直で可愛い子ですよ?」
声からして、己が幼い頃の守り役だった女と、事件の際に応星の見張りを頼んでいた男の声である。言葉はやや乱暴であるが、応星を気にかけているらしい内容に丹楓は眉を上げ、介入せずに聞き耳を立てた。
「俺は機巧の事はさっぱりだが、懸命に向き合ってる姿は素晴らしいと思ったよ。だがそれだけだ。俺の忠誠心は龍尊様に捧げられているのだから」
男が腰に手を当て、鼻を鳴らしてふんぞり返る。
応星に忖度せず、かと言って軽んじず、私情を交えず職務を遂行し、一度騙された経験があるため警戒心もある人物。
降って湧いた光明に、丹楓は直ぐ様、騰驍の元へと赴き、推薦する人物を提示した。
それから騰驍の行動は早く、即日で辞令が出され、男は魂消ていたようだが龍尊の推薦と知れば反発もなく受け入れ、応星も全く知らぬ相手ではないからか、すんなりと迎え入れた。
数日、様子見をしたが、比較的上手くいっているようだった。
また一ヶ月が過ぎ、朱明。炎庭君からの届け物を見て丹楓は応星の元へと向かう。
装飾が施された長方形の箱の中には一対の腕甲が入っている。龍脈一族の巨匠が造り上げた物。対をなす腕甲は、もう片方の温度を、居場所を感じ取れるのだ。
龍尊である己と対の物を身に付けていれば、不埒な虫の除外効果もあろう。
星槎に乗り込み、腕甲を身に付けた応星の姿を夢想しながら丹楓は笑む。
応星に関してのみ、この鉄面皮の表情は良く動くのだ。