薄暗くなった部屋で応星は目を覚まし、うつ伏せになっていた机から顔を上げ、強ばった背中を伸ばすために手を上げる。
「あだだ……」
いつの間にか意識が飛んでいたようで、筆は手に握られたまま毛先はすっかり墨が乾いて固まっていた。大分寝てしまってたらしい。そして、誰も起こしてくれなかったようだ。
描いていた設計図は予定よりも進んでおらず、眠ってしまった分を取り戻すために工房に泊まり込むか応星は悩む。
工造司の居住区にある自宅に帰宅した所で真っ暗な部屋に入り、身を清めて誰も居ない部屋で横になるだけ。特に楽しみも無い。ならば、やりたい仕事をしている方が余程有意義に思え、朝から何も食べていない事に気付いた応星は一先ず食事をしに行く事にした。
製図室を出て、作業場まで行けば珍しく残っている人間が居て、なんとなしに見詰めてしまった。特に何か考えていた訳でも無い。
「お、やっと起きたのか。寝惚けた顔して」
「あぁ……」
寝惚け眼で同じ工房で働く持明族の同僚に頷く。
頭も良く動いていない。
「随分疲れてるなぁ。そんなに飲月君と仲良くしていたのか?」
薄笑いを浮かべて同僚が言った名前は半分寝た頭でも丹楓の事だと判る。
仲良くはしている。昨夜も共に呑み、何をするでも無いが一緒に居るだけでも心が安らぐため次の日の事も考えず、だらだらと長居をしてしまった。日頃の疲労も相まって、居眠りをしてしまったのはこの夜更かしが原因だろう。
「まぁ、仲良くしてるよ」
いつもの嫌味かと特に否定もせずに聞き流し、食糧を確保するべくふらつく足で金人港へと向かう。
「おい、大丈夫なのか?足下がふらふらしてるぞ……」
「え?あぁ、慣れてるし大丈夫だよ」
急に心配しだした同僚を不思議に思いながらも慣れた道で迷うでもなし、手を振ってそのまま行こうとすると、床に落ちていた工具に足を引っかけ、よろめいた先で力が抜けて床にへたり込んでしまう。
意識はそれなりに覚醒しているが机で寝てしまったせいか、体は未だ休眠を欲して動きたがっていないようだ。
「無理するなよ。あの方のお相手も大変だろうし……」
床に座り込んだ応星に同僚が手を差し出し、立ち上がらせたばかりか手近にあった椅子を引き寄せて座らせてくれた。いつも短命種の分際でどうこう、龍尊に媚びを売って贔屓して貰っているのなんだと面倒な長命種が、何故こうも気遣ってくれるのか気味が悪い。
「いや、丹楓はいつも優しいが……」
丹楓は言葉こそ多くはないが、それを苦痛に感じた事は無い。
互いが沈黙でも苦ではなく、何をせずとも存在を受け入れてくれる相手は希少なもの。彼は応星のかけがえのない人物であり、共に在って大変などと微塵も考えた事は無かった。
「そ、そうか……」
同僚が矢鱈としどろもどろになり、不可解さに気の抜けた顔で見上げる応星の腹が鳴る。
「腹減ってるのか?」
「あぁ、金人港にでも行こうかと……」
「俺が買ってきてやるよ。お前はそこに座ってろ。何かあったら丹楓様が悲しまれるしな」
たかが食べに行くだけで大袈裟な。
小走りに駆けていく同僚の背中を眺めながら、応星は作業台に頬杖を突き、大きく欠伸をする。
そうしていると、また転た寝をしてしまったようで、起きた頃には少しばかり温くなった点心と米料理が傍に置かれていた。
置かれた物の匂いを嗅ぎ、ほんの少しだけ舐めて変な味がしないか確認の後、点心を囓り、米を頬張る。明日には使わせた金銭を返すと共に礼の一つでも言わなければならないだろう。
▇◇ー◈ー◇▇
応星は数日工房に泊まり込み、設計図を完成させると、終わった。と、気の抜けた声を出し、次に待ち構えて居る素材の厳選と、部品の組み立て作業を考えながら帰宅の支度をする。
殆ど応星専用となっている仮眠室で一眠りしても良かったが、殆ど眠らずに設計図を描き、一度完成しても全体を照らし合わせて修正を繰り返した疲労が溜まっている今、誰にも邪魔されずに眠りたい心地だった。既に深夜に差し掛かった今の時間は無人だが、朝になれば工房は常に人が出入りをしているため、仮眠室で眠っても起こされてしまう羽目になる。
兎にも角にも限界で、泥のように眠ってしまいたい今、応星の足は珍しく自宅へと足が向かう。思考が『眠い』に支配され、体を動かす事すら億劫で仕方なく、生欠伸ばかりが出る道中を耐え、辿り着いた自宅。
「たーだいま」
返事は返ってこないが、帰宅したと感じるためにも必要な儀式のようなもので、応星は声を発して扉を開ける。
室内は真っ暗で、明かりを点けるためのボタンを探して押せば明るくなり、薄暗がりを歩いてきた眼は一瞬だけ眩んだ。
応星は数秒だけ目を閉じ、瞼に透ける光に慣れた頃合いに開いて室内の惨状に驚いた。思わず玄関に立ち竦んだまま、眼だけを動かして自宅であるか玄関周りを確認する。
「なんだこれ」
いっそ、立ったまま寝てしまった際に見た白昼夢であれ。と、したかったが、ありとあらゆる引き出しが開けられ、家財が倒れて荒らされている現状は現実だ。
殆ど自宅に帰らない応星は、家に貴重品を殆ど置いていない。
被害はたかが知れている。このまま扉を閉めて、直ぐ様、地衡司に駆け込むべきだ。
ただ、どうしても気になったのは、仲間から貰った簪や髪紐、衣服。
見目が汚くならぬよう気をつけてはいても、工房に籠りがちな応星は、どうしても興味が向かずに身の回りの物が粗雑になりがちで、それを気遣ってくれたものだ。自分で買った物は買い直せば良い。しかし、貰い物は仮令、品が同一物だとしても同じでは無い。付随した思い出が変わる。暖かな記憶を穢されたも同然である。
全て、居間から扉で隔てられた寝室に置いてある。
盗られていないか確認に行きたかった。しかし、泥棒と鉢合わせたら、空き巣は強盗へと変化してしまう恐れもあり、足が固まってしまう。
「おい、どうした?わ……」
背後からかかる声に肩を震わせて応星が振り返る。
玄関で立ち尽くし、あまりにも動かない応星を不審に思って近所に住む男性が気にしてくれたようだった。
「お、俺、地衡司に連絡してくる。直ぐに雲騎軍も来てくれるから、気をしっかりな!」
「ありがとう……、ございます……?」
応星の肩越しに惨状が見えた男性は、直ぐに駆けだしてくれた。
数日前から、妙に親切な長命種達に違和感は持つが、差別的な人間だとしても、相手があまりに憐れだと手を差し伸べたくなってしまうのか。
程なくして、雲騎軍の兵士を数人伴った地衡司の役人が応星の元を訪れ、現場検証として室内に入っていった。
「中の物は何か動かしましたか?」
役人が訊けば、応星は首を振って否定する。
中に入るべきか否か悩み、疲労から目眩もしてきたため、結局は危険を回避する方を選んでしまった。特に非難されるべき事柄では無いが、応星自身に我が身を優先してしまった罪悪感がちくちく刺さっている。
「あ……」
盗られた物が無いか確認をしていた応星が声を上げ、床に落ちていた物をしゃがみながら拾い上げると丹楓から贈られた簪が踏まれて歪んでいた。破損はしていないにしても、もう通常の用途では使えない。
応星は宝物を壊された怒りに人知れず歯噛みし、どうにか修理出来ないか考えていれば頭上に影がかかり、首を巡らすと丹楓が立っていた。
「何でここに……」
贈られた物を壊された気不味さから、応星の声が掠れる。
「雲騎軍から其方の家が荒らされたと報告があった故」
「心配してきてくれたのか?でも、なんて事ないさ。貴重品も置いてないし」
羅浮龍尊であると同時に雲騎軍に所属する将でもあるとは言え、丹楓の耳にまで入るとは、誰かが気を利かせたつもりで報告したのだろう。
その気の利く誰かに、ただでさえ多忙で重責を抱える丹楓を煩わせるなど『余計な』と、恨み言を腹の中で言い、心配させたくない気持ちから軽快に笑って手を振った。
「このままでは休めもせんだろう。顔色も悪い。余の元へ来るが良い」
「龍尊様のご自宅なんて畏れ多いから遠慮しておくよ。寝るだけなら工房の仮眠室でも寝れるから大丈夫」
簪を壊された負い目を勝手に感じ、なんとなしに丹楓と居たくない応星の気持ちなど、元から感情の機微に疎い彼に気付いて貰おうとは思わず、迷惑をかけたくない体で話す。が、丹楓は眉を顰める。
「何を今更、己の家や仮眠室よりも熟睡出来ると申しておったではないか?」
じわ。と、応星の白い肌が紅潮し、過去の己の言動を恥じる。
確かに、丹楓宅に置いてある寝台と夜具は龍尊が利用する物なのだから、百冶の称号を与えられただけで実権も何もない只人応星の簡素な自宅や仮眠室に置いてある安物などとは比較にならない程、心地好い眠りを提供してくれた。酔って寝入ってしまい、何度も世話になったのだから間違いは無い。
「そうだが……」
もごもごと口の中で呟く応星が背中に隠している物に気付いた丹楓が手を取り、秘する物を暴いて息を漏らした。
「其方が無事ならば他はどうでも良い」
応星の手に握られる歪んだ簪を見て丹楓は正面から言い切り、後始末を地衡司の役人や、兵士に任せると握った手をそのまま引いて丹鼎司まで向かう。
「本当にいいって……」
「この程度、大した負担でも無い。甘えよ」
有無を言わさない物言いに応星は諦めて手を引かれ、星槎に乗ると慰めるように髪を撫でられ気が抜ける。出会った頃、応星は幼く、丹楓は既に立派な龍尊で、こうして肩を並べている事が奇跡のように感じられるのだが、友であり、家族のように接してくれる丹楓の傍は心地好く離れ難い。
丹鼎司につけば、丹楓に向かってのみ恭しく頭を下げる家人を尻目に、薬草の匂いがする広々とした湯殿へと案内され、湯を浴びて薬湯に身を沈めればそれだけで眠ってしまいそうなほどの心地好さに襲われてしまう。
「沈んでいるぞ。きちんと座れ」
過労気味の応星を気遣い、監視として共に湯に浸かる丹楓に支えられ、膝に乗せられる。
「子供じゃ無いんだからさ……」
「体力切れの子供のように目を閉じそうになっていた者が何を言うか」
ぐうの音も出ない反論に応星は大人しく引き寄せられるまま丹楓にもたれ掛かる。いい歳をした大人になってこれは恥ずかしいのだが、長命種と短命種では感覚が違う。
いつか、もう六十にもなるのに、親が子供扱いをしてくる。と、ぼやいている仙舟人も居り、短命種にとっての十年は相当な時間であるが、長命種にとっては高々十年。短命種とて、見目が愛らしい動物が大きくなったとしても子供のように愛でるのだから、恐らくはその感覚だろう。と、己を納得させている。
抱き締められていれば応星の瞼が徐々に落ちだす。
薬臭いと言えば独特な香りであるが湯は柔らかく、温度も温すぎず熱すぎない。加えても丹楓が撫でてくれる感触が眠気を誘い、どうしても頭が呆けだす。
「余が傍に居る。眠っても構わん」
何度も目を閉じては懸命に意識を外側に向け、起きていようと尽力する応星が面白かったのか、笑いを含んだ声色で丹楓が告げる。
「でも……」
言いながらも応星の瞼はくっついて離れなくなり、丹楓に抱えられたまま眠ってしまう。目が覚めた頃にはしっかりと夜着である中衣に着替えさせられた上で寝台に転がっていた。
脇棚に置かれた香炉から漂う白檀の香りが鼻腔を擽り、隣を見れば端正な顔が静かに寝息を立てている。結局、迷惑をかけた自身を顧みて反省するばかりである。
「丹楓?おはよ」
小さく声をかけてみるが丹楓は目を開けず、規則的な寝息だけが聞こえる。布団の中で丹楓の手を握れば、湯に浸かった後で一晩中布団に入っていたにも関わらず冷たい。
丹楓は表情にこそ出さないが寒がりで、常に体温が低い。龍の血族が皆そうなのかは知れないが、応星は幼い頃から湯たんぽ代わりにされる事が間々あった。体温が高いため丁度良いのだとか言って。
いつまでも子供扱いはともかく、丹楓に寄り添うだけであれば大して恥ずかしくないのは慣れもある。が、応星は仙舟人で無い事も相まって丹楓を尊敬はしていても、畏れてはいない。
皆が畏怖を抱くほど丹楓は冷酷でも、人から遠い存在でもなく、こうして傍に立てば彼が如何に凡人等を慈しんで心を配り、羅浮のために尽力し、重圧に耐えているかが解る。人とあまり関わらないためか感情表現は隠微であるが喜怒哀楽もしっかり持っている。だが、悲しい哉、丹楓を崇拝する者は彼自身を見ようとしない。見ているのは『羅浮の龍尊、飲月君』或いは『英雄、丹楓』。それは、応星の知る丹楓とは似て非なるものだ。
「たんふー?」
再度、呼びかけても反応は無い。
体温が低いから目覚めないのか、応星は丹楓を温めようと体を寄せ、ぴたりと隙間なく張り付いた。すると、丹楓からも熱を求めるように冷たい手が中衣の襟から差し込まれ、背中の素肌に回される。
「ひぇっ……」
冷えた手が直接触れる感覚に鳥肌が立つも、嫌がらせではなく、温度を求めているだけと知っていれば邪険には出来ない。更に冷たい足先が脹ら脛に絡みつき、応星は体温を奪われていく感覚に身体を縮込めて耐えていたが、くつくつと笑う声に表情が険しくなる。
「おい、起きたならさっさと自分で暖まりに行け」
中々体温を上げられない丹楓のために焚かれているのだろう火鉢が寝所の中央に置いてあり、家人へ要求すれば即座に白湯くらいは用意されるだろう。
「其方の体温の方が心地好い」
丹楓が応星の体をきつく抱き寄せ、背中を撫でて足を絡めてくる。
「あーもー、俺で遊ぶなよ。擽ったい」
応星が丹楓の腕から抜け出そうと身を捩って抵抗すると、離すまいとして丹楓も拘束を強め衣服は乱れて白い肌が露わになる。
「応星……」
「うん?」
丹楓が眼を細め、応星に覆い被さりながら頬を撫でて微笑む。
「大きくなったな?」
「今言うか。短命種ではとっくに大人だと散々言ってきただろうが」
これほど間近で触って確認しなければ解らないものか。
不満げに文句を垂れていれば、丹楓は微笑むばかりで応星の眉間の皺が深くなる。
「酒だって散々一緒に呑んでるだろうに……、お前は子供と呑むのか?」
仙舟で、成長の遅い持明族を大子供と呼ぶ言葉があるように、子供の見目でも数百歳とする人間が当たり前として存在する。見た目だけでは年齢が知れず、大人と認められるためにはボランティア活動で働いた実績を作らねばならない長命種にとって、二十年程度で成人とする短命種は余程幼稚に見えているのだろう。と、応星は嘆息する。
「そう不機嫌になっても愛らしいだけだな」
「はいはい、龍尊様には短命種なんて幼子にしか見えとらんのだろうよ」
「余は、今直ぐ大人扱いをしてやっても一向に構わんのだがな」
「へー、そらありがとうございます」
指先で顎を擽ってくる丹楓を押し退け、応星が上体を起こすと大きく体を伸ばす。丹楓の大人扱いが何を意味するかは今一察せず、おざなりな返事を返してあしらうと丹楓は一つ呻ってみせた。
「それは是とする言葉で良いのだな?」
「なんだ勿体ぶって……」
応星に押し退けられ、寝台の上で胡座を掻いていた丹楓が笑みを深くしながら首を傾げ、唇に指を当てる。それは悪巧みをしている際の表情に酷似しており、応星は己の失言を恨む。彼の大人扱いが、予想もつかないような要求であればどうすればいいのか。
「まだ子供でいいです」
丹楓がそんな無理強いをしてくるとは考えられなかったが、一度の戯れでも選択を誤れば双方にとって宜しくない展開になる。故に、応星は今の居心地がいい関係を維持したい思いから子供扱いを享受する方向を選んでしまった。
「意気地なしめ」
「ふん、そんな挑発には乗らんぞ」
べ。と、舌を出し、軽口を叩き合うも、応星は失う事を恐れている。
彼の年齢がまだ一桁であった時分、故郷も、家族、何もかもを一度に失った経験に起因する心的外傷のためだ。弱点と成り得るものとして常日頃から隠してはいるが、傍らにある唯一の存在を失いたくない臆病さは人一倍である。
「大人扱いをして欲しくなったら、いつでも言え」
「当分いいかな……。あ、俺の服は……?」
寝癖のついた髪を手櫛で整えながら、一人の人間として一人前と肯定して欲しくも、今が心地好い自己矛盾をどう整理するか悩んでいた応星だが、今更ながら着る物が無い事に気がついた。
「昨夜、其方が着ていた物は洗うように伝え置いたが、乾いておるかは判らんぞ?」
「構わんさ。濡れていたところで、炉の傍に居れば寒くもないし勝手に乾く」
「濡れた物を着て病でも招いたらどうする。余の装束を着ていけ」
剛胆と言えば聞こえは良いが、どうにも自分に頓着しない応星に呆れた丹楓が提案するも、
「嫌だよ。知ってるか?お前の信者って目聡い上に場所や状況も弁えられないんだ」
応星は肩を竦めて見せ、丹楓の顔を覗き込む。
いつかの戦場に於いて、後方支援に従事する職人や補給部隊を駐屯させる陣が歩離人によって奇襲を受け、最後まで応戦しようとした応星が囲まれ大怪我をした。幸い、丹楓が駆けつけてくれたため陣の守護は為し得たものの、応星の身は歩離人の爪によってずたずたに裂かれ、見るも無残な有様だったが故に丹楓が自ら治療を施し、常に身につけている鶴が描かれた上衣を羽織らせてくれた。
穢れない白い装束が応星の血を吸って赤く染まり、それが、丹楓を崇拝する者には神をも穢す行いに見えたのだろう。丹楓がその場を離れた後、それはそれは罵詈雑言を受けた。短命種の分際で龍尊の装束を纏い穢すなど不敬千万。何が親友だ、貴様が百冶でなければ丹楓様は見向きもされないのだ。利用価値があるから側に置いてらっしゃるのだ。己如きがあの方と同等など勘違いも甚だしい。等々。
最終的に丹楓に助けられたにしても、陣を守り抜いた人間に対して随分な言いようだった。
応星が陣を守りきれていなければ、攻撃の要である丹楓の陣が挟撃され、相当な打撃を受けていたはずで、罵詈雑言よりも感謝や賛辞を受けるに相応しい行いをしたのだが、失血で今にも気を飛ばしそうな人間に汚らしい言葉と唾を飛ばす愚鈍の輩は果たして何をしたのか。安全な場所から丹楓の後追いをしているだけではないのか。
うんざりした応星は、ふらつきながらも立ち上がると煩い男の頭を掴み、持てる全力を以て地面に叩きつけた。よもや瀕死の応星が反撃をするなど微塵も想定していなかったのだろう男は咄嗟の防御もままならず、硬い地面で顔面を強打してあっさり気絶した。
応星は一つだけ長く息を吐き、しん。と、静まり返った中でそのまま倒れてしまったため、その後は知れないが、陣に復帰した際、随分と周囲がよそよそしくなったのだ。あんな面倒は二度とごめん蒙りたいものである。
「お前の信奉者を一人一人管理しろとは言わん。だがな、避けられるものは避けた方が楽だろう?」
ふむ。と、丹楓は一つ呻り、応星を抱き寄せると首筋に顔を埋め、肌に強く吸い付いた。
「はっ⁉」
応星が丹楓を押し退けようとするも、力強い腕の拘束は外れず、もう一度吸い付かれる。
「なんだよ!気持ち悪い!おい、丹楓⁉」
丹楓の背中を叩きながら応星が暴言を吐くとようやっと解放され、彼はやり遂げたとばかりに鼻を鳴らす。
「行っても良いぞ」
「なんだよぉ……」
友人の奇行に朝から体力を消耗した応星は、ぐったりと項垂れながら丹楓の寝所を出る。
入り口に控えていた家人に服の所在を聞けば、まだ乾燥室に吊るされているそうで、先程、宣言したとおり、乾いてなくとも構わない旨を伝えて着替えた。
応星が適当に髪を纏め、寝所に戻ると丹楓は龍尊として威厳のある装束を家人に纏わせられている最中だった。
基本的に、丹楓は自身の世話に指一本の労力も使わない。着替えも突っ立っているだけである。すると、己に対して世話を焼いてくれる事実が無意識に口角を上げそうになり、昨夜の感謝を告げて機嫌良く外へ出た。
「あ……」
道すがら応星は声を上げ、昼間だけ管理を頼んでいる通いの家人が家の惨状に驚いてしまうだろう事に思い至り、慌てて自宅に向かえば果たして玄関の前で雲騎軍の兵士に止められて戸惑っている女性が居た。
「あれ、旦那様、これは一体……」
女性は困り果てた様子で、応星の顔を見るなり胸に手を当てて安堵したようだった。
「お早う。昨日、泥棒が入ってさ。だから、良かったら暫く休んでて下さい。お給金はいつも通り支払いします」
「宜しいんですか?」
「ちっとも帰らない俺の代わりに管理してくれてるんだから当然ですよ」
応星は女性の背を押し、帰るように促すと工房へと向かい、同僚に適当に挨拶をしながら倉庫へと素材の確認に行く。
十王使からの依頼で作る新たな金人の試作に応星は心を躍らせる。巨大な金人・門番のように丈夫で力強いだけではなく、関節を柔軟にした女性型で軽やかに動く機巧。武器も棍棒ではなく、優美さも兼ね備えたような物が良いとして鉄扇にした。名前は何にしようか。今から子が生まれるが如き浮かれようで応星は必要な素材を選別して運んでいく。
応星の身近に居る女性と言えば白珠と鏡流。
彼女達が戦場に立つ勇姿を思い浮かべ、素材を混ぜ合わせるために人の背ほどもある溶解炉へと放り込み、強く美しい機巧になるよう願いを込めつつ鼻歌を歌いながら専用の棒で掻き回す。
「随分と機嫌がいいな」
以前、応星に食事を買ってきてくれた持明族の男が話しかけてきた。
また嫌味か。と、身構えはしたが、買ってきたばかりだろう湯気を立てる点心を渡してくれた。
「朝ご飯は食べたのか?」
「あー、忘れてたな」
丹鼎司を出て慌てて自宅へと向かい、真っ直ぐ工房へと向かったため軽食を買う事すら忘れていた事に気づき、点心の香りに触発されたか、思い出したように応星の腹が小さく音を立てた。
先日貰った物も問題はなかった。しかし、腹下し程度ならまだ良いが、倒れかねないような変な物が入っていたら。そんな懸念はあったが、食べるまで待っているつもりなのか、男が動かないため迷いながらも応星は口をつけた。
「盗みに入られたんだって?工房はその噂で持ち切りだ」
応星が点心を呑み込むや、男は野次馬のように腕を組んで身を乗り出す。
気高い龍の血族である持明も、俗世と交われば下品な事に興味を持つようになるものか。点心は子細を訊くための賄賂だったようだ。
「殆ど帰らないから貴重品も置いてないし、そもそも何一つ盗られてないからな、憐れ空き巣の仕事は徒労に終わった訳だ」
応星が肩を竦め、片方だけ唇を歪めて戯ければ、納得いかなかったのか男は真っ直ぐに見詰めてくる。
「では、片付ける労力が増えただけか」
「そうなる。俺にとっては面倒ごとが増えただけだな」
「ふぅん、日誌なんかは隠していたのか?」
「日誌?そういった物は工房の自室に置いてるから、得に隠したりはしてないな?どうせ碌に帰ってないのに、家に置いておく理由がないだろう?」
百冶の物ともなれば、設計図や整備記録、覚え書きも金になると考えたのだろうか。
門外不出の大事な設計図は金人・門番を繰り出そうと早々には破壊出来ない工房の大金庫へと収めてあり、一般流通しているような物に手を加えただけの簡易設計図は誰でも見られるよう作業室に山積みになっている。特別隠すような物は持ち合わせていないつもりだが、何を知りたいのか。
「そうか、まぁ、気をつけろよ」
思ったよりつまらない回答だったのか、男はあっさりと切り上げて己の作業に戻っていった。
応星も、小腹が満たされただけで終わった事に息を吐くと作業を再開する。完成を心待ちにしながらの作業は楽しく、金属を叩く手も止まらず深夜まで工房に響いていた。
▇◇ー◈ー◇▇
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