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▇◇ー◈ー◇▇
夏の熱気が薄れ、秋が見え始めた頃。
完全に元通りとは行かないが、胃を圧迫する異物がなくなり、普通に食事を取れるようになった胡麻は随分と回復し、年齢の割に。はつくが、元気に玩具で遊び、良く眠る。
「胡麻、可愛いねー」
景元が一通り猫じゃらしで遊んだ後、疲れて寝転んだ胡麻を撫で回してあやしていると、撫でられる心地好さから眠りだし、そうっと専用のベッドへと寝かせる。
「そろそろ遅いし、帰ったらどうだ?」
刃に促され、時計を見れば既に夜の八時は回っている。
応星は風呂に行き、母親は仕事をしてからそのまま寝ると宣言して部屋に籠もってしまった。今は刃と景元の二人切り。
「刃……」
「なんだ、送って欲しいのか?」
「そうじゃなくて……」
年下故に致し方ないが、子供扱いが過ぎる刃にやや不満を抱えつつも、
「今度、休みの日に二人で出かけない?」
意を決して発言すれば、刃が景元を見詰めたまま考え込む。
「何かやらかしたなら一緒に謝ってやるし、応星が悪いなら俺が怒るから素直に白状しろ」
刃の頭の中では、応星と喧嘩をして、また変な意地の張り合いでもして意趣返しに別行動を起こそうとしている。と、なっていた。日頃の行いの結果であるため言い返す余地がない。
だが、引けもしないのっぴきならない気持ちもある。
「何もやらかしてない。それとも、私と二人で出かけるのは嫌かな?」
「嫌ではないが……」
どこかへ出かけるとなると大体は三人で一組だったため、どこか違和感があるのだろう。
「心配しなくてもいいよ。もう行き先はお母さんに言ってあるし、応星も知ってる。後は刃が一緒に行ってくれるかどうかだから」
「根回し済みか、周到な奴め」
刃が眉を下げて笑い、了承すると次の日曜日、九時から出発だと興奮気味に伝えられる。ただ遊びに行くにしては随分早い気がするが、はしゃいでると考えれば可愛くて、頭を撫でながら刃は了承する。
「本当?絶対だよ!」
景元が飛び上がるように喜び、刃はそこまでか。と、苦笑しつつ帰宅する少年を玄関まで見送った。
▇◇ー◈ー◇▇
お出かけ当日。
刃は動きやすい黒いスニーカー、デニムパンツに白いTシャツ、日除けに薄手のフード付きパーカーと簡素な装いで、出かけた際に不足がないように必要そうな物を一通り入れた肩掛け鞄を持って景元を待っていた。
時間前にどこかぎこちなく出てきた景元は、白いスニーカーにチノパン、黒のハイネックインナー、黒のロングジャケットと白黒で纏めて随分と大人びていた。背も一七○センチ近くはあるため、一見して小学生には見えない。
「どこか良い所に行くのか?着替えた方が……」
刃も清潔感があり、こざっぱりと纏めているが、近所の公園辺りに行くような装いであり、景元はこれから洒落た場所にでも行くような装いである。
「良い所ではあるけど、別に服装を気にする場所じゃないよ」
どこか照れながら景元が刃の手を握り、先導して歩いてバス停まで行く。
行き先を聞いていない刃は素直について行く。
「どこに行くんだ」
「行ったら直ぐ解るよ。これ渡しておくね」
そう言ってバスチケットと電車の切符を渡してくる。
「二つも居るのか?お金はどうしたんだ?」
刃の質問は止まらず、
「行きたいのは私の我が儘だし……、全部用意してるから受け取ってくれると嬉しい」
そうは言われても、年下の景元に奢って貰うのはどうにもすっきりせず、移動費の代わりに昼ご飯でも奢れば良いのか考え込む。程なくしてバスが来ると、矢張り景元は落ち着かない様子で、バスへ乗車する階段でこけそうになったり座席に座ろうとして引っかかったりと周囲が見えておらず、無事に目的地に辿り着けるのか不安になるほどの不注意ぶりである。
「お前、本当に出かけて大丈夫な状態なのか?」
「ちょっと、緊張してるのかも……」
刃がよくよく景元の顔を見れば頬も少しばかり朱く、熱中症や疲労による発熱でもしているのか額に触れると、どんどん体温が上がる。
「なぁ、バスに乗っておいて何だが、帰らないか?熱っぽいぞ……」
「本当に、本当に大丈夫」
念のために持ってきていた叩いて中身を潰す事で冷たくなる瞬間冷却剤を出し、刃が景元の首筋の襟元を引いて項に放り込む。
「つめっ……」
「ほら、水分も……」
「あ、あぁ、うん……」
半分だけ凍らせたペットボトル入りのお茶を景元に持たせ、飲むように促すと体温を確かめるように耳に触れ、手を握る。
かなり丈夫になったとは言え、直ぐに熱を出して伏せっていた応星の世話を恒常的にやっていただけ合って対応は手早いが、残念ながら刃の行動は景元の熱を高めるばかりである。
「体温も高いようだし、顔が赤くなっている。矢張り今日は諦めよう」
「本当に大丈夫。それより、ちょっと擽ったくて恥ずかしい……」
刃の構いように、他の乗客が微笑みながら眺めている事に気がつき、小さく声を上げて座席に座り直し、それでも心配そうに横目で景元を見やってくる。
「ちょっと緊張してるだけだから……」
「今更?」
二人切りは初めてだが、一緒に出かける事自体は何度もやっている。たった一人居ないだけで違和感は強いものの、何を緊張する要素があるのか。
「ちょっとね……」
はきはきしている景元に珍しく口を濁し、膝上で指を遊ばせる。
刃も口数が多い方ではなく、景元も上の空で会話も弾まず、バスが目的の駅に近い停留所に着くと、慌てて降りる。
「また引っかかって落ちるなよ」
「大丈夫だって」
刃に手首を掴まれながらバスを降りる景元の顔はにやけるのを懸命に我慢しているようなもので、刃は具合が悪いとは違う可笑しな様子に内心首を傾げていた。
「えっと、ホーム何番だっけ……」
スマートフォン記していた道順を確認し、再び景元が刃の手を掴んで先導する。
幼少時、出かける際にいつも手を繋ぎ、何処に行っても兄弟扱いされる景元と応星に、兄を盗られたような悋気を発して拗ねた挙げ句泣き喚いた後、ませた景元が虚弱な応星を助けてやっていたつもりであった事実が発覚して感情の置き所を見失った記憶が過る。
今思えば、半身を奪われて独り取り残されたようで寂しかったのだろうとは理解できるが、当時はそれを言語化出来るほどではなかった。
「刃、電車来たから乗るよ」
「あぁ……」
今度は自身が手を引かれているが、景元は果たしてどんな気持ちで手を握っているのか考える。
体温が高く、少しばかり汗が滲んで、初めて自ら計画して行動する遠出に緊張しているが故に、安心を求めて握るのか。ついでに、逸れないようにだろうか。
「何処に行くんだ?」
「行ったら解るよ」
手を握る力が強まり、景元が微笑む。
一度は行った事がある場所なのか、頑なに開示してくれない。
暫く電車に揺られていれば、刃は見覚えのある物が目に留まり、支線が固定される。
「なんだかんだ言って、あれから行ってなかったね」
刃が行き先に気付いた事を察した景元は笑みを深めて白状する。
「あの時は、観覧車に乗れなくて残念だったな」
「尋常じゃなく暑かったからな」
遠くからでも目視できるほど大きな観覧車。
人が乗っているかどうかまでは視認できずとも、ゆったりと動いている様子が確認でき、気候の落ち付いた今日であれば。と、期待する。
「お前は動物に小便を引っかけられて災難だったな」
「あー、あれは吃驚したなぁ」
切っ掛けがあれば思い出話に花が咲き、体感的には瞬く間に目的地に辿り着き、案の定、入場チケットを購入していた用意の良さに舌を巻く。
入場チケットを提示し、記憶よりもやや古びたゲートをくぐれば、日常から切り取られた遊び場が現れる。
「昼飯くらい俺に出させろよ」
「うん、ご馳走になろうかな。荷物重くない?代わろうか」
慣れているため特に重くはないが、景元が差し出した手をそのままに引こうとしないため、荷物を肩から降ろして渡す。
「こんなに何入れてるの?」
「色々だ。飲み物とか、さっきやった冷やす物に電池式の充電器に、ボディーシート、一応シャツも入れてある。これでも厳選した」
「相変わらずだねぇ。旅行に行く時、刃が居たら安心だ」
「誉められてると思っておく」
「誉めてるんだって」
他愛ない話をしながら懐かしさ噛み絞めつつも、新しい物や愛らしい動物を眺めて二人は楽しむ。景元も初めて来た頃のように、動物を見るなり突撃していくような様子はなく、寧ろ小さい子供達が小動物と戯れ、はしゃいでいる姿を一歩引いて眺めていた。
「あの甘えん坊が成長したな」
頭の中で呟いたつもりが、声に出ていたのか、じわ。と、景元の顔が赤らむ。
「そんなに?」
「お前が来て、家にもう一匹猫が増えた感覚だった」
当たり前のように人を背もたれにして膝の上で堂々と寛ぎ、何かとくっつきたがるのは、両親が忙しさの余り碌に家に居らず、幼児に似付かわしくない賢さから状況を理解して、大人に甘えるのを我慢しているが故だと思いついてからは、求められるままに応じていた。
応星が茶化せば引っ付き虫は更に酷くなり、トイレにも行けない耐久戦を何度やった事か。
「出会った頃は懐に収まるくらいのちびだったのに大きくなったな。本当に追い抜かれそうだ」
まだ十センチ近く差はあるが、刃や応星の成長が止まり、景元が伸び盛りになったら最早、解らない。
「ふ、抜かれた時に応星がなんと言うか見物だな」
「それが楽しみで頑張ってるとこもある」
「負けず嫌い共め」
ちび、ちび。と、可愛がり半分、遊び半分で茶化していた己の兄が酷く悔しがり、相対的に得意げになっているだろう景元を想像しながら口元に手を当てて刃が苦笑していれば、景元が照れ臭そうに頬を掻く。
「刃だって、私を全然、名前で呼んでくれない」
「俺も初志貫徹するタイプなんだ。お前が背を追い越したら呼んでやるさ」
景元がいつまでも『ちび』から脱却できないもどかしさを吐露し、これだけ背が伸びても頑なに名前で呼ばない事への不満を伝えれば、束の間の勝利の余韻を味わうように刃が眼を細めて笑う。
「私も、絶対追い越すって決めてるからね」
「精々尽力しろ」
特に目的無く動物を眺めながら歩いていれば、遊園地エリアに近づいてきたのか、最初は遠かった人の悲鳴が近くなり、視線の先には蛇のようにうねりながら空中を駆け回るジェットコースターが見えた。
「そう言えば、前は乗り物に乗る前に帰ったんだったな」
「今日は色々乗ってみようよ」
早速とばかりに長蛇の列になっているジェットコースターに一時間並んで体感、秒で終わった。が、降りた二人は些か顔色を悪くしてふらつく。
怖気が下半身から全身に向かって襲いかかってくる異様な浮遊感、天地が何度も入れ替わり安定しない視界、地面が光速で近づいてくる恐怖、縦横無尽に振り回される中で周囲は悲鳴を上げながらも楽しんでいるが、景元と刃は声も出せずに冷や汗を流して固定バーを握り締めて硬直していた。
もし、この園に絶叫している姿を記念として写真に収めるサービスがあれば、逃げ場のない絶望と恐怖に引き攣った二人の顔が激写されてただろう。
「次は、もうちょっと体に優しい乗り物にしよう……」
景元の提案に刃は遠くを見ながらも無言で何度も頷き、初めての絶叫マシン体験は苦い記憶になる事が確定した。
「どこかで休もう。地図……」
たった数分の体験で半日歩き回ったかのような疲労感を覚えた刃は、近くにあった案内看板に寄って休憩場所を探す。
「少し遠いがあっちだ」
荷物を肩にかける気力も無く、手をだらりと下ろして、よぼよぼとしている景元の手を今度は刃が引き、休憩がてら昼食を取る。
「小さい頃に乗ってたら、大泣きして漏らしてたかも……」
売店で買ったアイスコーヒーをストローで啜り、ベンチで休憩しながら、景元が思い馳せる。文字通り小便臭い餓鬼だな。などと茶化す余裕は刃にもなく、曖昧に返事をする。
「応星だったら……、ジェットコースターの経験は無いはずだが、気に入るんだろうか……」
「想像がつかないや。今度、皆で来たら、応星だけ乗せてあげよう」
自身はもう二度と乗りたくない。とする意志は察したが、反応を見るためだけに独り送り出すのは何の嫌がらせ発想なのか。
指摘する気も起きず、刃は終わりかけのコーヒーを一気にストローで吸い込んで、少々汚い音を立てる。
「少し暑くなってきたなぁ……、次は屋内なんてどう?」
「悪くないな」
近くにあった塵箱に、刃のカップと一緒に自身のものも捨て、売店で貰った園内地図を景元が広げる。
「期間限定でお化け屋敷があるって」
「行くか」
涼しそう。
それだけの認識で向かい、大した待ち時間も無く中に入れば事実、ひんやりとした空気が心地好く暖まった体を冷ましてくれる。
「涼しいし、装飾が凝ってるから面白いね」
景元が楽しそうに室内を見渡しながら感想を漏らす。
お化け屋敷のテーマは殺人鬼が潜む洋館で、壁や家具は斧で叩き割られたような傷がつき、あちらこちらに血糊が撒かれている。廊下に出れば人が倒れており、身体の欠損が見られるため被害者を模した人形であろうとみられた。
「中々の造形だな。応星が見たら喜びそうだ」
刃が人形を覗き込み、殺人鬼に襲われる恐怖の中で絶命した女性の苦悶が秀逸に表現された表情、強ばった肉体を誉める。
「怖がるどころか、じっくりと観察されて評価を受けるなんて、制作者も思わないだろうなぁ」
「ここは応星を連れてきたら駄目だな。良く出来てるから造形や表現を一々細かく見たがって動かなくなる」
喜びそう。ではあるが、施設の迷惑になる行為は配慮してしかるべきである。
「うっかり入ったら、二人で引き摺って移動しないといけなくなるね」
「考えるだけでも面倒だ」
刃が状況を想像して小さく笑い、人形を通り過ぎれば明滅する照明が恐ろしげな雰囲気を醸し出し、どこからか獣の唸るような声が微かに聞こえる。周囲を観察しながら次の間へ続く扉を引けば、斧を手にした殺人鬼が刃へと飛びかかる。が、刃は飛びかかってきた相手の顔面と武器を持った手を反射的に鷲掴みにしてしまった。
返り血だらけで原型が解らないほどの襤褸を纏い、人の生気を感じさせない漆喰のような白い肌に鼻や唇を削られ、歯を剥き出しにした異形。
如何にも悍ましい見目であり、目にした瞬間、人の神経を逆撫でて恐怖を煽るよう設計されているのだが、予想外の展開に刃も殺人鬼も硬直し、見つめ合って数秒。
「悪い……、驚かせて済まなかった」
殺人鬼の頭を撫で、申し訳なさそうな刃と笑いを堪える景元が脇を通り過ぎる。
刃の歩みは早く、周囲を碌に見ないまま幾つかの部屋を通り抜け、屋敷から脱出するや否や、景元は思いっきり吹き出す。
「師範との訓練の成果が良く出てるじゃないか」
「煩い……」
「あれ、絶対、殺人鬼に追いかけられて私達が逃げ回る設定の奴だよ」
思わぬ反撃を受けて呆気にとられて棒立ちになる殺人鬼。怖がりもしなければ施設の設定を根底からぶち壊して気不味そうに謝り、相手を慰めて逃げるように出口を目指す刃。笑うなと言う方が無理である。
笑われている張本人は真顔であるが、頬がほんのりと赤らんでしまっており、涼を求めて入ったはずの施設で返って暑くなって出てきてしまった。
「ほら、丁度いい時間だし食事に行くぞ……」
「解った。何食べようか」
笑いすぎて膝から崩れ落ちていた景元の襟首を掴んで猫の仔のように引き上げ、刃は園内地図を奪うと率先して歩き出す。
「ねぇ、顔見せて」
「断る」
景元の前を歩く刃は園内地図で顔を隠し、頑なに顔を見せようとしない。
刃の照れた顔を見ようと、景元が刃の周りをちょろちょろと煩くしていれば、肩に腕を回され、押さえつけて強制的に俯かされる。
「酷いなー。暴力反対」
「人で遊ぶな……」
「楽しくてつい。もうしないから」
刃が鼻を鳴らして景元を開放し、レストランへ向かう。
時間も昼時と合って人は多かったが、空調の効いた店内は幾らか空いており、二人席に座る。
「何食べる?」
「お前と同じ物でいい」
注文を景元に丸投げし、刃はスマートフォンを弄る。
「どうかした?」
「今日は日差しが強めだから、応星が体調を崩してないか気にしてる」
「師範のお陰で大分、改善はしたけど、気をつけるに越したことはないもんね」
剣道の師範でもある鏡流は髪も肌も白く、眼が鮮やかな朱という刃と応星に似た体質で、肌の負担にならない日焼け止めや、きちんとした落とし方、その後の肌の保湿などを教えて貰い、日差しの下で出来る活動時間は大幅に伸びたが、矢張り長時間ともなると肌や眼を痛めてしまう。
「体質は面倒な相棒だけど、悪い事ばかりでもないさ」
「前向きだな」
「どうしようもないものを思い悩むのは時間の無駄だ。応星の受け売りだけどね」
難儀な体質ではあるものの、だからと言って悲観するでもなく事実として受け止め、言い方は悪いが他人を安易に蔑む人間を炙り出す都合のいい道具とも景元は考えている。
「決めたけど注文していい?」
「あぁ」
パンダを模したパンズが乗ったハンバーガーセットを頼めば、刃がスマートフォンを置き、然程待たずに提供され、景元が豪快にかぶり付いていれば、刃はちまちまと端から囓っている。
「ポテト作り置きだなぁ」
あっという間にハンバーガーを食べ終えた景元が付け合わせのポテトがしんなりしていた事に落胆していれば、刃が自身のポテトを摘まんで景元の前に差し出す。
「俺のは作りたてのようだから、食べていいぞ」
刃の手ずからポテトを食べれば、かりっとした食感に景元は目を輝かせる。
「俺のと交換してやる」
「刃って、しなしなの方が好きだよね。私からすると不思議だ」
「お前は歯ごたえのある物が好きで、俺はそうじゃないだけだ」
簡潔な回答に景元は呻り、交換して貰ったポテトを味わいながらコーラを啜る。
「景元、そのまま」
刃がスマートフォンを手に取り、景元に向かって写真を撮ると、直ぐに画面に触れて操作する。
「何?」
「食事中だと送信しておいたら、写真を送れと」
「過保護……」
刃と二人切りで出かけたい旨を報告した際も、何処に行くのか。何をするのか。お金はどうする。に始まり、計画するに当たって細かく指導が入った。
何せ、未成年だけでのお出かけだ。計画通りに行ってるか気がかりであろう事は理解しても、もう少し信頼して欲しい気持ちもある。
「六時までには帰ってこい。だと」
「えー、待ち時間と移動時間考えたら、乗れて後一つか二つじゃないか……」
「大人びて見えてもお前はまだ小学生だしな。何か遭ったら俺の監督責任が問われる」
年齢を出されると景元は立場上、白旗を上げるしかなく、悔しさに歯噛みするばかり。
「わかったぁ……」
解り易く不貞腐れ、景元がコーラを飲みきり、刃が食事を終えるまで地図を眺めながら待っていた。刃が食べ終え、食器類をカウンターに戻して外に出れば、刺すような日差しに二人は眼を細める。
「帽子かサングラス持ってくるべきだったなぁ」
「仕方ない。あと一つで終わりにて帰ろう」
建物の僅かな日陰に移動し、地図を眺めていれば景元が様子を伺うように施設を指差す。
「これ、乗らない?」
「あぁ……」
景元が指したものは観覧車。
初めて訪れた際に、余りの猛暑に断念した乗り物だ。
日差しは強いが、ゴンドラ内の気温次第では乗れるだろうと判断し、見上げれば確認できる観覧車を目指して歩く。
「頂上から見たら一望できるかなぁ」
「あの高さなら全体を見渡せそうだな」
目的地へと辿り着けば、特に乗車制限はされていなかったが、日差しの強さ故か人は余り並んで居らず、大して待たずに順番が回ってきた。
「おー、案外揺れる」
景元がゴンドラに乗り込み、スタッフの案内に従って刃と対面に座れば、安定感はあるものの、どこか足下が不安になる感覚がした。
ゆったりと昇っていく視界に景元は周囲を一度見渡してから生唾を飲み込み、床に膝をつくとぼんやりと外を眺めている刃の手を取った。
園内を一望出来る景色が見たかったのではないのか。当然の疑問が刃の頭を過るも、真剣な眼差しに言葉が止まる。
「真剣に聞いて欲しいのだけど、私は君が好だ。これから先もずっと一緒に居たい」
「兄弟……」
「そういう家族や親愛の好きじゃない」
餓鬼の癖に。
この小賢しい子供に欺瞞をぶつけた所で容易く躱されるだけ。
少々驚きはしたが、他人でありながら近し過ぎる関係性を思えば、そんな勘違いもして然るべきであろう。刃は真っ直ぐに見詰めてくる懸命な金色を眺めて考え込む。
「答えは今直ぐ必要か?」
「えっ……」
じわ。と、景元の瞳に悲哀が混じり、薄らと滲む。
「結論を急ぐな。お前らしくもない」
「で、でも……」
答える事を拒絶されるとは、恋心の否定に他ならないのではないか。景元の心臓が緊張から鼓動を早め、呼吸が浅くなる。
「お前が、そうだな……。高校まで卒業したらきちんと考える。それまでに、色んな人と出会って、交流して、それでも俺が好きならもう一度言え。安易にその気持ちを受け取るには、俺達は近すぎる」
「そ、それって……、うぁっ!」
決して拒絶ではない科白に、景元の表情が和らぎ、狭いゴンドラ内で勢い良く立ち上がってしまい、足場が揺れて慌てて刃の隣に座る。
「良く聞け。お前が来るまで、俺は応星と自分しか世界に居ないような感覚で居た。一生、二人だけで生きていくのだと考えていた。しかし、そこにお前が飛び込んで来て俺達だけの世界は壊れた。あれは、お互いに依存していたのだと、今なら理解出来る」
思考や感情、答えは一つしか無いと凝り固まった思い込みは、成長と共に学ぶ知識、人と交流して得られる知見によって容易く覆る。
景元も、刃や応星と同じく、限定的な人間関係である。応星は信頼に足る師と工房での新たな出会いにより背中を押されてひたむきに己と技術へ向き合うようになり、景元も鏡流との出会いで視野を広げた。
自身の成長は、中々客観視できないもので、刃は近しい関係であるからこそ関係を深める行動には慎重になるべきだと考えた。
「俺もまだ未熟だ。恋愛的な気持ちが良く分からない。応じるには俺も様々な経験をして、そう言った感情にどう向き合うか、視野を広げるべきだと思う」
「嫌とか、気持ち悪いじゃないんだ?」
「それはないな。気持ち悪いならそもそも手を握られたままにしておかない」
刃ならばこの気持ちを受け取ってくれる。確かにそう思い込んでいた。
故に、拒絶されたとなれば心に深い傷を負っただろう。だが、刃は景元の気持ちを否定せず、互いの未熟さを理由に答えを保留してくれたのだ。
「六年は、ちょっと長くない?」
「そもそも十八歳未満と付き合ったら、俺が捕まるだろうが。法の番人になる人間ならそこも考えろ」
景元の頭の上に、刃が窘めるように手を置く。
たった五年。されど、十代の今では遠すぎる差。まだ未就学児程度であれば甘えるに都合が良かったが、絶対に覆らない生まれ年。年齢的な差が、今ほど憎くなった事はない。
「そう、だね……」
景元が膝に手を置いてがっくりと項垂れ、大きく溜息を吐いた。
「あの、お客様、大丈夫ですか?」
「大丈夫。はしゃいだらゴンドラが揺れてびっくりしただけだ」
いつの間にかゴンドラは地上へと着いており、慌てたスタッフが扉を開けて項垂れてしまっている景元に声をかけるも本人ではなく、刃が答えて降りるように手を引く。
「じゃあ、帰るか」
「はーい……」
門限の夕刻まで時間はあるが、手を引かれながらぐるぐると考え込んでいるだろう景元は、もう乗り物に気を引かれないだろう。やや後ろ髪を引かれながらゲートを抜け、半端な時間とあって人も疎らな駅に着くとベンチに座って電車を待つ。
「刃、私が高校卒業するまで待っててくれるんだよね?」
何やら考え込んでいた景元がようやっと顔を上げ、告白以上に真剣な、剣呑と表現しても良い雰囲気で刃へと詰め寄る。
「一応な。でも、別に他に好きな人を作るなとは言わんぞ」
近しい年上への憧れを恋愛感情と勘違いした結果であるなら、それはそれで構わない。それを伝えたつもりだったが、景元の顔は険しくなるばかり。
「刃は、誰か好きになる?」
「それは……」
「誰のものにもならないで待っててよ。私は絶対、心変わりなんかしない。いい男になって迎えに行く」
「確約出来ない未来を語るものじゃない」
刃と応星の互いだけが居た世界が景元によって壊されたように、当時は永遠だと感じていても、結果を見れば刃と応星は別々の道を歩み出した。景元も、今は自身の感情を永遠だと、変わらないと断じられるだろうが、未来は解らない。
そう諭した筈が、上手い具合に呑み込めていないようで刃は頭を掻いて頑なな子供を見やる。
「約束。絶対待ってて……」
「そう言うのは自縄自縛って言うんだぞ」
刃だけでなく、自らをも縛り付けて選択肢を狭めるだけの行為。
伝えたい事が十分の一すら伝わってなさそうな現状に溜息しか出ず、詰め寄る景元を宥め、差し出された小指に自身のものを絡める。
「もし破ったら……」
罰則は特に考えてなかったのか数秒程、言葉が止まり、
「浮気者。って大声で泣き喚いてだだこねてやる」
刃が最も嫌がるであろう行動を宣言する景元は座った目をしており、本気のようだった。
「仕様も無い自爆技を使うな……、あぁ、もう知らん。好きにしろ」
「約束ね」
にっこりと、実にわざとらしい笑顔を作って景元が刃に抱きつく。
このような約束を迫り、今後の出会いで他に好む相手が出来てしまえば苦しむのは景元本人である。所詮は子供の口約束とするには決意が固そうで、今から気が重い。
妙に顔が緩んでいる景元と、疲れ果てた様子の刃は無言で電車とバスを乗り継ぎ、一旦各々の自宅前で解散する。
「お帰りー。デートどうだった?ちゅーでもされたか?」
応星は景元が刃に告白するつもりであったと知っており、弟を揶揄るつもりで軽口を投げるも、次の瞬間には頭を叩かれていた。
「刃が……、俺を殴った……⁉」
応星は、常に味方で居てくれた存在の反抗に多大なる衝撃を受けたようで、対して痛くもない癖に、鈍器で殴られたかのように頭を抑えて倒れ伏す。
「刃、刃が、俺を……」
「応星、お前、景元を煽ったな?」
「う……」
幾分、怒りが滲んだ声色に応星が肩を振るわせ、頭を抑えながら仁王立ちをする刃を上目遣いで見やる。
「お前だって、彼奴を嫌いじゃないだろ?」
「幾ら頭が良くても、彼奴はまだ中学にも上がってないんだぞ。対象として可笑しいとは思わないのか」
「だって、俺もお前等がずっと一緒に居てくれるなら嬉しいなって思ったし、景元ならしっかりしてるから変な女に騙されるより安心出来るからさ……、援護しようかと……」
「なんで俺が騙される前提なんだ……」
「お前さ、あんまり喋らないから怖がられたりするけど親しくなったら面倒見良くて優しいし、矢鱈、素直に人の事信じるから……、大丈夫かなこいつ。って偶に心配になる……」
因みに、母親も同意見であると教えられてしまい、刃は気が遠くなるような心地となった。
己としては、体が弱い応星を支えながら自立していると考えていたのだが、端から見れば他人を気遣いすぎて心配になるらしかった。身内の贔屓目もあるとは言え、よもや景元よりも案じられていたとは夢にも思わず、刃に殴られた応星よりも心に衝撃を受け、ふらふらと自室に籠もってしまった。
その夜の刃は天岩戸状態になってしまい、
「悪口じゃないんだって。心配なだけで-」
と、応星が幾ら扉の前で呼びかけても応じず、景元とも顔を合わせなかった。
▇◇ー◈ー◇▇
告白を受けても景元と刃の関係は大きく変わらず、特に過剰な接触をするでもなく、愛を囁くでもなく今まで通りと言えた。
そのまま翌年に景元は中学に上がり、勉強に部活にと忙しいようで、食事後に刃へ甘える行動も減っていく。環境の変化によって、心にも変化が起きたのだ。
刃としては、矢張りこうなった。と、なっていたのだが、七月に差し掛かると、
「私ね、今度司法試験の予備試験受けるんだ」
夕食時に、景元がとんでもない発言をして皆が目を丸くする。
「そう言うのって、大学とか卒業してからやるんじゃないのか?」
「母さんに聞いたら年齢制限はないし、最年少合格者は十七歳だってさ。私が受かったら更新されるね」
応星が当然の疑問を尋ねれば、景元は得意げに胸を反らして答える。
「随分な自信だな」
「過去問で試したら、いいとこまで行ったんだよね。落ちるにしても受かるにしても、挑戦は早いほうがいいと思うんだ」
「はぁ……」
応星よりも忙しない生き様に、刃が曖昧に返事をすると景元が笑みを深めて見詰める。
「さっさと飛ばせる所は飛ばして就職できた方が、プロポーズする時に箔もつくし、安心だろ?」
「あらまー……」
景元の科白に母親が口元に手を当て、感嘆の声を上げる。
尊敬や親愛、憧れを混同した子供の恋心と侮っていたものが、現実味を帯びて刃は背筋に詰めたいものが流れる。
「予備試験に合格できたら、次の年には司法試験に挑戦できるし、一発合格が無理でも、高校生の内に取って卒業に間に合わせたいな。ね、刃?」
「あ、お、ぉ、そう、だな……?」
具体的な未来構想を語る景元の目に迷いは無く、可愛がっていた仔猫が、いつの間にやら獅子に成長していたのだと認識を改め無ければならなくなった。
そして、最早、どのような言い訳をした所で逃げる道は存在しないのだとも。
余談ではあるが、数年後には僅かとは言え身長も追い越され、応星共々呼び名を改めさせる羽目になったのだった。PR -
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数年間の努力の結果。
各々の努力の甲斐もあって体力はついてきたが熟考の末、鏡流から景元は『剣の才はない』と、断言されてしまい項垂れながらの帰り道。
「師範も言ってただろう、心と体を鍛えるものだと」
「そうなんだけど……」
景元も高学年になり、長年の訓練もあって勝率は悪くない。しかし、師匠である鏡流からして、相手の動きや癖を観察して隙を突く奇策を弄しているだけであり、それは剣の腕よりは知略だと断じた。
打てば点が入る試合では勝てても、実践となると力負けや、手練れが相手になれば敗北を喫する可能性が高い。努々隙を作らないように尽力するべし。とのお言葉を貰った。
「刃は悪くない。だっけ……?」
「良くもないって意味にも取れるぞ?」
兄弟ならではの軽薄さで応星が揶揄れば、刃は無言で小突く。
「いいなぁ、背も高いし……」
「お前も伸びてるだろ?」
「そうだけど……」
既に一八○センチをそろそろ越えそうになっている刃と応星を見上げて景元は眉を下げる。あれだけ大きくなると豪語していたが、中々二人を追い越せない己にも失望していた。とは言え、景元よりも五歳年上の刃と応星は高校生。一番の伸び盛りである。
景元も同学年の少年よりは上背があり、焦る必要は無いのだが、本人としてはもどかしさを感じていた。
「俺等が格好良すぎるからって羨むな」
応星が景元と肩を組み、身長を誇示するように顔を押しつける。
「君よりは勝ち星多いから羨んでない」
「相変わらず生意気だな……、俺は剣より造形や工学を極めるから強くなくてもいいんだよ。続けてるのは体力付けるため。先生にも体は鍛えて置いた方がいいって言われてるしさ」
応星がわざ髪を掻き混ぜるように景元の頭を撫で、体を離した。
その手には竹刀を握り込んで分厚くなった竹刀ダコ以外にも、刃物での切り傷や火傷の痕などもある。それは、十三歳の頃に行った刀工や工芸品を扱った展示会ですっかりその道に魅了され、勉強のために工房通いの日々を送っているからだ。
「はいはい、応星大先生はご立派ですねー」
「あー、もう可愛くないなぁ。俺が人間国宝になったら見てろよ」
「国宝か。その時までに、応星の作品を大量に確保して、高値がついたら売り払おうかな」
「売るな、保管しとけ。永遠に崇め奉れ」
「神様にでもなる気かい?」
「おー、それもいいな。創造神名乗ってやるわ」
「なれるといいねー」
「気持ちが籠もってないぞ糞餓鬼」
「先生はお口が悪いなぁ、そんなんじゃ弟子が逃げてしまうよ」
「そんな軟弱者じゃあ俺の弟子は務まらないな」
「パワハラで告訴されても知らないよ?」
「その時はお前が俺を助けろよ。未来の検事様」
「えー、どうしようかな?私は犯罪者を有罪にするのが仕事なんだけど……」
冗談混じりでじゃれ合う二人の仕様も無いやり取りを一歩離れて見守る刃は密やかに嘆息する。幼い頃から似たようなやり取りを続けて飽きないのか。との気持ちと、互いに真っ直ぐ打ち合う言葉遊びが楽しいのだろう。との気持ち。そして、羨ましさがほんの少し。
彼等と比すれば口下手に該当する刃では半分も言い返せないで応酬は直ぐ様止まってしまうだろう。唯一無二の兄を他人に盗られたようで、二人の仲の良さを羨んだ時期もあったが、可笑しな嫉妬で悩んでも意味が無いと理解してからは開き直ることにした。
「刃、俺と此奴、どっちが悪者見えると思う?」
「急になんだ」
応星が振り返り、やにわ刃に質問を投げた。
どうも、刃が呆れて思考を飛ばしている間も応酬が続き、どちらが悪人っぽいか。の、話になったようだ。
「悪者……、まぁ、腹黒そうなのはちびすけだな」
「えっ、こんなに愛くるしい私が腹黒⁉」
「ほら見ろ、お前の方が悪巧み得意そうだしな」
「悪巧みと言うか、此奴は、戦略ゲームが得意だろう?相手の取るだろう行動を何パターンも考えてそれに合わせた行動を先んじて起こせる。知略を要する物に対しては物凄く強いから見方によっては。と言う意味だ」
応星と取っ組み合い擬きをしていた景元は、膨れていた顔を晴れやかにし、刃に飛びつく。
「やっぱり刃は私を解ってくれてるよねぇ」
猫のように景元が刃の首元に擦り寄り、癖のある柔らかい髪を顎に押しつける。
剣の才はない。と、断言されたものの、幼い頃から片鱗を見せていた賢さは周囲の群を抜いており、この国に飛び級制度があれば瞬く間に大学まで行けただろう頭脳の持ち主である。
「ずっと一緒に居るんだから当たり前だろう。応星だって巫山戯過ぎているだけで解ってる……」
「やったー。お兄ちゃん達大好き」
巫山戯っぷりは景元も負けていないが、年下特有の小賢しさにて年長者から学習しているだけであり、要するに応星が悪い見本なのだ。意固地な部分がありながらも努力家で気が優しく、周囲をよく観察している彼は方々から慕われており、悪人とは縁遠い人間だ。
「腹黒は言い方が悪かった。寧ろ、小さい頃からきちんと目標があって凄いと思う……」
景元は幼い頃から両親に憧れて検事を目標としている。
応星も夢に向かって行動し、懸命に学んでいる最中であり、三人の中でただ一人、夢も目標もなく、ただ無為の日々を過ごしているのは己だけ。
応星は手先が器用で刃はどことなく不器用、成績事態は特に悪くないものの景元のようにずば抜けてはいない。二人と比べて体力はあるが、本格的に運動競技や武道を学んでいる者と比べれば果たしてどうか。現に、師範である鏡流相手に一度も勝ち星はない。
他人と比べる必要は無い。自分は自分だ。などと綺麗事を言われたとて、自身が何もかも中途半端に思えて、劣等感や自己嫌悪に陥ってしまっている。
「刃、何か落ち込んでる?」
巫山戯てじゃれつくのを止め、景元が真剣な面持ちで刃の顔を覗き込む。
相変わらず聡い。
「え、お兄ちゃんにも言えない悩み?」
応星まで刃の肩を抱き、夏場に大柄な人間が絡み合って暑苦しいことこの上なく、二人を引き摺るように歩を進める。
「来年には進路を出さないとだろ?お前達と違ってやりたい事もないし、どうしたものかと……」
無駄に隠すと隠しただけ長びくのだから、察知されたのなら素直に白状するが得策。身を以て知っている刃は素直に真情を吐露し、左右に目配せをする。
「そっかぁ……、解らんじゃないけど。俺も壊炎先生に会うまでは特にやりたい事もなかったしな」
「じゃあさ、警察官とかどう?最初の交番勤務だけど、その内、刑事課に異動して、検事の相棒になって悪者を追い詰めていくんだよ。刃が異動出来る頃には私は検事になってるはずだからさ、一緒に働こうよ」
「なんの本を読んだんだ?」
何に影響を受けたのか苦笑する刃に『真剣に言ってる』そう、景元は不満げに鼻を鳴らす。
「刑事課は、所謂殺人だろう?グロテスクな物をわざわざ見たくないんだが……」
「それは、凄惨な現場がトラウマになって、辞める人も居るらしいから……、強制は出来ないけど……」
「警察は、体鍛えるために剣道習うんだろ?刑事になるかは置いておくとして、お前体格いいし合うんじゃ無いか?」
又聞きの話を景元が思い出し、応星は当座の目標としても遜色ないと勧める。
「公務員だしな、一考の余地はあるか」
「一緒に働けるといいねぇ」
「そういう機会が出来たらな」
現実的で悪くはない選択肢に思え、刃が考え込んでいると、景元がごく自然に手を繋いでくる。賢いとは言え、まだ十二歳程度。甘えたいのかと放置していれば、互いの家が近づいてくる。
「一回風呂入ってから、うち来るか?」
「そうするかなぁ、だらだらしてたら寝そうだ」
応星に促され、景元が自宅に入ると家政婦の女性が迎えてくれる。
この女性も、長年、我が家を支えてくれている一人で、仕事とは言え良く辛抱して面倒を見てくれていた。
「剣道着は置いてていいですよ。洗っておきますので」
「あ、いつもすみません……」
「いいえー」
まだ幼い時分は、もっと厳しかったように思えるが、景元が応星達の家で世話になるようになって負担が減ったからか、一気に優しくなった。
「お風呂入ったらあっち行くんで……」
「はい、もうお風呂は溜めてありますよ」
準備の良さに舌を巻きながら、景元は汗を流して碌に髪も乾かさないまま、胡麻に与えるおやつを握り締めて応星達の家に向かう。
「お邪魔しまーす」
いつもなら、玄関で声をかければどちらかが出迎えてくれ、そのまま上がり込むのだが、返事もなく静かで不信感を抱いた景元が音を立てないよう靴を脱ぎ、拳を固めながら恐る恐ると居間へと向かう。
「どうか、した?」
果たして、二人とも居間の床に座り込んでいたが、景元の声に振り向いても不安に包まれた表情は晴れなかった。
「胡麻が、ご飯をほとんど食べてないみたいで……」
「え、夏バテかな……、ほら、おやつだよ。大好きだろ?」
景元が知る限り、胡麻は偏食の気はあるものの食用旺盛な猫である。特に美味しいおやつに関しては、寝ていようが取り出す音が聞こえただけで即座に飛び起き、大声で鳴きながら駆け寄ってくるほど。それを期待して猫用の寝床で丸くなっている胡麻へ、景元がペースト状になったおやつを見せる。
一週間ほど前だったか、景元が食べさせた最後の日は美味しそうに食べていた。それが、ちら。と、見ただけで溜息を吐きながら寝床に伏せる。
「お母さんに連絡して、病院連れて行こう」
「いつも行ってる病院に向かうバスが都合よくあるかどうか……」
「私が貯めてるお小遣い全部持ってくるから、最悪タクシー使おうよ」
応星が提案し、刃が懸念材料を口にして景元が解決策を出す。
三人で見つめ合い、互いに頷くと応星がスマートフォンを出して母親と連絡を取り、刃がキャリーバッグを出すために動き、景元は家に戻って特に使い道も無く、長方形の紙箱に貯めておいたお金を箱ごと握って蜻蛉返りをする。
三人でバス停まで走り、折良くバスが来たため、人が降りるのを待ってから飛び乗る。
帰宅時間とあって乗車している人間は多く、大きなキャリーバッグを抱えて通路に立つ景元等を睨む者もあったが、胡麻が普段と違う景色に不安を覚えたのか、小さく鳴く声に溜息を吐いたのみであった。
「最近、ご飯あんまり食べてないのか?」
「あぁ、もう十三か十四歳くらいだし、食べる量は減ってたけど、こんなに食べてないのは初めてだ」
主に世話をしているだろう刃に景元が小声で訊けば、胡麻の体調不良に気づけなかった自責を感じるような声色で返す。人間で言えば既に七○歳前後の年齢で、体力や食欲の減退も有り得る事だ。身内は誰一人として刃を責めはしないが、自分で自分が赦せないのだろう。
「私達は次で降りるから座って良いよ」
仲の良さそうな赤髪と栗毛の少女二人が結い上げた長い髪を揺らしながら颯爽と立ち上がり、キャリーバッグを大事そうに抱える刃を座席に押し込み、
「けいちゃん、スタバ寄ってこー」
「いいねー」
そんな軽口を叩きながら停留所へ着いた瞬間、一陣の風のように素早く降りていった。
刃が座る席の隣も空いたため、応星に座らせて景元は二人の少女等を眼で追う。本来は降りる停留所ではないはずが、気を遣わせてしまったのか考えたものの、じゃれ合いながら弾けるような笑顔を見せる少女等からは窺い知れない。
程なくしてバスが出発し、景元の視線はキャリーバッグを抱き締めて俯いている刃へと注がれる。応星自身も、落ち着かなくはあるだろうが刃の背中を宥めるように撫で、どうにか平静を保っていた。
病院で診て貰って、直ぐに元気になればいいな。
胡麻も心配だが、悲しそうな二人を見ているのも辛い。
そんな希望的感傷を抱きながら、流れる町並みを眺めて景元は出てきそうな嘆息を堪え、お金の入った箱を握り潰す。せめて財布に移してくれば良かったかとは思えど、それではバスに間に合わなかった可能性も考えれば、こんな一時の恥など無いにも等しい。
バスが目的の停留所へと着き、応星と刃は定期で、景元はお金を払って降りる。
いつも通っている病院は人が多く、数時間待つのも当たり前なのだが、受付で刃が症状を伝えると直ぐに奥へと入り、二十分も待っていれば順番が回ってきた。
「前回より体重が落ちてますね。いつもきちんとお座りしてるのに、今日は伏せてしまってますし、相当具合が悪いようなので、血液検査と、お腹に異物が無いかレントゲンを撮ります」
「はい……」
病院の診察室は決して広くはなく、医士と助手が必要な場で大男が三人も居ては邪魔になるかと景元と応星が外に出て、刃が主となって医師の話を聞く。
待合室の隅で立って待つ二人も落ち着きがなく、もぞもぞと足を動かし、視線を彷徨わせて壁にあるポスターを読んだりと忙しない。
「軽い夏バテならいいなぁ……」
「うん、まぁ……、遊んでても直ぐ疲れて寝始めたり、走り回ったりしなくなってたから年齢的にも。とは思ってたけど、実際こうなるとしんどいな……」
「うん……」
景元も毎日、胡麻に会って可愛がってはいたが、最近よく寝てるな。程度で深く考えてはいなかった。或いは、あり得る未来から無意識に目を逸らしていたものか。
硝子戸越しに見える診察室の空気は重々しい物で、血液を採るために毛を剃られ、痛いのか悲鳴じみた声を短く上げながら逃げようとするも、押さえつけられている胡麻が見える。
検査のためとは言え、本猫的にはただ痛い思いをさせられているとしか考えていないだろう。採血が終わっても、物悲しげに鳴く声が扉越しに聞こえて心が沈んでいく。
更に十分ほどが経ち、胡麻をキャリーバッグに入れた刃が診察室から出てくる。
「後は待っててくれだって」
むぅ。と、小さく鳴く胡麻を慰めるようにキャリーバッグの中に手を入れて刃が撫でる。
それから三十分ほど、誰も口を開かないまま再度呼ばれ、三人はレントゲンを見せられた。
「胃に異物が見えるんだけど、さっき触った感じ硬い物ではないみたいだから、食べた物が上手く消化できていないか、毛が溜まってるんじゃないかと思います。食欲不振だけでなく軽い脱水も見られるので、消化を促進させる薬を入れた輸液をしておきます」
異物を取り除く手術も考えたが、年齢的に落ちた体力で麻酔や手術に耐えられるか疑問で在るため、推奨は出来ない。医師がそう締めくくり、胡麻は再び診察台の上に召喚され、痛い思いをしたため不機嫌で、具合の悪さも手伝って唸っていた。が、医師はものともせずに背中に針を刺し、助手と交代すると奥の部屋へと入っていった。
「皮下点滴なので、暫く背中がぽっこりしてますけど徐々に吸収されるので心配しないで下さいね。後、皮膚を引っ張って、余り伸びなかったら脱水サインなので細かく確認して上げて下さい。嫌がるかもしれませんが、スポイトやシリンジで口に餌や水を与えるのも有効です」
「解りました」
神妙に刃が返事をすると、看護師は唸る胡麻の頭をそっと撫でる。
俺は不機嫌だ。そんな訴えをする胡麻だが、元々の気の優しさから撫でる手を引っ掻く、噛み付く、暴れるなどの行為はしない。
「んー、頑張ったね。終わりだよー」
点滴の中身がなくなると、直ぐに針が外され、胡麻は診察台に置かれたキャリーバッグの中にいそいそと逃げ込むと、『もう、帰ろう』そう言いたげにむぅむぅ鳴いていた。
点滴を片付ける助手の女性に感謝を伝え、待合室で再度待つ。
自身が払うなどと豪語はしたが、果たして足りるのか別の不安が景元を襲いだし、何度も無意味に箱の中をちら見する。
「あの、いつも来てる病院だか、理由を言えば支払いは待って貰えるかも……」
「私も胡麻のために何かしたいんだよ。やらせて」
刃が気遣いの言葉をかけるも、長年、特に使いもせずに貯めていたお金はこのためにあったのだ。動物病院が幾ら高いとは言え、万が一のために貯めていたお金は少なくはない。
「悪いな。少しずつ返すから……」
普段、喧嘩友達と表現してもいい応星までもが神妙になり、景元はむず痒い心地となる。
「私は君達と血は繋がってないけど、兄弟同然だと思ってる。胡麻だって大事な家族なのに、こう言う時ばっかり仲間はずれにしないでよ」
景元の言葉に、応星は息を呑み、
「そうだな……、お前も大事な弟だよ」
やや場に似つかわしくない、はにかんだ笑顔を見せた。
「なら安心して任せてよ」
刃と応星が頷き、景元は胸に溜まっていたものが流れ出ていくような心地となった。
程なくして受付に刃が呼ばれ、揃って受付に並べば心配そうな面持ちで診察代が提示され、財布ではなく箱からお金を出す行為が少々気恥ずかしく感じつつもお金は十分で景元は胸を撫で下ろす。
「胡麻、少しは楽になってると良いけどな」
「そうだなぁ、腹に何入れてんだよ、お前……」
「出てくるといいが……」
動物病院を後にして、夕焼けに照らされながらバス停までぷらぷらと歩きながら思い思いに語り、停留所で座ってバスを待っていれば、
「あ、母さんだ」
応星のスマートフォンから呼び出し音が鳴り、事の詳細を母親に伝えていく。
診察代を景元が支払った事実に驚いてはいたものの、応星が彼の言葉を伝えれば納得したようで、『解った』それだけを返した。
「車で迎えに来るから、日の当たらない場所に避難してなさい。だってさ」
近くの大型店舗に移動し、軒先を借りて三人は母親を待つ。
程なくして母親の車が到着し、三人は涼しい車内で一息吐いていた。
「帰ったら何食べたい?ピザでもとって食べる?」
まだ自立していない少年達だけでやや無謀ではあれど、自ら何が適切かを考え、行動を起こすようになった子供等の成長に喜びながら家に着くと涼しい場所に胡麻を連れて行く二人を尻目に景元を呼ぶ。
「けー君、お金代わりに出してくれてありがとね。返すから金額教えてくれる?」
「でも……!」
「けー君の気持ちは判ってる。これはね、あの子達がお金を出しててもやった事だから、素直に受け取って欲しいな。子供にお金出させて知らん顔は大人として出来ないわよ」
完全に納得は出来なかったが、『子供にお金は出させない』主張をされれば頷くほか無かった。
景元が診察の領収書を渡し、受け取った母親は微笑みながら頭を撫でる。
「大きくなっても優しいままの君でいてくれて、私は嬉しいよ」
「応星や刃が居てくれたから……」
二人に出会うまで、景元は余りの賢しさに気味悪がられ、或いは揚げ足とりばかりの小賢しい子供と敬遠されてきた。大人とも、同年代の子供等とも上手くいかず、孤立していた。ある種開き直ってはいても寂しさは付き纏うもので、受け入れてくれた二人が居なければ、周囲を見下しながら思考が偏り世を拗ねた人間になっていた可能性もある。
「私は、皆が大好きだから、役に立ちたい……」
「役立つとか、立たないなんて二の次で良いのよ。家族なんでしょ?一緒に居て楽しい。幸せ。だけでいいの」
母親が景元の汗で湿った髪を掻き回し、背中を押して二人が居る今へと送り出す。
動物病院でのレントゲンに血液検査、輸液。
母親の手にある領主書は大人でも息を呑む金額になっている。
それを、まだランドセルを背負っているような年齢の子供が覚悟を持って支払いをしてくれたのだ。報いなければと思う。
ポストに入っていたピザ配達のチラシを持ちながら、胡麻を囲んでいる三人の元へ行き、何を食べるか聞きながら微笑むのだった。
▇◇ー◈ー◇▇
家でも看護をしながら三~四日に一度は病院に行き、脱水を防ぐために輸液をして貰にいくも、一ヶ月近く経っても胡麻はこれといった改善が見えなかった。
医師も、悩みながら栄養剤の投与など、あの手この手で対策はしてくれているものの今日のレントゲンでも胃で頑なに鎮座する異物は小さくなる事も無く、このままであれば腸閉塞を起こす可能性もある。しかし、体力が落ちた状態では麻酔だけでも危険が伴い、手術は患畜の体力を大きく奪ってしまうため成功したとしても後の保証が出来ない。と、沈痛な面持ちであった。
「胡麻、おやつだよー」
病院で疲れた胡麻へ、大好物であるペースト状になったおやつを景元が差し出せば、指に掬い取った分だけを嘗めて直ぐに伏せてしまう。
「もっとあるよ……?ほら」
棒状の袋を差し出しても、匂いを嗅ぐだけで目を閉じる。
体重もこの一ヶ月で半分近く減り、触れれば被毛の直ぐ下に骨の硬さを感じた。
「胡麻、食べないと死ぬぞ」
刃が声をかけながら景元からおやつを受け取り、やや強引に口の中へと押し込む。むちゃむちゃと咀嚼はしているが、呑み込むまでにも時間がかかり、疲れたように大きく息を吐く。
「胡麻、ほら……」
刃が再度、食べさせようとするも、胡麻は前足で顔を隠して嫌がる。食い意地の張った胡麻が食事、ましておやつを拒否するなど、今までならば有り得ず、刃は無言で項垂れて手を硬く握り込んだ。
薄らと刃の視界が滲み、温い水が頬を伝う。
きつく引き結んだ唇が微かに震え、景元の前で在る事を意識して涙を止めようと尽力しても止まらず、次々と溢れて胡麻の寝床を濡らしてしまった。
まだ死んだ訳ではないのに情けない。そう一笑に付してしまおうとしても、喉が引き攣って声が出ず、呼吸が乱れるばかり。景元の顔も見られずに、俯いてれば温かい手が顔を拭い、髪を撫で、背中に置かれる。
「すまん……」
「ごめん……」
絞り出すように刃が謝罪を口にすれば、景元の抱き締められ、同じように謝りながら鼻を啜る音が聞こえた。徐々に命の灯火が消えていく様を見て、心が苦しくならない者は居ないだろう。それが、身近な者で在るならば尚更。
刃が景元と同じように背中を撫で、互いに慰め合う。
「ただいまー」
玄関から声が聞こて二人は慌てながら離れ、買い物袋を下げて居間へ入ってきた応星と母親を見やる。
「何買ってきたんだ?」
「新しいエネルギー食?」
少しでも栄養を取らせようと、水分が多い物や、高カロリーの療養食を胡麻に与えていた事は応星も知っている。
「今からべそかいてるお前等に言うのもなんだけど、余所の国じゃ大事な家族の最後に、とびきり美味しいものを上げたりするんだって。本当は食べさせちゃ駄目な奴とか。それはちょっとどうかと思ったから、めちゃくちゃいい牛肉買ってきた」
涙ぐんでいる景元と刃を茶化す応星も、説明しながら瞳は滲んでおり、一息に言い切ると思い切り息を吸い込んで逃げるように台所へと向かう。
「母さん……」
「どんなに悩んでも行動しても、どうやったって後悔は来るから、せめて思いつく限りの事はしてあげようと思ってね」
目を擦る刃と景元の頭を母親はそれぞれに撫でていれば、ものの数分で応星が戻ってくる。手には、胡麻が呑み込み易いように出来得る限り小さく切って焼いた肉が紙皿に乗せられていた。
「とびきり美味い肉だぞ。一口でも食べてみないか」
応星の呼びかけに胡麻が目を開け、差し出された肉の匂いを嗅ぐ。興味は持っているようで、小さく口を開けた隙に腔内へと放り込むと、ゆっくりとだが味わっているようだった。
「いっぱいあるからな」
次の肉を準備し、呑み込むまで皆が見守る中、胡麻が唐突に立ち上がると、全身を震わせて嘔吐く。
「ごっ……、だ……」
突然の動作に肉が駄目だったのか、もう最後なのかと応星が青ざめていれば、酷く餌付いた後、胡麻は口から大きな塊を吐き出し口の周りを嘗めながら息を吐いた。
「なんだこれ……」
刃が吐き出された物をまじまじと見詰め、首を傾げる。
茶色い欠片は今し方食べた肉。どろっとした色つきの物はおやつだろう。一見、真っ黒な極太のソーセージにも見える物体を八つの眼が真剣に眺める。
「毛か、これ……」
「嘗めた時に呑み込んだ毛が胃の中で絡まって、塊になって出て来なかったのが今出てきた。って事かな……?」
人間達が自らが吐き出した物で真剣に議論する中、胡麻は応星の持った紙皿を叩き落とし、床にばらまかれた肉を美味しそうに咀嚼する。
「食ってる……」
「食べてるな……」
応星と刃が、胡麻が夢中で肉を食べる姿に声を震わせ、その後ろで景元や母親も唖然としながら見守った。
「まだ食べたい?あ、おやつあるよ」
景元が試しにペースト状のおやつを絞り出せば、以前と同じように食らいつき、半分ほどを食べると顔を洗いながら口の周りを満足そうに何度も嘗めてる。
吐き出された胃の内容物はビニール袋に入れて保管し、翌日、柔らかくふやかした物ではあるが、以前と同じように食事をする胡麻の様子に一同感動する。
体調を見て病院に連れて行けば、胃の中にあった異物は見事に消えており、吐き出された毛の塊を見て医師も驚いていた。
「こんなに大きい塊、良く吐き出せたね」
診察台の上で香箱を組んでいる胡麻の頭を優しく撫で、語りかける医師。吐き出された塊は、資料として預かるとの申し出があり、胡麻の毛とは言え、消化液まみれの物など捨てる以外の選択肢がないため快く提供する。
「まだ油断は出来ませんが、食事が出来るようになったなら様子見で大丈夫でしょう。心配ならビタミン剤を投与して輸液をしておきますがどうされますか?」
「うーん、水は飲んでるけど……」
「まだ前ほどは食べられてないので、お願いします」
医師の言葉に皆が安堵の吐息を吐き、輸液が終わって診察台にキャリーバッグを置いても入らず、胡麻は近くに居た応星によじ登ると腕の中で満足の鼻息を鳴らす。
「甘えられるくらい元気になったんですね」
「不調だった時期を取り戻すみたいに甘えてきます」
刃の科白に医師は表情を綻ばせ、甘えたいのに可哀想だが。を前提にしてキャリーバッグへ入る事を促す。待合室に出れば大男二人とその陰に立つ男子の集団に驚く待合室の面々を尻目に気の抜けた表情で待ち、お金を払うと駐車場で待っていた母親と合流する。
刃や応星、景元が代わる代わるに報告をし合い、耳を傾けながら微笑んでいた。
「よーし、今日はお財布痛い痛いデーって事で、奮発して家で焼き肉しよっか。胡麻にも分けてやれるしね」
母親の宣言に息子等は湧き、スーパーへ行くと応星が母親から財布を預かり、刃がカートを押しながら、景元がタレや具材など必要な物を入れていく。
「応星、あの時、胡麻にやった肉って凄く良い肉だよな?」
「うん、なんか俺の作品買ってくれた人が居て、それで滅茶苦茶、高いの買った。シャトー何とかって言う。掌くらいの大きさで万する奴」
籠に入った肉を見て、三人は無言になる。
決して粗末ではないものの、一般的な肉の価格でとんでもない高級品ではない。
「胡麻、食べるかな?」
「一度味を占めたら戻れないんじゃないか?」
「確かに美味そうに食べてたな……」
最後と思っていたのが思わぬ延命効果を得られ、喜ばしい出来事であるが、そんな高級品を食べた後に普通の肉で満足するのか。誰も言わないが、心の片隅に引っかかるものを感じながらスーパーを後にした。
結論を言えば、最初こそ小さく切り分けられた少量の牛肉に飛びついたものの、首を傾げつつ『なんかこれじゃないな』感を出しながら完食だけはした胡麻であった。
【その四】 -
▇◇ー◈ー◇▇
景元が二人に懐く形で始まった縁であるが、懐かれると悪い気はしないのか刃と応星も年下の彼を良く可愛がり、関係は良好。
一年経って小学校に上がっても景元は二人について回り、五歳も年下の彼が懸命に張り合おうとする事が面白いのか、毎月の身長測定が定番になった。
身長を測れるキリンを模した壁掛けに三人で伸びた伸びてないの押し問答。
背伸びをして不正を働こうとすれば小突かれ、景元は茶化される。
「おっきくなってるのに-」
「そりゃあ、俺等も成長してるしな」
悔しそうに景元が零せば応星が彼の柔らかい癖毛を掻き混ぜるように撫でる。
年齢が離れているのだから、早々逆転できないなど分かり切った事ではあるが、景元なりに煮干しを食べたり、言われたとおりに沢山食事をするなど努力はしている。甲斐あって伸びてはいても相手も成長期の少年であり、その差は中々縮まらない。
「まぁ、この調子で頑張れば越せるかもなー」
などと頭を叩きながら適当な口ぶりで応星が景元を煽れば、
「おいこすもん」
との仕様も無い口喧嘩。
刃が呆れたように胡麻を膝に置いて眺めている姿は最早日常である。
ただ、応星と景元が口喧嘩をしたり、仲良く遊んでいると解りづらく不機嫌になる事がままあり、最初は仲間はずれにされたようで寂しいのかとも考えていた周囲も本人が『別に』としか言わないため解決の仕様が無かった。
忙しい景元の両親に変わり、よく面倒を見てくれている二人の母親である彼女は『どうにかせねば』と、悩んではいても刃は元々我慢強い性格であり、滅多に不満を口にしない。
「そうだ、今度みんなで遊びに行こうか!」
兎に角発散させて様子見をする。そう結論を出した彼女は景元の両親に早速連絡を取り、遠出の許可を取り付けると夏休みを利用して動物園と遊園地が併設されたレジャーランドへ遊びに行く予定を組む。
「俺も行っていいの?」
「当たり前でしょ。でもきちんと日焼け止め塗るのと帽子被って休憩しながらね」
応星が不安げな面持ちで訊くと、母親は当然と頷く。
刃や景元にも同様の説明と、逸れないようにお互い手を繋いでおくことであったり注意事項を三人に腰を据えて言い聞かせた。刃と応星は当然ながら、景元も体質が似通っているため対応は慣れたもので、着々と準備は進み、一週間後の当日には万全の体制でイベントに臨む。
当日、午前中に家の前に集合した景元は、お出かけ用に買って貰ったのか白い水兵服と帽子、イルカのぬいぐるみポシェットをぶら下げて登場し、可愛い可愛いとちやほやされてご満悦の様子だった。
刃と応星は紫外線を遮る素材を使った簡素な白の長袖のシャツに、光に弱い眼を保護できるよう目深に被れるキャスケットと簡素な装いだが、
「示し合わせるべきだったわ……」
ぽつ。と、呟きながらお揃いの服を着た可愛らしい三人を想像した彼女は密かな後悔をした。
「では、坊ちゃんを宜しくお願い致します」
家政婦に頭を下げられ、景元を預かった母親は外の景色が楽しめるよう窓際に置かれたジュニアシートに誘導する。いつにも増して、ご機嫌で頬の血色は良く、到着前からそわそわしているようだった。
「ちゃんとベルトは締めた?」
母親の言葉へ、後部座席に座る三人は各々に返事する。
「どうぶつえんもゆうえんちもはじめて」
「連れてって貰ったこと無いのか?」
はしゃぐ言葉に反応した応星が訪ねれば景元は隣に視線を移して頷く。
忙しいに加えて過保護気味な彼の両親を応星は思い浮かべ、体調を崩したり、好奇心旺盛すぎて迷子になる等、万が一を考えると連れて行けなかったのか。将来的に、体が丈夫になれば行く気もあったかも知れないが、どのように考えていたのか、母親同士でどのような協議が成されたかは応星に知る由もない。
他愛ない会話で時間を潰し、目的地に近づくにつれ、巨大なコースターや観覧車が車の中からも見えて景元達の期待が高まる。
「あのぐねぐねしたののれる⁉」
景元が足をばたつかせて巨大コースターを指差して興奮するも、
「お前、ちびだからコースター乗れないかもなー」
意地悪く笑いながら、応星が景元のつむじを突く。
「え、のれないの⁉」
「応星、苛めるな……、此奴は一二〇センチ以上あるから大丈夫だ」
本人の素質か、尽力のお陰か景元は同年代と比較して身長が高い。
身長を出汁にして揶揄りだした兄を窘め、期待を打ち砕かれた衝撃で固まっていた景元へ助け船を出せば、意地悪をされたと気づき頬を膨らませて応星を叩こうと手を伸ばす。
「いじわるー!」
「はいはい、ごめんなさーい」
景元はジュニアシートに体を固定されているため、大きくは動けず腕を振って応星に仕返しをしようと試みるも、応星は反対側の窓際に座る刃へ抱きつくようにして避けるため届かない。
「あとでおぼえてろ!」
ベルトで動けないのは今だけ。
降りたら蹴りの一発でも。そう考えながら口を尖らせる景元だったが、苦笑交じりで、
「喧嘩しないで、ほら、着いたよ」
との、母親の声に怒りは霧散して、駐車場からでも視界に入る見上げるような観覧車に感嘆の声を上げた。
それはそれとして、さっさと己を固定するベルトを外して車から降りると、景元は応星の臑を蹴ってしっかりと報復し、満足気にレジャーランドの門を見上げる。
「くそー……」
「自分のせいだろ、やり返すなよ」
「解ってるよ」
臑を蹴られて痛みを与えられた応星は表面上こそ怒って見せるも、実際はそこまででもない。刃はそれを理解していて釘を刺しながら荷下ろしを手伝い、自身もリュックサックを背負う。
「おーせ、ん」
「はいはい」
先程まで喧嘩をしていたとは思えない素直さで景元と応星が手を繋ぎ、それを刃は後ろで小さく溜息を吐きながら眺めた。
更に後ろからは母親が子供達の様子を見ており、じっくりと観察しながら、これは。と、呻る。
チケットをスタッフに提示してから門をくぐり、応星と景元の体力を考えながら園内を回る予定ではあったのだが景元が物珍しい動物にはしゃいで手を引くため、手を繋いでいる応星も必然的に動き回る事になってしまい、一時間と少し程で疲労が見えだした。
「二人とも、少し休もう」
見かねた刃が応星の手を取り、屋内の休憩所にあるベンチへ座らせると天を仰ぎながら大きく深呼吸をする。
「お前はこっち」
幸い、開園して間もないためか休憩所は空いており、刃は景元を呼びながら自身の隣を叩く。まだまだ遊び足りない景元ではあったが、応星の疲れぶりを見ると何も言わず隣に座り、母親は三人が仲良く座る姿をこっそり写真に収めていた。
「お茶持ってきた」
刃は背負っていたリュックサックの中からお茶のペットボトルを出して全員に渡し、飲むように促す。
夏休みも始まったばかりで暑さも当然ながら相応の物。
服に汗染みが出来るほどでありながら消耗を自覚せず遊び倒す景元に、刃はお茶を冷やすために入れていた保冷剤を撒いたハンカチを首に巻き、応星や母親にも同様の物を渡す。
「つめたくてきもちいいー」
「荷物が多いと思ったら……、あんた、ほんとに気が利くね-」
飲料や食事は現地調達と考えていた母親が帽子で顔を煽ぎながら感心したように言えば、うん。と、何とも言いがたい返事をする。直ぐに熱を出し、自身よりも体力が無い応星を補助をする事が当たり前になりすぎて身についたものだが、景元がついて回るようになってから面倒見の良さに拍車が掛かっているのか、なんとも如才なく成長した息子に驚きを隠せないようだった。
「でも、あんたも無理しちゃ駄目よ。しんどかったら言ってくれないと解って上げられないし」
立ったまま、ハンカチに包んだ保冷剤を刃の首に当てて労う母親に、また刃は曖昧に返事をする。
フリーランスの翻訳家として在宅で働きながら我が子だけではなく、近所の子の世話まで始めてしまった母、休みの日でも碌に顔を合わせない医者の父、何かがあれば優先するのは衰弱し易い応星と預りものである景元。蔑ろにされているとまでは思わないものの、優先順位はどうしてもあるのだ。と、理解してしまっている。
「そろそろ次行くか?」
ある程度汗も引き、空になったペットボトルを塵箱に捨て、応星は景元に手を差し出す。
「ねぇ、これさわりたい」
休憩所の壁に掛けてあった案内地図にある、モルモットとの触れあいコーナーを指差して景元が強請れば、屋内展示である事と、歩いて数分の場所にあったため向かう。
小さな森をかたどった木枠の中で、ぷいぷいと鳴きながら動き回るモルモットを見て、景元が鼻息荒く応星の手を引く。
「ばたばた近付くと怖がって逃げちゃうぞ」
「うん、かわいいー」
景元は聞いているのかいないのか、そりの合わない返事をしながら半ば応星を引きずるようにモルモットの元へと向かうと、スタッフの制服を着た男性が近寄ってくる。
「こんにちは、お兄ちゃんと一緒に見学かな?モルモットは恐がりだから優しく触って上げてね」
「はい!」
スタッフのお兄さんに優しく指導されながら景元が一匹のモルモットに手を伸ばせば、腕を橋にして勢い良く駆け上がり肩に乗る。
「凄いね君、自分から乗るなんて滅多にないんだよ」
「そーお?えへへ……」
肩に乗ったモルモットにスタッフから渡されたセロリを食べさせながら感動していれば、背中辺りに生暖かい水気と臭気を感じて硬直する。
「え、おしっこ……?」
「わっ、あっ……、だい、丈夫じゃないね……!?」
突然の粗相にスタッフは大慌てで、景元の肩に乗ったモルモットを引き剥がすが、我関せずでセロリを口元からぶら下げて咀嚼していた。
「あらぁ、洗えるとこありますか?」
母親が困ったように言えば、
「い、いえ、こちらで洗わせていただきます!申し訳ありません!」
スタッフはまだ若く、トラブルに慣れて居ないのかおろおろと右往左往。
「母さん、ん……」
母親の服を引き、注意を向けてTシャツとウェットティッシュを刃が渡す。
「着替えまで持ってきてたのか」
「シャツだけ。汗掻いたら痒くなるから」
「我が子ながら気が利きすぎだわ……」
大荷物の中身が徐々に判明していき、応星と母親が驚き絶句している中、景元の視線はモルモットへ注がれている。
「けーくん、お着替えしようか?」
「わかったー」
母親がだぼだぼの着替えとウェットティッシュを受け取り、施設の隅で着替えて汚れた服はスタッフが平謝りで持って行った。にも関わらず、景元は直ぐにモルモットの元へと再突撃し、抱き上げこそしないものの餌をやったり、撫でたりと楽しそうである。
「あいつ、筋金入りだなぁ」
「うん……」
応星が苦笑しながら刃に話しかければ、煮え切らない返事が返って来た。何となしに塞いでいる刃に応星も気付いてはいるが、どう訊けば内心を吐露してくれるのか解らず、背中を叩くと控えめに服の裾を摘まんでくる行動にもどう対応すれば良いのか判らない。
首を巡らせて確認しても、何かがついている訳でも無く、ただ握っている。
「応星は、ちびの事どう思う?」
モルモットと戯れる景元の背中を眺めながら、刃は応星へと問うた。
予想もしてない質問に驚いて応星が顧みれば刃は目を伏せ、あらぬ方向を見ていた。自身の言葉に罪悪感を感じているような、咎められる事を覚悟しているかのようで、知らず応星の眉は下がる。
「可愛い弟みたいに思ってるよ?」
「ふぅん……」
矢張り煮え切らない返事。
刃が景元を厭うているように感じた事は無い。相応に彼を可愛がっているようであったが、求めていた答えでは無かったようで表情は一向に晴れない。
慌てて乾かしたであろう服を受け取り、モルモットを堪能した景元は、次いで硝子越しに蛇や蝙蝠を観察し、放し飼いに近いガチョウなどの鳥を追いかけ回しながら真っ白な美しいアルビノの孔雀に感嘆の声を上げた。
「おい、走り回りすぎ」
刃がちょろちょろと仔鼠の如く動き回る景元を捕まえ、興奮に息を切らせる幼子を諭す。
「はしゃぎすぎるな。母さんも応星も置いてってる」
景元が背後を振り返れば、暑さにやられたか木陰に座り込む応星と介抱する母親の姿が見え、小さく声を上げた。眉間に皺を寄せつつも刃が景元を捕まえ、二人の居る場所まで戻る。
「ごめんね」
「いいよ。俺が体力ないだけだから」
頬を伝う汗を拭いながら、応星が景元へ微笑むも顔は赤らんで疲労の色が強い。強い直射日光と激しく動き回る景元に振り回されて思った以上に体力を消耗してしまったようだった。
「熱出た?帰る?」
刃が応星の首元に手を当て、体温を測りながら訊ねるが首を振る。
「大丈夫だって。折角来たのに俺のせいで帰るとか……」
「もう一回、休憩して、それでも改善がなかったら帰りましょう。最初からそういう約束だったでしょう?」
「はー、結構体力ついてきたと思ったんだけどな-、ちびに負けるとは」
コンクリートの地面に座り、赤い顔で汗を拭う応星へ、景元がしょぼくれていれば、
「お前も顔真っ赤だぞ」
刃が汗を掻いている景元の顔に濡らしたタオルを当てる。
「お前だって、大分無理してるんじゃないのか?」
「だいじょうぶだよ……!」
「応星もそう言って急に倒れた事がある」
楽しさによる興奮で肉体の不調に気がついていないだけ。との指摘をしながら、刃は汗だくの景元の肌を優しく拭いてやり、手を引いて休憩所へと移動する。
そこには日差しを避けて弁当を食べる家族が見られ、お弁当の匂いに景元の腹が空腹を思い出したように鳴った。
「今はどこも込んでると思うから、少しずらした方がいいと思う」
「そうねぇ、ここも座るところなさそうだし、水飲んだら先におトイレ行って、食べるところ探そうか」
「わかったー」
刃と母親の提案に応星と景元の了解が重なり、日陰で水分を十分に摂取して用を足した後、カウンター式の軽食販売店にあるパラソルが立てられたテラス席を発見するも、残っていた席は直射日光が降り注ぐような場所しかなく母親はうぅん。と、呻った。
「座れないよりはいいと思うよ」
「そうね……」
景元、応星、刃を日陰に寄せて座らせ、園で名物の大きなハンバーガーとポテトフライを購入して戻ってきた母親は子らの影になるように太陽を背にして座る。
「ゆっくり食べるんだよ」
促せば各々が『いただきます』を口にして、食事を済ませると幾分回復したのか、先程のぐったりした様子はなくなったが、今度は直射日光を受けていた母親が辛そうに帽子を脱いで顔を煽ぐ。
「母さん大丈夫?」
冷たい飲料を摂取していても、瞬く間に噴き出す汗。
日光に炙られるだけでも体力は削られる。
しかし、刃が尋ねても大丈夫と嘯く。
「さ、皆の体力も回復したみたいだし、もう少し回ろうか?」
応星はほっと安堵し、景元は元気に返事をする。
刃は一緒にゴミを捨てに行き、手を繋いで戻ってきた応星と景元、次いで母親をなんとも言えない表情で眺めた。
「心配性ねぇ……、大丈夫大丈夫。母さんの頑丈さは知ってるでしょ」
「でも無理しないでね」
「してないよ」
母親は刃の肩を軽く叩いて背を押し、園内をのんびりと歩く鴨を見つけて再び走り出しそうとした景元を止めている応星を見やる。
「あんた等もお兄ちゃんになったねぇ」
応星と刃は双子。
便宜上、兄弟の区別はあれど年齢差も体格差もない。
応星は好奇心旺盛だが虚弱体質のために体がついていかず派手にはしゃぐ事は稀。刃は元々が大人しく、何かと体調を崩しやすい応星を気にかけているため自己主張も少ない。特異な見目から周囲と馴染めず、互いだけを頼りにしていた。それが、幼い景元と接するようなってからと言うもの、他者への目配が出来るようになった部分を見るに精神的な成長が見られ、彼等に足りなかったものが根付き始めている実感に微笑む。
それから三十分程園内を散策するも、矢張り一度バテてしまった状態からの完全復帰は難しかったらしく、建物の影に入って四人揃って汗を拭っていた。
「あそこ空いてる」
「あ、かんらんしゃ」
刃が珍しく主張した先は巨大な観覧車。
スタッフは側に立っているが並んでいる客は居ない。
「なんだ、乗りたいのか」
先程まで冷たい水を飲んで目を閉じていた景元がやおら立ち上がり、応星の手を引きながら観覧車の側まで行く。
「こんにちはー、お兄ちゃんと乗りたいのかな?」
「うん!」
応星の手をしっかりと握り、景元は弾むように返す。
母親と一歩遅れて観覧車に辿りついた刃は自ら誘導したにもかかわらず、つまらなさそうに唇を尖らせ、また無言になってしまった。
「うーん、乗せたいのはやまやまなんだけど……」
「故障でもしたんですか?」
「いえ、ただ、お勧めできないと言いますか……」
スタッフは言葉でどう説明したものか頭を掻き、観覧車の開けっぱなしになっている扉を指して手を入れるように促す。
大人しく観覧車のゴンドラへと手を差し込んだ応星が呻るように小さく声を上げ、続いた母親も納得したように呻る。
「ざっとですが一週十五分程の間、この室温と直射日光で炙られる羽目になります……、それでも。って方が居るので開けてはいるのですが……、乗られますか?」
尋ねてはみるも、明らかに推奨しない言い回しで眉を下げるスタッフ。
景元は乗りたいのか、もじもじとしつつ周囲を見上げているが、灼熱の日光によって暖められたゴンドラ内は最早、高温サウナよりも暑く、室温を下げるために換気をしようにも安全上、窓は嵌め殺しで扉も開けっぱなしには出来ない。一周して地上へ辿り着く頃には熱中症にもなりかねず、明らかに体力が足りない子供を乗せるのは危険行為である。
「これは、次来た時にしよう……」
母親の苦渋の決断に景元のみならず、刃も目を伏せて落ち込んだ様子を見せるも応星が、
「また。つってるじゃん。な?」
大人ぶって刃と景元の頭を撫でながら目敏くソフトクリームを販売している店舗を見つけ、二人の手を引いて受け取りカウンター前まで行いくと無言で母親を見上げて強請る。
「ちゃっかりしてるわ」
そうは言いつつ、母親も自分の分も会わせて四つのソフトクリームを買い、一息吐いた所で帰宅の提案を持ちかける。
「このまま居たら誰か倒れかねないと思うの。今日しか来れない訳じゃないし、下道通って途中でゆっくりご飯買って帰りましょう?」
「ごめん……」
「謝らなくていい」
ソフトクリームを食べきった応星は寂しそうではあるものの、納得した様子で頷き、刃が慰めながら『また来ような』と、前向きに語り、今度は自身が景元と手を繋いで引いていく。
園を出て、駐車場にある車まで戻ると車内は灼熱。
エンジンをかけて中の空気を冷えるまでの間、何となしに空を眺めていた応星が、不意に刃へと視線をやり、もの言いたげに見つめた。
刃は景元の首に少々温くなった保冷剤をハンカチで固定しながら巻き付け、はしゃいで崩れてしまった髪を紐でまとめ上げて少しでも涼しくしようと尽力している。
「どうかした?」
刃の肩越しに応星と視線が合った景元が問いかければ応星は罰が悪そうに頬を掻く。
「なんだ?」
「いや、お前、ちょいちょい不機嫌だったよな。何でかなーって」
振り返った刃が発言を促せば言いづらそうにしながらも不機嫌の理由を尋ねる。繊細な部分を突かれ、怒らせる可能性を考慮してはみたが、気になったのだから致し方ない。
「別に怒ってない」
暑さからではなく顔を紅潮させて矢張り不機嫌になってしまった刃それ以上に突っ込めなかった応星だが、彼を見上げていた景元が、
「でも、なんかぶーってしてたよ」
思わぬ追撃をして刃が目を見開く。
「別に……」
「うそはよくないよ?」
「怒ってない……」
「ちゃんと、いわないとつたわらない。ってかあさんがいつもいってるもの。おはなししよ?」
純真な瞳に見上げられ、刃がしどろもどろになりながら否定しようとするも、更なる追撃に口角を下げて呻る。景元は幼いながらも目敏く、弁が立つ。この場に限らず、景元の容赦ない口撃に口数が少ない刃が良く言い負かされている光景は頻繁に見られるもので、原因が気になっていた母親も、応星も心の中で景元を応援していた。
「だ、だって……」
「うん?」
「応星は、俺のお兄ちゃんだから……」
「おーせーはじんのおにいちゃんだよ?あたりまえ」
景元が当然の事実を口にする刃へ、ずけずけと物言えば、言われた本人は唇を閉じ、獣が怯えつつも威嚇で唸るような表情を作る。
「どこ行っても、お前の方がみんな応星の弟だって……、俺、髪の色も目の色も違うし、俺のお兄ちゃんなのに……」
刃は目に涙を溜め、顔を真っ赤にしながら服を握り締めて心情を吐露する。
下の子が生まれた場合、母親を奪われたような気になった上の子供が嫉妬をしてしまい、排除したいがために苛めたりする場合があるが、刃は景元を苛めたりはしていない。寧ろ自分なりに可愛がっている風でもあるため、こんな葛藤を抱えているとは想像もしていなかった母親と応星は驚きつつも表情は朗らかなもので、笑みすら浮かべていた。
「わたしにとっては、じんもおにいちゃんだよ?」
大事な存在を横取りされると言う感覚が良く分かっていない景元が、刃へ抱きつきながら甘える。
「え、うん?」
「大体が俺と手を繋いでるから言われるだけで、刃もちびのお兄ちゃんだよなぁ?」
「うん、だいすき!」
「だよなー。今度出かけたら、刃と手を繋いでたらどうだ?」
応星が腰に手を当てながら、にやつきつつ提案をすれば、
「うん、いいけどおーせだいじょうぶ?すぐつかれるから、わたしがてをひっぱってあげてるのに」
景元が小首を傾げながら、さも己が助けてやっているのだ。と、言わんばかりの主張をする。
刃の、俺のお兄ちゃん発言で調子に乗っていた応星の顔が引き攣り、幼子に気遣われていた事実に矜持が傷つきながらも何とか言い返そうと口を開け閉てする。
「はぁ、お、お前が、ちょろちょろするから俺はなぁ……!」
「えー、してないもん!」
「はいはい、暑い中で突っ立ってやるもんじゃないから、続きは車の中でしなさい」
応星は応星で、自身と同じく体力がない割にはしゃいで仔鼠のように走り回る景元の手綱を握っていたつもりであった。そう主張するも、母親から涼しい車内に押し込まれ、景元がジュニアシートにきちんと座るまで待っていれば意気はすっかり消沈して喧嘩する気分ではなくなり、暫く涼しい車内で揺られていれば疲れた体は休息を求めて眠ってしまった。
程なくして刃や景元も同じく寝息を立てだし、バックミラーで子供等をちら見して母親は微笑む。
息子の葛藤には気づけなかったが良い方向に修正できた事と、子供も子供なりに人を観察して考えたり気遣ったりしているのだと気づきを得た日でもあった。
▇◇ー◈ー◇▇
次の日曜日にお出かけ。
とは言え、近場の公園ではあるが、刃が景元と手を繋いで歩いていれば老婦人から『お兄ちゃんと一緒に遊びに来たの?良かったわねぇ』の言葉と共に、『こんな小さい子の面倒見てて偉いお兄ちゃんね』そう刃へと話しかけてくれた。
刃は言葉が少ないながらもしかと頷き、代わりとばかりに景元が愛想良く喋る。離れた場所から密かに跡をつけて観察していた応星は独り得意げになり、家に引き返して母親に報告。
一通り遊び、分かりづらいながらも刃が機嫌良く帰宅し、その晩は景元も交えてのバーベキューパーティーになった。
「ちび、野菜焼けてるぞ」
「おにくのほうがおいしい……」
「これも美味いぞ?」
刃が焼けた茄子やピーマンを景元の皿に入れようとすれば背を向けて防御し、回り込めば器用に食べながら逃げ回る。
余りに逃げ回られて諦めた刃が仕方なく自身で食べれば、ほんのりとした苦みの中にもみずみずしさがあり、美味しく食べられた。仕様も無い攻防戦のせいで些か冷えてしまったのだけが残念点だ。
「野菜嫌いなのか?家政婦さんから好き嫌いはないって聞いてるぞ」
「だって、おばさんが『おやさいもたべないとおとうさまとおかあさまがかえってこなくなりますよ』とかいうから……」
焼けた鶏肉をとって冷ましながら頬張っていた景元が、刃の苦言に反論すれば、なんとも言えない沈黙が降りた。両親を脅迫材料にして嫌いな物を食べさせるのは悪手も悪手ではないだろうか。そう母親と、応星、刃の思考が一致する。
「悪い人じゃないんだけどなぁ」
焼けた牛肉を咀嚼しながら口を曲げて母親が呟くが、人の方針を下手に指摘すれば不興を招き、またそれが目立たない嫌がらせなどに発展してしまえば面倒になる。
刃と応星の事で学校とも散々にやり合い、苛め加害者及び、被害者となった子供の親とも相当にやり合ったが結局、決着はつかずに子供の行いに大人が首を突っ込む物ではないのと有耶無耶にされてしまった。
現在、二人が特殊な見目をしていても受け入れてくれるフリースクールに通っているが、理不尽な行いに納得した訳ではない。
「私だって大人になってから美味しく食べられるようになったものもあるし、強制したら嫌な思い出までくっついて余計食べなくなると思うんだけどね-」
「え、たべなくてもおこらない?」
「俺等は怒られたことないぞ」
応星があっけらかんと告げれば景元が暗い顔をしながら美味しいはずの肉を噛み続ける。
「ほら、肉」
「じんはおにくいらないの?」
「脂っこいのはあんまり好きじゃない」
「こんなにおいしいのに!」
脂の乗った美味しい肉ばかりを欲さない刃を見て、景元は衝撃を受けたように固まる。野菜の変な甘さや食感が嫌いな景元からすれば美味しそうに野菜を食べている刃や応星は異星人の如き存在でしかなかったのだ。
「おとなっ!」
「ふっ、そうだな、お前よりは大人だ」
最も苦手とする苦いピーマンを口に入れた刃に驚く景元に対し、得意げに鼻を鳴らす。自身の兄を盗られたような不快感は消え、景元の兄的存在であると他者からも認められたような嬉しさから機嫌も良い。
「うちではどうしても嫌なら食べなくてもいいのよ。食べられる物を食べなさい」
後から文句を言われたらその時。やや場当たりながらも母親は困ったように焼けた玉葱を見詰めていた景元の頭を撫でた。
「野菜は俺が食うから気にするな」
刃が声をかければ応星も頷き、自身の好きな物を各々が楽しんで食べている様子に笑顔を取り戻す。
「けー君のご両親が良ければ、晩ご飯くらいうちで食べたら?要らなかったら連絡くれれば良いし」
「ほんと、やったぁ……!」
一食くらい自由な時間があってもいいではないのだろうか。との思考で提案してみる。
可愛がってくれる刃や応星と一緒にいられる上に、食事も嫌いな物を無理して食べずに済む事へ無邪気に喜んでいたが、その後、頭を下げながら封筒を渡す己の母親と、慌てる刃と応星の母親の攻防戦があった事は知る由もない。
▇◇ー◈ー◇▇
学校が終わり、夕方になると満面の笑みで走り込んでくる景元と、それを受け止める刃や応星の光景が一般化し、秋も終板で寒くなり出した来た頃。
「暑苦しくないか?」
「せなかあったかい」
「重い」
食事を終えた後の居間にて、我が物顔で刃の懐に潜り込むと座椅子よろしく凭れかかる景元に応星が横やりを入れる。
「寒いなら煖房強くするけど?」
「さむくないよ」
「寒くはないけど眠くなってきた」
景元が落ちないように腹に手を回して支えていれば、体温の高い子供にくっつかれ、食事の後ともあって刃が眠そうに目を瞬かせた。
「寝るならお風呂入ってからになさい」
じゃれ合う子供等を微笑ましく眺めていた母親も、一度寝たら起きない刃がソファーで寝ては大変と声をかける。
「これ見終わったら入る」
居間のテレビでは、遺物ハンターが現代に解き放たれた古代遺跡を攻略をする物語を描いた映画が流されている。
様々な仕掛けを突破し、謎を解き明かし、仲間かと思っていた相手に裏切られ、満身創痍になりながら今正に目的の遺物を手にしようと佳境に入ったところだ。
ハンターの男性が雄叫びを上げながら発光する遺物を手にし、雄叫びを上げたところで遺跡が揺れ、崩壊を始める。危険だからこそ人が扱えぬよう封印された遺物を外に持ち出さないようにするための仕掛け。このシリーズの定番と言えるが皆が手に汗を握り、固唾を呑んで見守る。
逃亡する最中でも様々な妨害がハンターを襲う。
一旦は退けたと思った遺跡を守護する動く石像に、触れれば一瞬で体が分断されかねない斧が降ってきたり、地割れに落ちかけたりと息を吐く暇もない。
物語に没入している刃の腕に力が籠もり、無意識に前傾姿勢になりながら景元を強く抱き締める。景元も映画は見ているが、皆ほど集中はしておらず、背中に感じる体温が嬉しくて顔が緩みっぱなしになっていた。
命辛々に遺跡を脱出したハンターは、別の道から同じく生還した仲間の女性を見つけると感動して抱き合い、何と口づけを交わした。これがまた矢鱈と長く、落ちる夕日を背に生の喜びを叫ぶ二人に感動する者も居るだろうが、母親は何となしに気不味そうにリモコンを握りつつもどうにも出来ず弄り回し、応星も気恥ずかしいのかそっと視線を逸らして、刃は景元のふかふかした髪の中に顔を埋めていた。
「ねー、なんでこのひとたち、おくちくっつけてるの?」
景元の物知らずな発言が皆の口を縛る。今まで会う人間、見る物を制限されていたため、彼にとっては純粋な質問でしかなく、それが人を困らせるものとも知らない。
「この人達は、うんと……、いや、うーん……」
物語を踏まえれば、二人はこの依頼で偶然出会っただけで元々恋人ではなく、所謂、吊り橋効果のような感情の高ぶりから行動だと大人なら解るが、豪放ながらも生真面目な母親はそれを子供にどう説明するか、呻りながら答えを探す。一次的な誤魔化しをしても、この賢しい子供は納得しないと考えたからだ。
「俺も良く知らんけど、好きな人としたくなるらしい」
「ふーん、すきになったらするの?」
応星が子供ながらの理解で放言すれば、矛先は刃に向けられた。
「俺も良く知らないけど、そうなんじゃないか?」
「そうなんだー」
景元が晴れやかな笑顔で納得した素振りを見せれば、そんな単純な回答で良かったのか。と、母親が脱力した。映画は既にエンドロールが流れており、さぁ帰宅準備でも。母親が立ち上がって目を離した瞬間、声が上がった。
「おまっ、ちび!こら!?」
「えー、すきなひととするんでしょー?」
応星の手によって刃から引き剥がされた景元が口を尖らせ不満の声を漏らす。刃は紅い眼を見開いて固まっており、子供等の発言と状況から鑑みるに、もしやの発想が湧く。
子供は、面白そうな物を、なんでも真似したがるものだ。
「おーせーにもしたげるー」
「して欲しいから止めたんじゃねぇよ!」
景元が応星の腕を引っ張り、口づけをしようと顔を近づけるが、
「いらんいらん!」
と、応星は背を反らして避けている。
「好きな人って言ってもな、こう……、種類があるんだよ」
「えー、じんもおーせーもすきなのにー」
「分かった分かった。ありがと、でもちゅーしたいとは思わん」
「わたしのこときらい?」
景元が眉根を寄せ、応星を見上げて好意的な言葉を渡すも、まだ好きにも違いがあると言われたところで理解が追いつかない彼は今一納得できていない。
「そう言うのは大人になってからするものなの、ね?」
「おとなっていつから?」
諭すように母親が助け船を出せば墓穴を掘り、再び返答に詰まる疑問を呈され、純粋無垢な視線へ曖昧な笑顔を返すばかり。
「十八歳になったら、かしら?」
「十……、えっと……、いま六さい」
便宜上、成人年齢を伝えれば景元は指折り数えながら確認している。
「十と二さい?あと十二?」
「そうそう、けーくんに後十二回お誕生日が来たら大人よ」
「ふーん……」
幼いながらも神妙な顔で頷く景元に、どうにか場は納められた安堵に内心で息を吐き、家まで送ると年上とばかり交流しているからませてしまったのか悩む。しかし、次の日からは普段と変わりなく刃や応星と仲良く遊んでいたため杞憂だったと安堵していたのだが家では『わたしのおたんじょうびきた?』と、毎日訊いているらしく、刃に口付けしてしまった事は伏せながら経緯を相手両親に伝え、誕生日は年に何回も来る物ではない事を説明をして貰った。
それからは、誕生日までカレンダーに印を付ける事を覚えた景元の口撃は鳴りを潜めたものの、学校から帰宅すると十分はカレンダーを恨めしげに睨んでいるらしいと聞き、余程、刃や景元と対等になりたいのだと察せられる。
毎月の身長測定も、測定後に溜息が増えた。景元の成長具合は頻繁に座椅子となっている刃が一番理解しているが、勝てなくて拗ねているとしか考えておらず、測定後はおやつでのご機嫌取りの時間になった。
「機嫌直せって、ちゃんとでかくなってるんだからさ」
「うん、どんどん重くなってる」
バニラのアイスクリームにスプレーチョコをかけ、頬張っていた景元の頭を撫で、刃が体重の増加を指摘する。現在も、当然のように景元は刃の足の間に座り、寄りかかっているため毎度、簡易的な体重測定となっている。
「もっと大きくなりたい」
「そんな急がなくてもその内、でかくなるって。俺等よりはちびだろうけど」
応星が茶化せば景元が唇を尖らせ、食べ終わったアイスクリームの空をソファーに置いて飛びかかろうとするも、刃が腕を回して止める。
「はなしてー!」
「喧嘩はするな」
「いい様だなちびすけ!」
手足をばたつかせて応星へ向かっていこうとする景元に腕と足を回して固定し、それを見て更に挑発する応星。
「応星もいい加減にしろ。そんな事言ってると抜かされた時、酷いぞ」
「えー、ごめん。でも、まだ俺等より小さいしー……」
刃に窘められると素直に謝る応星と、唐突に認められたような言動に枷となっている彼を景元は顧みる。
「こいつ、俺達が同じ年齢だった頃より、大きい」
「え……」
衝撃の事実に応星が瞠目し、刃に抱き締められている景元をしげしげと眺める。
刃曰く、遊園地に行った際の写真をアルバムに貼っていた過程で古いアルバムを見つけたため、何となしに眺めていれば母親が特殊な体質の息子達を心配してか、写真を撮った時期の年齢や身長、体重を油性ペンで逐一書き記していたようで、現在小学校一年生の景元と比べて体も細く、小さかったのだと語る。
「じんよりおおきくなれる?」
「テレビで見たけど、昼寝でも身長は伸びるそうだからな、もしかしたら大きくなるかも」
「いっぱいねる!」
景元が喜びに呻りながら、溜飲が下がったのか体重を刃に預けてにやける顔を両手で擦る。
「ま、俺達も伸びてるから結果は判らないけどな」
頭に顎を乗せ、ふす。と、鼻で嗤う刃のお陰で上機嫌が霧散した景元が再び口角を下げる。持ち上げておいていきなり手を離すとは底意地の悪い行いをする刃へやりかえそうとするも、今度は腕までしっかりと包まれているため身動ぎもままならない。
「力もまだ俺の方が強い」
景元が顔を真っ赤にしながら全身に力を込めるも、 刃による拘束が解けず、絶対に強くなる決意も固めるのだった。
▇◇ー◈ー◇▇
景元が七歳になる頃、学校からの帰宅中に上級生に絡まれていた所を年上の女性に助けられ、彼女の凜とした立ち姿、強さ、勇ましさに憧れを抱いた。
それからと言うもの、通学路で見かける度に持ち前の愛嬌を以て話しかけていれば、無愛想ながらも返してくれるようになり、彼女の親が剣道道場をやっている事、彼女自身も時折指導員として立つ事を知ると習いたい。と、懇願する。
やや過保護気味な両親は難色を示しつつも、本人の強い要望により了承し、体格に合った袴や防具を手に刃や応星へ自慢しに行った。
居間に真新しい袴と防具を並べ、事の経緯を説明する景元はいつも以上にはしゃいでいる。
「怪我しないようにな」
「たくさんれんしゅうして強くなるんだー」
「俺等より強くならなくて良いぞ?ずっともちもちした可愛いちびで居ろ」
意気揚々と宣言する景元に、応星が頬を突きながら茶々を入れる。
「応星は元々弱っちいから、今でもわたしのほうが強い」
「なにを⁉」
揶揄の仕返しとして体の弱さを指摘され、激高した応星を刃が溜息を吐きながら抑え、頭を隠す防御姿勢を取っている景元を顧みると、
「今のはお前も悪い。お前の憧れの人は他人のどうしようもない特徴を馬鹿にして嗤うのか?」
淡々とした口調で窘め、じ。と、見詰めて返事を待つ。
自らの言動を顧みる機会を与えられた景元が、動揺に瞳を彷徨かせる。
応星も、好き好んで寝込んでいる訳ではないのだ。疲労や気候の変化に体がついていかず、出かける予定が潰れてしまった際は都度都度、謝罪を口にしており、罪悪感を抱いている様子見知っていながら、それを安易に口にしてしまった。
「ごめんなさい……」
刃に窘められて自身の暴言に気付いた景元が項垂れながら謝れば、応星も劣等感を刺激されて激高しそうになった自身に気がつき、気不味そうに頭を掻く。
「お前等は、一日一回喧嘩しないと気が済まないのか?」
大概、二人のやり取りを傍観している刃ではあるが、年の差故か応星に口や体格で負けた景元の逃げ場所が彼である。調子に乗る応星を落ち付かせ、景元可愛さに黙ってはいたが、毎日のように盾にされている上に、これから武術の訓練を受けて体力、技術がついてくるだろう事を思えば事故が起こってからでは遅い。
「景元が生意気だし、反応が良いからつい……」
「私は……、おうせいがすぐばかにしてくるから……」
馬鹿にする。と、言えば語弊があるが、実際には応星が揶揄って遊んでいる事が多く、真に受ける景元が意地になってしまい、最終的には喧嘩に発展する。
「仲良くしないと、母さんもお前等と一緒にお出かけできないって言ってたぞ」
刃がこっそり聞いた母親達のぼやきを口にする。
二人の喧嘩は悩みの種でもあり、幼い今だからこそ可愛い範囲で済んでいるが、成長すれば男同士である。そして景元も決して体力があるとは言えないが、虚弱体質な応星ではいつか逆転され、他愛ないじゃれ合いが大怪我に発展する可能性も否めない。
あまり思い出したくない記憶ではあるが、刃は、苛めてくる同級生を階段から突き落とした事がある。
それ自体は応星を苛める相手に怒りを抱き、庇うためにやり返したに過ぎず、行動が間違っていたとは微塵も考えてはいない。が、場所が悪すぎた。人間が階段から転げ落ちて血を流し、痛みに呻く光景は確実に刃の心理的外傷となっている。
応星を護るためだった。
仕方ない。
相手が悪かった。
俺は間違っていない。
自己正当化をしたところで、心に根を張った恐怖は誤魔化せない。
それが、好いた人間。大事な人間が同じ目に遭えば、それは決して塞がらず、永遠に血を流し続ける傷になる。
「応星、母さんも父さんも、お前には甘いから俺が言う。俺も、人のことは言えないけど、交流の仕方を勉強した方がいい。今までは俺と二人でばっかりいたから赦されてたけど、景元は他人なのを忘れたら駄目だ」
「あはは、怒られてる」
応星は反論が出来ず、顔を真っ赤にして小刻みに震えている。景元は、応星が叱られている様子が面白くて笑っているだけで、深くは捉えていない。この辺りは、賢いとは言え流石に低学年の子供である。
笑う景元を、応星が八つ当たり気味に羽交い締めにして髪を混ぜ返したり、柔らかい頬を両手で挟んで揉む。やられてる本人は構われる嬉しさに笑っているが、これも一歩間違えば苛めかも。そう刃が悩んでいれば、母親が買い物から帰ってきてじゃれ合ってる子供等に挨拶をした。
「あ、けーくん、聞いたよ。剣道だっけ?習うんでしょ?」
「うん!」
応星にもみくちゃにされながらも、景元が元気に答えれば、母親は皆の元へ向かいながらも何をか考える素振りを見せる。
「あのさ、けーくんが行く道場。年齢制限ないって話だし、あんたらも行ったら?大人から子供まで色んな人が居るから、いい刺激になるんじゃないかと思うんだけど、どうしても嫌なら無理強いはしないけどね」
買い物袋を置き、子供等のおやつを机の上に広げながらの提案する。
「おうせいとじんとれんしゅうできるの?」
憧れの人が居るからとて、独りで通う事に些か不安があった景元が提案に飛びつき、表情を輝かせる。
「そう、年齢は違うけど、そこでは同級生よ」
「ねー、やろうよ!」
景元が応星と刃に迫り、ねぇねぇ。と、執拗に誘う。
刃は応星に交流の仕方を勉強しろと言ったばかり。応星は刃に交流の仕方を勉強しろと叱られたばかり。顔を見合わせながら、
「とりあえず、やってみるだけなら……」
同じ事を同じように言い、声が重なる。
そうなると母親の行動早く、三日も経たない間に申し込みが終了し、三人は同じ道場へ通う事になった。
▇◇ー◈ー◇▇
装備を揃え、道場の先輩に袴と防具を着けて貰い、三人は威圧感のある女性の前で正座をしていた。
景元や応星と同じような白い髪、刃よりも薄いが紅い眼をしており、彼女の威風堂々とした立ち姿だけでなく、親しみのある二人に似た雰囲気も慕った要因だろう。
「私は鏡流だ。毎回は居ないが、これからよろしく頼む」
「はい、宜しくお願いします!」
各々に挨拶を返し、緊張した面持ちでそわそわと体が揺れる。
「景元だったな、知人のご子息とは言え手心を加えるような真似はしない。心して学ぶように」
「え……?」
突然の指名に呆気にとられた景元が、呆けた様子で顔を上げると彼女は眉を上げ、訝しげに見詰める。
「なんだ、知らなかったのか。私は警察機関に勤めている。検事であるご両親とは知り合いだ。検事と警察、共に協力して犯罪者を追い詰める仕事だからな、顔を合わせる機会も多いのだ」
「そうだったんですか……」
通りで、あれはこれはと心配性な両親が許可を出した訳だ。と、景元は得心がいった。彼女であれば、厳しくも誠実さを以て指導してくれる信頼と信用があったのだ。
刃と応星も同様だろう。母親達はお互いに情報の共有を良くしているようで、景元が報告するまでもなく道場へ通うようになった経緯を知っていたようだったのだから。
ちら。と、景元が応星と刃を横目で見やると、二人も景元を見ており、視線が絡む。
「貴様等は、体力に乏しいと聞いているからな、先ずは体作りだ。走り込みと筋トレが暫く主になる。暫くは袴だけで防具は着けなくてもいいぞ」
「え、いいの……」
「着ておきたいなら構わんが、それを着て走り回れるのか?間違いなく骨を痛めるぞ」
先輩方に着せて貰った時も、腕に抱えるよりは良いとは言え、全身に纏わり付く重量、一歩一歩が重く踵に衝撃が来る感覚に不安が心によぎるばかりであった。
「ぬいでやります」
「うむ、今日は折角防具を付けて貰ったのだ。簡単な基本を教えてやろう。返事」
促されて大きく返事をし、起立。の、かけ声で立ち上がる。
その日は構え方、基本的なルール説明を受け、今後の肉体改造計画を話してくれた。
先ず、一番体力が劣る応星が気がかりではあったが、本人も負けず嫌いとあって、『やりたくない』などと拒否はせず、寧ろやる気に火が点いたようだった。
「後で貴様等にも資料を渡すが、練習は週に三日。防具等の手入れは各自で行う事。家で復習するのもいいが、筋肉は過剰にやれば身につくものではなく日々の賜だ。無理な筋トレ、ランニングは体を壊すだけ。それをしかと念頭の置くように」
軽い筋肉トレーニングや打ち合いの後で、三人それぞれの消耗具合を見比べながら鏡流は厳しいながらも気遣う言葉を伝える。
「がんばります。体力、付けたいし……」
軽い運動で息が上がってしまっている応星がいの一番に声を上げた。
「うむ、うちは道場生を強くするための指導はしておらん。剣道とは心と体を鍛えるもの。当、道場は本人の適性、向上心を何より重視する」
全てを明確に告げ、鏡流は三人を見回してから解りづらい程度に薄く笑う。
「体調不良は直ぐに周囲の大人へ伝えるように。ここでは努力する者を嘲笑う者など居らん。では、今日は解散とする。着替えてこい」
「はい!」
体力を消耗して座り込んでしまっていた三人が勢い良く立ち上がり、更衣室へと行く。先程の疲れ方が嘘のような勢いで向かったため、鏡流も苦笑するしかない。
三人でもたもたと苦心しながら防具や袴を脱ぎ、道場の出入り口での挨拶を指導されながら真似をする。
帰り道の三人の表情は晴れやかで、次の練習日が楽しみで仕方なかった。
【その三】 -
・現パロ
・応星と刃が双子設定
・ちびっこ景元が色々大暴れ
・両親設定のモブが大変出張ります
・みんな仲良し設定です
・そこそこ長い(五万字越え)
氷火山様(@ cryovolcan0)に右応、右刃Webオンリーのロゴやヘッダー(こちらで使わせていただいているイメージぴったりの素敵なロゴです:illust/121870969)を作っていただいたお礼の遊園地デートのお話になります。
▇◇ー◈ー◇▇
思えば、あれが初恋だったのだろう。
景元は出会った頃を思い出しながら、隣で項垂れて静かに涙を流す横顔を見詰める。
幼い己はそうとも知らず、無邪気に彼を慕い、最早、傍若無人と表現していいほど振り回していた。なのに、自覚してしまえば慰めることすら上手くいかない。
これを、拭ってやってもいいものか。
景元が少しばかり逡巡しながらも手を伸ばし、避けられなかった事を良しとして指の甲で涙を拭い、艶やかな紫烏色の髪を撫でて背中に手を当てた。
▇◇ー◈ー◇▇
景元がまだ五歳ほどの時分。
夏真っ盛りで燦々と太陽が地上を照りつける昼過ぎ。幼稚園から母親の車に乗って帰宅すると、自宅の真向かいに引っ越して来た一家と遭遇した。
一軒家の前に置かれた大きなトラック。
その荷台から大小の家具を家に運び込んでいる最中で、中が慌ただしいためか、そこの子供と思しき二人が白い塀に寄りかかりながらキャリーケースに手を入れて何らかの動物と戯れていた。
四、五歳ほど年上に見える少年達は一つの日傘を共有して差していたため顔は良く見えないが、にゃ。と、小さく聞こえた声は動物好きの景元の興味を誘ってしまい、親が止めるのも聞かずに駆け寄ってしまった。
「こんにちは!」
「こっ、こんにちは?」
「どうも……」
幼児が勢い良く近づいて来るものだから、驚いた二人の声は揺れていた。
日傘の下に在った顔は、対照的な白と黒。どちらも髪が肩よりも長く、黒髪の少年は紅い眼を瞬かせ、白髪に紫の眼をした少年は微笑んで、
「何かご用かな?」
と、問いかけてきた。
「ねこさんにさわってもいいですか?」
「あぁ、構わないが……」
黒い少年が応え、猫が飛び出さないよう警戒しつつもキャリーケースの上部にある蓋を全部開けて覗き込めるようにしてくれた。
中に入っていたのは黒猫だ。
今はまだ日があるからしっとりとした被毛が煌めいて輪郭もはっきり見えるが、暗闇なら完全に溶け込んでしまいそうなほどの青みが掛かった黒、瞳は鮮やかな紅に黄が滲んだ綺麗な猫だった。
「ねこさんのおなまえはなんですか?」
「胡麻」
「ごまちゃんですか?」
「あぁ、黒胡麻みたいに真っ黒だから」
黒い少年が名前を教えてくれ、白い少年が理由を補足してくれる。
「こんにちは?」
景元が覗き込んでも、胡麻と呼ばれた猫は警戒して耳を伏せながら睨み付けていたが、それでも構わず手を伸ばすと手に噛み付かれ、思わず悲鳴を上げる。
「大丈夫か⁉」
「いたい」
白い少年が慌てて景元を庇い、黒い少年はキャリーケースごと胡麻を引き離し、息子の度を過ぎた動物好きに呆れながらも子供達の交流として見守っていた母親が慌てて駆け寄って来る。
「あぁ、血が……、消毒しないと」
「すみません……」
おろおろとする母親に対し、猫を庇うように黒い少年がキャリーケースを抱き締めながらも謝罪する。
「こちらこそごめんなさいね。景元、怖がりの猫さんを無理矢理触ろうとしては駄目だと言ったでしょう?」
「うん……」
景元は、動物に好かれ易い自身を過信していたが、手酷い拒絶と母親の叱責に落ち込みを見せた。
「また改めて挨拶にお伺い致します。さ、帰りますよ」
「はぁい……」
やや不貞腐れながら母親に抱き上げられ、景元は運ばれる。
少年達はどんな叱責が飛んでくるものかと内心、かなり動揺していたのだが、子供は涙目になれども大声を上げて泣く事はなく、親も警戒している猫を無理矢理触ろうとした子のせいだと判断していた。
この親子の意外さに少年達は顔を見合わせつつ、手を振る景元に小さく手を振り返していた。
▇◇ー◈ー◇▇
翌日、園から帰ってきた景元は、父親と真っ直ぐ真向かいの家に行った。
双方の親が頭を下げながら話している姿を尻目に、景元の目は猫と二人の少年達を探す。
「ごまちゃん」
居間に続くであろう柱から、顔を半分だけ覗かせて来客を確認に来た猫を見つけた景元が笑顔で包帯の巻かれた手を振っていると、『この通り、息子は動物を見るといつもこうで』などと苦笑する声が頭上から聞こえたが、気にせず自身を睨んでいる胡麻を見て目を輝かせていた。
「ただいま」
帰宅を告げる声と共に白髪の少年を肩で支える黒髪の少年が玄関を開き、昨日、出会ったばかりの幼児と父親らしき人物が居た事に瞠目していた。
「おかえ……、やだ、応星どうしたの?」
「熱が出たみたい」
顔を真っ赤にして足下も覚束ない応星と呼ばれた白髪の少年を慌てる母親の手に渡し、黒髪の少年は訝しそうに景元を見やる。
「おかぜ?」
「いや、応星は体が弱いから……、引っ越しや新しい環境に疲れたんだと思う」
自身も見ていながら無邪気に見上げてくる瞳に少年は少しばかりたじろいだが、辛そうな兄弟を部屋へ連れて行く親をちら。と、見て答えた。
「君も少し顔色が良くないようだ……」
「俺は大丈夫」
黒髪の少年は小さく溜息を吐き、靴を脱いで家に上がると猫を抱いて景元の元へと戻り、玄関口へと座る。
「触るか?」
表情も乏しく、口数も少ないが随分と他人を気を遣っている様子で、母親が戻ってくるまでの場繋ぎをしているようだった。
「おこらない?」
「俺が抱っこしてるから」
少年の言葉に景元は満面の笑みを浮かべて猫にそうっと手を伸ばし、優しく頭を撫でる。
景元の父親は、子供等に確執が残らなかった事へ安堵しつつも、噛まれても懲りない息子に冷や汗が流れっぱなしである。親の心子知らずとは良く言ったもので、猫を撫でられて満面の笑みになっている景元はそれに気がついてはいない。
「おにいちゃんもなでてあげる」
「なんで?」
「いいこはほめてもらえるんだよ」
黒髪の少年が眉を下げ、困ったように薄く笑う。
体の弱い兄弟が居れば大なり小なり親はそちらを優先してしまい、片割れは必然的に補助に回って自身が何かで困っても、体調を崩しても親の負担を考えて口に出さなくなりがちである。
「すみません。刃、ありがと」
「いえいえ、うちの子に構って戴いて逆に申し訳ないくらいで」
子供達を余所に、大人がまた会話を再開し、五分ほどでお暇する事となった。
「おにいちゃんさようなら」
景元が礼儀正しく頭を下げると、少年達の母親は感心したように小さな声を上げた。
「あぁ……、うん、さようなら……」
釣られて刃と呼ばれた少年も頭を下げ、膝に乗せた猫の手を持って手を振らせていた。
▇◇ー◈ー◇▇
「お前の家って、あんま親居ないの?」
「いない、わるものをやっつけるおしごとだからいそがしいんだって」
慌てて出て行く母親に手を振っている様子を見ていた応星が家から出て、親の車が見えなくなるまで立っていた景元へと話しかける。
両親共に、景元を幼稚園まで迎えには来てくれても、家に着いて雇いの家政婦に引き渡せば直ぐに職場へと戻ってしまう。子供にも解り易く説明してぼかしてはいるが、両親は検察官として様々な事件を取り扱い、定時退社などは滅多になく家族が揃う日は珍しい。
帰宅すれば小学校受験のために用意された教材で勉強をするか本を読み、夜は家政婦が作った食事を食べ、独りでお風呂に入り、就寝するまでが景元の日常だ。
「おとうさまもおかあさまも、ごりっぱなおしごとをされてておいそがしいんですから、いいこにしてないとだめですよ。っていつもいわれる」
忙しい中でも、少しでも交流を持とうとしてくれる両親に感謝しなければならない。そう諭してくる周囲の言葉に、景元は素直に頷き寂しさを我慢する毎日。常に言われているからか、淀みなく家政婦の言葉を復唱する景元へ、応星が口角を下げて頭を掻いた。
「んん、ちょっと家入って待ってな」
「はーい」
景元が言われた通りに家へと入り、いつも通りに勉強をしていると呼び鈴が鳴り響き、家政婦が『坊ちゃん』と、呼びに来た。
呼ばれて行くと、応星と刃が並んで立っており、
「良かったらうちで飯食わないか?」
そう誘ってくれた。
景元は困り顔の家政婦を不安げに見上げる。
「わたくしでは許可しかねますので、今日の所はご遠慮戴けませんでしょうか?坊ちゃんのご両親へ話は通しておきます」
「解りました。そうします」
答えたのは刃で、二人は軽く会釈してから帰って行く。
家政婦としても家と子供を預かる立場としては二つ返事で許可は出来かねるのだ。万が一、何か事故があった場合、自身の責任になってしまう。雇われ人としてそれは避けたい事態だ。
「坊ちゃん、折角出来たお友達ですし、悪いようにはしませんから」
景元が解り易く唇を尖らせ、寂しそうにしていると家政婦が慰めの言葉を吐き、それに少しばかり口元が緩ませる。
幼稚園、小学校を受験するに当たり、周囲の子供は全て敵として勝ち負けに拘り、神経が逆立っている親も多く、家で何を吹き込まれているのか慣れ合いを悪として他と関わらない子供も少なくはない。
最初こそ皆と仲良くしたかったのだが、いわゆる『出来のいい子供』である景元は、子供の嫉妬心を逆撫でするのか、階段で突き飛ばされて怪我をして以来、交流は消極的だ。幼児用の低い階段とは言え、痛いものは痛く、楽しくも可愛くもない人間と一緒に居るよりも兎小屋の兎でも見ていた方が余程、気分がいいと気付いてからは同じ幼稚園の子供とは関わりは避けていた。
そんな景元が可愛い猫を飼っていて、優しいお兄さん達に懐かないはずもなく、両親の許可を期待しながら、その日は寝床に入った。
▇◇ー◈ー◇▇
「景元、真向かいのお兄さん達と仲良くしたいの?」
翌日、昨日の夜に話を聞いたのか母親が話を切り出してくれた。
父親は既に出勤しているようだが、話は聞いているらしい。
「やさしいしすき」
端的に景元が言えば、母親は考える素振りを見せていた。
そして、齎された回答は、待っていて欲しい。だった。
「なんで?」
「優しそうに見えても、酷い事をする人は一杯居るのよ」
景元は納得いかずに抗議の声を上げるも母親は首を横に振り、頑として安易な肯定はしなかった。
検事は警察が検挙した容疑者を疑い、罪を暴いて有罪にすることが仕事。職業柄、どんな優しそうな見目をしていても、平気で人を騙す輩は見慣れており、相手が越してきたばかりでどんな人柄かも解らないとして息子にも許可は与えなかった。
優しいながらも厳格な性格の両親は根回しもしっかりしており、幼稚園から帰宅した景元が父親の背中を見送った後で勝手に応星と刃の元へ行こうとすると、家政婦に首根っこを掴まれ、玄関脇にある子供部屋へと連れ戻される。
「坊ちゃん、いけませんよ」
「ねこみたい」
「動画で我慢して下さい」
「さわりたい」
「動画見ながらもふもふした毛糸でも触ってなさい。それとお勉強です」
景元はあからさまに不機嫌な表情を作るが、子供の扱いに慣れた家政婦はものともせずに景元を一階にある自室へと放り込むと扉の外から大人しくしているよう指示を出して離れていった。
あんなにやさしいおにいさんたちがわるいひとなわけないのに。
机上に受験用の教本を広げながらも、不満に口を尖らせる景元が窓から外を見上げながら、椅子を使えば鍵を開け、窓から出られると算段を付け実行に移す。
景元は窓から身を乗り出し、決して降りられない高さではないと確認するとサッシを掴みながら壁伝いに降り、裏庭に続く砂利道へと靴下のまま着地し、道路を見渡して人や車の通りを確認すると応星と刃の元へと走った。
「ごまちゃんー、おにいちゃんー」
玄関のインターホンには手が届かなかったため庭に回り、居間の掃き出し窓前で日向ぼっこをしていた胡麻とソファーに座っていた刃、応星へと手を振る。
「何してんだお前⁉」
裸足も同然でやって来た景元に応星は目を剥き、窓を開けて問い詰め、胡麻が驚いて脱走しないよう抑えながらも刃が呆気にとられた顔をしている。
「お前、行動力あるなぁ……」
景元の汚れた靴下を脱がせて部屋へと上げ、応星が感心したような、呆れたような様相で温めた甘い牛乳を渡し、
「勝手に出てきたら駄目だろう」
胡麻を抱えながら刃が説教をする。
景元は甘い牛乳を一息に呑み干すと、胡麻が居る刃の膝へと強引に割り込み、猫を撫でながら自身も撫でて貰える至高の空間へ身を投じる。
「だって、おにいちゃんたちいいひとなのに、かあさんがいじわるいうんだ」
甘えながら達者な口で不満を吐きつつも、猫の柔らかい感触と、優しく撫でてくれる刃の手に口元を緩ませて甘える。
しかし、そんな幸せな時間は『坊ちゃん!』との、叱責の声で終わりを迎える。
「勝手に出て行くなんて、心臓が縮み上がりましたよ⁉」
事情を聞いた応星達の母親が慌てて伝えに行き、子供部屋を確認した家政婦は預かったご子息が忽然と消えている事実にそれはそれは肝が冷えたことだろう。
「坊ちゃん、帰りますよ!」
知らない人間が駆け寄ってくる姿と張り上げられる声に胡麻が驚いて刃の肩を駆け上がって逃げ、景元は引き離されまいとしがみつく。
「坊ちゃん!」
「やーだー!」
「そんな我が儘言うと、二度とお兄さん達に会えなくしますよ!」
叱られる声に景元は涙を浮かべ、唇を曲げて家政婦を睨み付けている。
大人達からすれば、明らかに許可も得ずに勝手に抜け出した景元が悪いのだが、彼にとって、家政婦は楽しい時間を妨害する邪魔者でしかない。
「なぁ、家に帰らないとあのおばさんが困るから……、胡麻も逃げたし、また遊びに来たらいい」
「んー……」
刃に説得され、景元は鼻水を啜りながら渋々離れ、家政婦に腕を引かれて家に帰る。応星と刃、その母親が見送ってくれたが、この件がどう両親に伝えられるのか、本当に二度と会えなくされるのか、落ち込むばかりだった。
▇◇ー◈ー◇▇
「景元、起きなさい。話は聞きました」
早朝、不貞腐れてご飯も食べずに眠ってしまった景元の前に、母親が険のある顔つきで仁王立ちをしていた。常ならば目覚まし時計が鳴っても中々開かない瞼が一瞬で上がり、景元は寝台の上で正座して母を迎える。
「まだ駄目だと言っていたのに、言いつけを破って勝手にあの方達のお家に行ったんですって?」
「ご、ごめんなさい……」
「あのね、あの子達、前の学校で同級生に怪我をさせてるの、もう二度と遊びに言っては駄目よ」
どうやって調べたかまではまでは口にしなかったが、はっきりと接見禁止が言い渡され、景元は大きな目を更に大きく見開き、昨夜から食事をしていないため、空腹を訴えるお腹を無視して布団の中に潜り込んで籠城した。幼い子供に出来るせめてもの抵抗である。
「わるいおにいちゃんじゃないもん!」
「景元⁉」
叱りながら布団を剥がそうとする母親に負けじと反抗はするものの、女性とは言え大人の力に敵うはずも無いため景元は敢えなく寝台の上から引きずり出され、食卓に着かされた。
カウンターキッチンの奥では家政婦がおろおろと右往左往している。
「いいですか、素行の悪い人達は貴方のためになりません。もう遊びに行っては……」
「わるいひとじゃない!」
景元は母親の言葉を遮り、憤慨も露わに叫ぶ。
素直で大人しい息子の初めての反抗に、どこか動揺しながらも母親は首を横に振るばかり。
「あのね、こっちはちゃんと調べてるの。特に弟さんの方は喧嘩ばっかりする乱暴な子だって、貴方を苛めるかもしれないのよ?」
「いじめられてない!」
朝ご飯に手を付けず、必死に擁護する景元に呆れたのか、母親は小さく嘆息し、『早く食べなさい』とだけ言って締めた。
お腹は空いていても、食べたら母親の言葉に屈服したようで、意固地になってしまった景元は時間になっても手を付けず、くるくると空腹を訴える胃を宥めるように撫でて後部座席でお腹を押さえていた。
当然、幼稚園で行われる外国語の勉強にも集中できず、お弁当の時間になるまでお腹が鳴りっぱなし。最終的に、いざ家政婦が作ってくれた色鮮やかな弁当を見ても食欲が湧かなくなっていた。
「景元君、大丈夫?今日は元気ないね」
幼稚園教諭の一人が、あからさまに元気のない景元を気にかけては見るも、頷いただけで無言である。熱でもあるのかと顔を覗き込んでも特段顔色は悪くなく、ただ機嫌が悪いと判断した。
「お寝坊して朝ご飯でも食べ損ねちゃったのかなー?お腹いっぱいにして元気になろうね」
「はい……」
景元は促されるまま小さな幼児用のフォークで赤いウィンナーを突き、昼休憩終了の時間までかかって弁当を食べきり、幼いながらもやはり母親の一方的な発言は可笑しいと思い出しながら怒る。
心根が賤しい人間はそもそも気遣ったりはしてくれない。
優しさを装う人間は大人、立場のある権力者が見ている場所に限定してそれらしい微笑みを浮かべるが、何もない子供へは幼いからと解り易く侮って薄ら笑いを浮かべながら横柄になるか、無視するものだ。
景元は小賢しいと言えば聞こえは悪いが、頭が良く、人をつぶさに観察し、物事をよく理解する。
無論、賢しくとも知識や経験の足りなさから理解が及ばない物事も多くはあるものの、今回の出来事は子供心にも理不尽だと感じていた。顔を合わせたらもう一度『おにいちゃんたちはわるいひとじゃない』そう主張するつもりだったが、迎えに来たのは家政婦で、家に帰っても憤懣は解消されず、いつもは嬉しいはずの甘いおやつにも心が冷めたままだった。
「坊ちゃん、プリンをつつき回してはいけません。お行儀悪いですよ」
「だって、おにいちゃんたちわるいひとじゃないもん」
主語のない発言ではあるが、経緯を知っている家政婦は困ったように眉を下げ、
「確かに悪い子達じゃ無いとは思うんですけどねぇ……、人に怪我させたって言ってもこちらは状況を知らない訳ですし……。でもね、わたくしは奥様の言いつけには逆らえませんので、もう許可が出るまで行っちゃ駄目ですよ」
「えぇー……」
一瞬、味方が出来たと目を輝かせた景元ではあったが、即、味方にはなれないと言われて匙でプリンを崩す作業に戻ってしまった。
「坊ちゃん?食べないなら下げますよ」
「たべる」
ほぼ原形を留めていないプリンを掬っては口に運び、一口ごとに構ってくれた優しいお兄さん達と可愛い猫が頭に浮かんで体がそわそわと落ち着かない。
「もう勝手に出てはいけませんよ?解りましたか?」
「はい……」
食べ終われば部屋に追いやられ、景元が窓を確認すれば鍵が開かないように幾つもの簡易錠が付けられていた。窓の下部に付けられたものは外せそうだったが、上部に位置する簡易錠は椅子に上っても手が届きそうにない。こんな心理状況では勉強しようにも気分が乗るはずもなく、景元は床に転がりながら本を読んでいる最中に寝入ってしまい、夕飯の時間に家政婦から寝台の上で起こされた。
よほど深く寝入っていたのか、様子見に来た彼女が寝台に移してくれた事にも気がつかなかったようだ。
「かあさまと……、とうさまは?」
「大事なお仕事があって、今日は帰ってこられないとご連絡がありました」
食卓についても相変わらず両親の姿はない。
日常ではあるが、話したい時に居ないのは気落ちしてしまうものだ。夕飯も半分ほど食べて椅子を降り、寝支度をすると溜息を吐きながら寝台に入る。数日前に夕食に誘いに来てくれた応星と刃を思い浮かべ、あの賑やかな食卓で食べたら楽しいだろう。と、夢想する。
誰も居ない空間を見ながらの食事は、あまり味がしない。いい子にしなければ、両親に見捨てられるかもしれない恐怖を心の奥底に広がるも、暖かな場所を欲する心は焦燥感として募っていくばかりである。
▇◇ー◈ー◇▇
朝になり、父親が疲れた様子でパンを囓っていた。
起こされなくても自力で起きてきた景元を珍しいとして父親は褒めたが、反応の鈍さに疑問を持ったのか、理由を尋ねてくれた。
「かあさんがね、おにいちゃんたちとあそんじゃいけませんって……、わるいこたちだって……」
「あー……、そう、だなぁ……。でも、前会った時に悪い印象は無かったんだけどね……」
「だよね!」
景元は勢い良く顔を上げ、縋るように父親を見詰めるも、難しい表情で首を傾げるばかり。
「でも、かあさんが駄目ってるのを私が色々言うのも……、いや、景元はお兄ちゃん達が大好きなんだよね?」
「うん、ねこさわらせてくれたし、なでてくれたもん」
父親は単純な息子に苦笑しつつ、母親と話し合ってくれる事を約束してくれた。
幼稚園に行く前、学校へ行く応星と刃の姿が見えたため、景元が車の後部座席に据えられたジュニアシートから身を乗り出して懸命に手を振ると、応星は笑顔で大きく振り返してくれ、刃も兄の後ろで控えめながら手を振り返してくれた。嫌われていないと安堵した景元は、幼稚園へ行っても機嫌が良く、昨日の不機嫌は偶々と幼稚園教諭も安堵する。
今日は母親が迎えに来てくれ、話す好機として景元は切り出す。
「あさね、おにいちゃんがてふってくれたよ」
景元が言う『お兄ちゃん』が誰を差すのか理解した母親は、小さく嘆息すると眉根を寄せながら無言で運転する。
「かあさん……?」
今まで、余裕が無いにしても『少し待ってね』などの文言が一言なりとはあったため、完全に無視される状況に景元は不安を覚え、薄く涙を浮かべて縮こまってしまう。
「あのね、繰り返しになるけど、あのお兄ちゃん達はお友達を平気で殴ったり蹴ったりして傷つけられるような人なの。そんな人と仲良くするなんてとんでもないわ」
家の駐車場に車を止め、運転席から振り返った母親は険しい表情で景元に苦言を呈する。
「じじょーがあるのかも……!おはなしきかないできめつけるのはよくない、ってまえいってた!」
テレビで流れる物語を見ていても、何か行動をする際には理由がある。
親からもそうやって叱責された経験がある。その親本人が何をどう調べたかは不明にしても、一方的に否を突き付けている状況は違和感でしかない。
「どんな理由があっても、相手を病院送りにするような人間を信用できる訳ないでしょう」
「びょういん?」
「そう、何もしてないお友達を蹴って骨折させたんですってよ。こんな時期に引っ越して来たのもそれが原因でしょうね」
母親は冷たく言い放つと車から降り、ジュニアシートのベルトを外して景元にも降りるよう促すが、母親の待つ反対側の扉から飛び出した景元は悲鳴のような追いすがる声を無視して一心不乱に走り抜いた挙げ句、見知らぬ公園までやって来た。
昼過ぎの公園とあって親に連れてきて貰ったのだろう砂遊びをする幼児や、友達と走り回って騒ぐ子供等が目につくが、息を切らした景元を気にする人間は居ない。
走り疲れた景元が、強い日差しを避けて木陰に移動するも、目の前をスケボーで走り抜けた子供に驚いて、避けるように器用な動きで木へと昇る。
木の枝は太く、景元の体を支えるに不足はない。
強い日差しも遮りながら心地好い風が通り抜け、ささくれていた景元の心を落ち着かせた。
言葉に出来ない心のもやもやが母親に従う気持ちをなくさせ、感情的になって飛び出した挙げ句、追跡を撒くため右に左にとひたすら走り回ってしまったが故に帰り道がさっぱり解らない事態に陥ってしまった。
葉の陰から周辺に居る人間の顔を覗き見るが、知っている顔はない。
「どうしよ……」
木の幹に背を預け、枝に跨がりながら景元は足をぶらつかせる。
焦ったような母親の声。振り切ろうと必死になるあまり、振り返りもしなかったが背後からどさ。と、音がしたため、もしかしたら転んだのかも知れない。
心配してるかも。そんな気持ちと追いすがろうとして転んだであろう母親を見捨てた罪悪感が景元の心をちくちく刺した。
「あつい……」
直接的な日差しは遮られているとはいえ、暑さはじわじわと景元の体力と体内の水分を奪う。何も持たずに飛び出したため、水筒などの補給手段もない。
来た道を探りながら帰ろうか悩むも、自身の手で登っておきながら地上を見ると思いの外高く、降りようにも足が竦んだ。
次第に暑さは景元の身を侵し、顔に汗が伝い、着ていたシャツにも汗が滲み出す。何度も意を決して飛び降りようとしても、下を見ると高さに恐怖が湧いて動けない。
どうしよう。どうしよう。と、ばかり頭に浮かんで解決策などは出てこない。不安から目に涙が溢れてこぼれていく。たまらず景元が小さな嗚咽を上げていると、
「応星、ちびが居たー」
そんな声が聞こえた。
聞き覚えのある声に顔を手の甲で擦って地上を見やれば、木の根辺りで刃が景元を見上げている。
「動くなよ」
そう言って刃は木をよじ登り始め、
「ほら、俺に掴まれ。降りれないんだろ?」
「うん……」
顔を涙と鼻水で汚しながら景元は刃の背にしがみつき、少年は背負った幼児の重さなどないかのように降りていく。
「見付かって良かったなー、刃おてがらじゃん」
「おにーじゃぁん……」
応星に頭を撫でられ、余計に景元は泣きじゃくる。
「お母さんも探してたから、後であやまるんだぞ」
刃に諫められて景元は素直に謝るが、どのような叱責が母親からもたらされるものか、またそれはそれで落ち込み出す。
「かえるのやだー」
刃の背にしがみつき、揺られながら帰路につく景元は怒られたくないあまり、帰宅拒否を口にする。が、直ぐに家の前に辿り着いた事で、かの公園は大した距離ではなく極々近所である事が知れた。
本人としては、母親の手が届かないほど遠くに逃げたつもりであったが、近所をぐるぐる回りながら逃げただけだったのだ。
何だか恥ずかしくなった景元は、刃の肩に顔を埋め、ぐりぐりと額を擦り付けた。
「お母さん、ちび居たよー」
一足先に応星が門扉に立っていた己の母親に声をかければ、慌てた様子でスマートフォンを手に取り、電話をかけだす。
お子さん見つかりましたよ!そんな声が聞こえて数分で景元の母親が駆け寄って来る。化粧が崩れるほど汗をかいていても顔色は蒼白で、擦りむいている膝からストッキングが伝線して破れ、靴は掃いていない。駐車場の側にハイヒールが一足転がっている。転んだ際に折れたヒールが邪魔で脱いだのだろう。
母親は景元の姿を認めると脱力したようによろめき、塀にぶつかる。
「景元君だっけ?汗いっぱいかいてるから、これ飲んどきな。お母さんもね」
「ありがとうございます」
景元は赤い顔をしながらも渡されたスポーツドリンクを両手で持って礼を言えたが、母親の方はアスファルトに座り込んで肩で息をしながら頷いたのみだ。相当に走り回っていたのだろう。
刃の背から降ろされた景元も、座り込む母親も、五〇〇ミリリットルのペットボトルを一気に飲み干し、大きな溜息を吐いた。
「ご、ご挨拶……、は、また、後で……」
どうにか絞り出した様相の礼を景元の母親がすると、
「何言ってんの、貴方も坊ちゃんも病院に決まってるでしょ。自分がどんな顔色してるか解ってないでしょ?」
刃と応星の母親は、てきぱきと仕切りながら自分の車の後部座席に二人を押し込むと、
「刃、応星、あちらの家政婦さんに事情説明して、ちょっとの間、留守番しといて」
そう言って嵐のように車を出した。
景元と母親を乗せた車内は涼しすぎるほどの冷房が効いており、見つかり次第、病院へ連れて行く算段であったのだろうと知れる。
「かあさん、おしごといいの?」
「よくない……、けど、貴方を放って行ける訳ないでしょうが……」
精神的、肉体的にも疲労困憊の様子で母親が軽く景元の頭に手を乗せると、引き寄せて自らの膝に寝かせる。
「ごめんなさい……」
「うん……」
短い会話であるが、景元は癇癪を起こして迷惑をかけてしまった後悔に苛まれ、母親は頑なに受け入れようとしなかった相手に救われた事実を重く受け止めていた。
▇◇ー◈ー◇▇
景元と母親、どちらも軽度の熱中症であるとの診断をされ、病院で点滴を受けながら母親同士、じっくり話してみると刃、応星の母は夏の抜けた晴天の如き気風の女性であった。
曰く、引っ越してきたのは夫の急な転勤に会わせてだが、学校はこちらから止めてやったのだと豪語する。
応星は灰がかった銀白色の髪に紫紺の瞳。
刃は紫烏色の髪色に濃紅の瞳。
どちらも陶器で出来た人形のように肌が白く、冬でも日焼け止めを塗らねば肌が火傷したようになり、ケアが欠かせない。
白皮症の特徴が目立つ二人は同校に通う子供等の揶揄対象になるばかりか、見た目にか弱そうな応星が反撃すれば生意気として激烈化し、徒党を組んでの酷い虐めにまで発展したそうだった。
応星は豪快な母譲りで気が強いものの、身体虚弱で体調を崩し易く、体格のいい相手であればどうしても体力、腕力的に負ける。そんな応星よりは身体的に頑丈でも、刃は口が上手くないせいか兄を庇おうとする際、相手が暴力的な事も相まって手が出易くなっていた。
一般的な人間と身体的特徴が異なるだけで苛められ、教師も見て見ぬ振りで助けぬばかりか二人に原因があるとまで曰い、反撃をすれば先に暴力を受けた被害者が加害者扱いされる状況に耐えかねて退校したと笑う。
声の大きな加害者を諫めるよりも被害者を黙らせる方が手っ取り早く、都合がいいのだろう。とも憤慨していたが。
視点が違えば違う真実が見えるもの。
それにしても人を使って調べた情報と事実が余りにも食い違う現実に景元の母は目を剥いた。
応星ほどではないが、景元も髪が尾花色で瞳は黄金色。
紫外線から体を守る色素が先天的に少ないためか日に当たり過ぎれば肌が真っ赤になって痛みに泣き、消耗も激しく活発な気質ながら直ぐに体力が尽きて良く眠る子供であった。
先天的な弱点を持ち、同年代の子と比べても体力が劣る我が子を暴力的な人間から護りたいあまり、狭まっていた視野を彼女は自覚する。
「すみません……」
「いいのよ。お子さんも無事だったし、ご近所さんになったのも何かの縁だし、助け合わないとね」
謝った理由はそれだけではないが、応星と刃の母親はからからと笑う。
二人の母親に別れを告げ、夕暮れになって病院から帰った景元は、点滴を受けた腕をずっと摩り、居心地が悪そうにしていた。
「お母さんは今日中に終わらせなきゃいけない仕事があるから行くけど……、貴方は休んでなさいね。それと、お兄ちゃん達に迷惑をかけないようにするなら遊びに行ってもいいわよ」
ほんの数時間前とは真逆の言葉に景元は首を傾げながらも、早速とばかりに家を飛び出そうとしたが、
「休んでなさいと言ったでしょう!」
都合のいい部分しか聞いていない息子の首根っこを掴みながら引き留め、呆れ顔の家政婦に渡すと着替えてから足早に出て行った。
「またおしごと?」
「お忙しい方ですからね、しなきゃいけない事が多いんですよ」
もしかしたら、今日は夕食を共に出来るか期待していた景元は、落胆しながらも見送った。朝には父親、母親の何れかが必ず共に食事をしてくれるが、父、母、自分。三人揃っての食事は、皆無とまではいかないが、景元が物心ついてから数度しか記憶にない。
休日でも忙しなく出て行く事もあり、どちらかは家に居らず。寂しさを露わにすれば家政婦から言い含めるように『おとうさまもおかあさまもおいそがしいかたですからね』と、窘められることが日常で、彼は弱冠五歳にして諦めを知る。
あす、おにいちゃんたちのところにいこう。
諦めたら切り替えは早い。
明日を想って胸を高鳴らせながら夕食を食べ、寝入る支度を済ませてから景元は寝台へと潜り込む。
明日は日曜日で学校も休みの筈。
暖かく迎えてくれる妄想をしながらも直ぐ様眠りにつき、朝になると目覚ましよりも早く起きてきた景元の物珍しさに父親が驚いていた。
「今日は随分、頑張って起きたね?」
「おにいちゃんとこいくの!」
食卓に座っている父親に昨日出来事を報告すると、『大冒険だったね』と、苦笑する。
許可を貰ったから遊びに行く。そう主張しても矢張り苦笑い。ある程度の話は聞いているようだった。
「先方にも予定があるんだから、自分の都合だけを押しつけてはいけないよ。いいね」
「はーい」
「今日はお父さんが居るから、何か遭ったら直ぐ帰ってきなさい」
「わかったー」
景元は素直に返事をすると家から飛び出し、真向かいにある家へ向かうも、立ちはだかるのは門扉と呼び鈴、景元が背伸びをしても呼び鈴に僅か届かず右往左往。
「何やってんだお前」
ちょろちょろ動く影が見えでもしたのか、応星が玄関を開けて声をかけてくれ、景元は破顔する。
「あそびにきた!」
「それはいいけど、今度はちゃんお父さんかお母さんに言って来たか?」
「うん!」
矢継ぎ早の質問に元気に返事をすれば、応星もにやっと歯を見せて笑い、門扉の鍵を開けて迎え入れてくれる。
「あ、ちび」
景元が居間へ移動すると、胡麻と戯れていた刃が声を上げ、一瞬だけ猫を見て手招く。景元は当然のように遠慮などはせず、刃の懐に飛び込むと胡麻とじゃれ合いだした。
「あ、ちびじゃないよ。けーげんだよ」
「俺よりでかくなったら改めてやる」
猫に夢中になっていた景元だが、不意に『ちび』と呼ばれている人物が己と気がつき、訂正を試みるも鼻で笑われて唇を尖らせる。
「じゃあ、おにいちゃんよりおっきくなる」
「ふん、精々がんばれ」
すっぽりと懐に収まってしまうような景元が、己を追い越す想像が出来ないのか刃は全く相手にせず笑うばかり。
「大きくなりたいなら好き嫌いせずにいっぱい食べないとな」
応星も小さな景元を侮ってけらけら笑い、茶化される本人は拗ねて猫の腹に顔を埋めて鬱陶しがられていた。
猫の頭を蹴られつつ、景元は絶対に二人よりも大きくなってやる。と、心の中で誓う。
【その二】
