▇◇ー◈ー◇▇
「飲月君へ火急の用がございます。お通し下さい」
龍尊が住まう宮へと白珠は向かい、門を叩いて出て来た家人へ、礼を損なわないようにしながらも威圧的に宣う。
普段が誰にでも優しく、慈愛に満ちた白珠であるが、彼女も戦場では星槎を繰り、生半可な者では引く事すら叶わない強弓を以て一度に3本の矢をつがえ、忌み物を射抜く歴とした武将である。
覇気を込めた言葉に持明の家人は竦み上がり、狼狽えながらではあるが即時、奥へと走った。家人の後を追うように白珠は悠然と歩を進め、軽く息を切らした家人が通った扉を通過して無遠慮に中へ侵入する。
冷静になれば、あまりにも無礼な来訪。
だが、納得のいく答え欲しさに白珠は押しかけてしまった。
必死になれば周りが見えなくなり、愚直に突き進んでしまうのは彼女の美点であり、また悪癖でもあった。
「火急の用とは如何なるものだ」
飲月君、丹楓が巻物を広げ、書物をしながら白珠と対する。
長の飲月君として、雲騎軍の将として、丹鼎司の医師として、立場上、忙しいとは知っていたが夜になっても仕事をしているとは応星と変わらない。
一つ違う事は、好き好んでやってはいない点だ。
「火急は方便ですが……、お忙しいようなので、単刀直入に訊ねます。貴方は応星をどうしたいのですか?」
「どう、とは?」
書物をしていた手が止まり、伏せられていた視線が白珠へと向けられる。
「以前から過保護だとは感じていましたが、貴方の応星への態度はまるで情人そのもので、友にしてはあまりにも過剰です」
「過剰だと、なんぞ問題でもあるのか?」
丹楓が目を細め、片眉を上げて皮肉げな薄笑いを浮かべた。
対して、白珠は生唾を呑みながらも反抗するように胸を張って睨み返す。
「ありますとも。もしも、応星が貴方以外を選んだら、素直に手放す覚悟はお有りでしょうね?」
滅多に表情を動かさない丹楓が、敢えて表情を作るは獣が牙を向く威嚇にも似ている。信を置いている筈の白珠へも、応星の名を出せば、さも逆鱗に触れられたが如く神経を張り詰めさせ、感情を昂ぶらせるのだから問いへの答えなど既に吐いているも同然だった。
「威圧したって、あたしは引きませんからね。大体、そんなに大事なら、なんで応星が金華猫なんて呼ばれて嫌がらせされてるのに気付かないんですか⁉」
「なんだそれは……」
丹楓の声色が更に低く地を這い、青白い龍気が立ち上り、室内の灯火が風もなく揺れて影を躍らせる。睨み合いの短時間の間にも空気が乾燥し、肌がひりひりと乾いていくような感覚に襲われた。
「男性同士の方が話し易い事もあるでしょうし、詳しくは景元に聞いて欲しいんですが……」
感情を優先して家に押しかけ、ほとんど八つ当たりのようになってしまった己を顧みて反省はするが最早後には引けず、鏡流から聞いた話、自身が見た応星への顕著な加害の事実を伝える。
姿絵の流行に関しては丹楓と応星が発端であり、春画による被害も龍尊である彼の耳にも入っているだろうに行動を起こしてはいない。
最初こそ『一過性の流行』『たかが絵』として看過していたものかと考えていたが龍師等が握り潰し、近侍が敢えて伝えていない可能性を話しながら思い至った。
応星も耐えてしまう性格から己への加害を話したがらないと白珠は知っている。下から報告が上がらなければ、秘められた全てを丹楓が知る事も難しい。
「ご存じでしたか?」
「いや……」
龍尊としての彼を取り巻く複雑な状況に白珠は大声で吠え立てたい心地になったが、気持ちを落ち着かせようと自らの大きな耳を何度か撫で、丹楓は鼻にまで皺を寄せ随分と気色ばんでいるようだった。
「いいですか、想像してみて下さいね。まだ少ないかも知れませんが、あの厳格で潔癖な鏡流がそんな目に遭ってるんですよ?」
白珠は何度か深呼吸すると、一息に言葉を吐き出す。
五騎士を描いた春画が少ないかどうかは景元のように調査していない白珠には断言出来ないが、ちら。と、頭に浮かんだ丹楓と応星が絡んだ春画もどきがあれ一枚だけとは考え辛く、応星の淫らな絵も或いは。と、考えた。
「応星だって、春画みたいな絵を描かれるかもしれないんですよ!いえ、寧ろ既にあるかも知れません⁉いいですか、これ等は貴方の軽率な行動が招いているんですよ」
まるで戦場での大音声のように白珠は手を振り翳して机を叩く。と、同時に丹楓の手に合った筆がへし折られ、音もなく立ち上がる。
「仕事はいいんですか?」
「どうせやってもやっても終わらんのだ、後回しでも構わん。景元の邸宅へ向かうぞ」
やらなければならないが、急ぎではない仕事を始末していただけと語りながら足早に歩いて行く丹楓に白珠は小走りについて行く。
「もう夜ですよ。景元は飲み助の貴方達と違って規則正しい子ですから、恐らく寝ていますが……」
「水に沈めても叩き起こす」
持明族の家人が慌てふためく姿を尻目に、巻き込んでしまった景元に心の中で謝罪しながら、後部座席で腕を組んだままふんぞり返っている龍尊を乗せて白珠は星槎を発進させる。
「落とすなよ」
「そんなに毎回落としてません!」
白珠が大嘘を吐きながら長楽天へと入り、星槎を置いて雲騎軍の将に宛がわれた邸宅へ向かうと丹楓が屋敷の門を蹴りつけ、罅が入った門は一対の片方が重々しい音を立てて倒れてしまった。
「何やってるんですかー⁉」
「火急の用だ」
突然の破壊音になんだなんだと兵士が飛び上がって集まり、丹楓の姿を見て息を呑む。
凡人の目に青火とも映る龍気を立ち上らせ、龍の尾は大きくゆったりと揺れているようで、落ち着きなく苛立たしげだ。
「飲月君、さま……、あの、なん騒ぎでございましょうか……」
顔まで覆う兜をつけているため、表情は知れないが、兵士の腰はすっかり引けており、籠もった声は震えて手に持つ槍も上下に揺れていた。完全に怯えきっている。
「丹楓、味方を怯えさせないで下さい。誤解を招きます。なんなら殴って上げますから、落ち着いて」
無駄な威圧を振り撒く丹楓の肩を白珠が掴み、冷静になるよう促すが返事はない。しかし、尾の動きが少しばかり小さくなる。
「景元に用がある。起こしてこい」
「それには及ばないよ……、流石に起きたから……」
夜着のまま陣刀を手に持った景元が寝起きの半眼で丹楓と白珠を睨んでいる。
腕を組んで睥睨している丹楓の後ろで、白珠が両手を合わせて深々と頭を下げ、巻き込んだ謝意を示しているが、どれだけ伝わっているものか、睡眠妨害をされて不機嫌を隠していない景元からは分からない。
事情を白珠から聞くと、景元は掠れた声で疲れたような返事と共に頷き、自らの執務室へ二人を案内する。
「えーっと……、応星のは、この辺……」
卒のない景元らしく書類や押収物はきちんと分けられているようで、腰ほどの高さがある棚の上に置かれた箱が叩いて示されれば、丹楓は何も言わずに開き、紙の詰まった中身を捲って視線を滑らせていく。
「あれを地衡司に頼まず、景元自ら確認しているのですか?」
「余人に見せるのも中々ね。だから私が処理しているよ」
「確かに景元だったら、少しマシな気分です……、他の人よりは……。でも、どうやって押収してるんですか?」
現在、明確には規制されてはおらず、犯罪でもないため押収するにも苦労するはずだった。だが、ここにこうして置いてあるからには、景元は仲間の春画を広めないよう相当な尽力をしている事になる。
「まぁ、人格権がどうとか、公序良俗に反するだの、迷惑防止条例に引っかかるとか、かなり無理矢理な理由をつけてやっているよ。愛好家には大分恨まれてるだろうが……、ま、切りが無いのだけどね。多少の抑止にはなっていると思うよ」
景元が眠気を払うように口元を手で隠しながら大きく欠伸し、涙の浮いた目を擦る。大分疲労が溜まっているようだった。
当然だ。隠れているものを調べて暴き、言いがかりにも成り得る苦しい理由で仲間の春画を押収し、確認する。相当な心労だろう。ただただ苦痛でしかない業務に白珠は目眩を起こしそうになり、応星の姿絵を見て額に青筋を浮かべている丹楓を眺める。
「結構、当てずっぽうで言ったのに応星の春画もあるんですね……」
「はは、数に差はあるけど全員分あるよ。流石に自分のは悪寒がして吐きそうになったけどね」
「それは……、お疲れ様といいますか……」
朗らかに笑いながら毒吐く景元に白珠の心臓がきゅっと痛み、なんとも言いようのない慰めしか出て来ない己が悲しくなってくる。
「早めにもっと強い規制をかけたいのだけど……。こんな時は、応星のせっかちさが羨ましくなるよ。全く……」
どれだけ上層部に上申しても思うように進まない話に景元は顎を撫でながら、疲れを吐き出すように短く嘆息した。景元としては早急な規制を進めたいが、問題にかかずらわない上層部はそれこそ『たかが絵』として重く受け止めていないのだ。若しくは、規制をさせたくない愛好者が居るものか。
「丹楓、何枚か懐に入れた物は戻してくれ」
「ちょっと貴方、怒ってたんじゃないんですか?」
「概ね腹立たしいが、何枚か愛らしい物があった」
丹楓が舌を打ちながら懐から畳まれた紙を出す。
全てが過激にも思えたが、箱に戻された際に見えた応星の絵は、見る物に微笑みかけながら髪を掻き上げるような淑やかな色気を醸し出すもので、それは龍尊様の憤怒ではなく琴線に引っかかったようだ。
「一応、全て証拠品だからね。横領は駄目だよ」
「これは、解決したら持ち主に返すのですか?」
「いや、こちらで処分するよ。ははは、実にいい火種になりそうだ。芋でも焼いてやろうかな」
景元の乾いた声。
絵を嗜む人間が聞いたら怒りそうな発言ではあるものの、これ以上は見るのも苦痛で、直ぐにでも処分してしまいたい気持ちで一杯なのだ。が、先の言葉通り証拠品であるため手が出せない。
心の衛生のために白珠は見ようとも思わないが、仲間と己の春画を見続けた景元は、この世に存在して欲しくないものは、『忌み物と己や仲間を描いた春画』今ならそう断言してしまいそうだった。
「現状は理解した。確かに不愉快だ」
何枚か持ち帰ろうとした癖に。
折角、やる気になっているようなので、白珠は指摘を避けて横目で景元を見やる。
「龍尊様からの後押しがあれば、少しは話も進み易くなるから助かるよ。こんなに話が早いなら、さっさと見せれば良かった」
景元は、ここぞと丹楓を利用して規制を早める腹積もりである。
「なんで見せなかったんですか?」
「万が一、丹楓が怒りから力を暴走させて街の一部でも水没させたら、取り返しが付かない……」
鏡流は人に厳しいが、己にこそ、より厳しい人間だ。
そして、弟子でもある景元の前で醜態を晒すような真似はしない信頼がある。
丹楓も常なれば公私混同はなく、冷静で無感情にすら見える人物だが、だからこそ予想が付かない。発言権の強い丹楓を問題に引き込みたいが、滅多に怒りを露わにしない人物が感情を爆発させたらどうなるのか。二の足を踏んでいた景元の懸念も解らなくはなかった。
「流石に、民を傷つけるような真似はしないと思いますが……、丹楓は応星の事となると箍が外れ易いですしね」
「あぁ、だから私から直接伝えるのは避けた」
応星に対する過保護を思えば。と、白珠は何気なく零しただけだが、景元の言葉に疑問を感じて見上げると、深い微笑みを返された。何やら満足気だ。
「あたし、もしかして利用されましたか?」
「ご想像にお任せするよ」
どうやら、景元の掌で上手い具合に転がされていたと気付いた白珠は、得意げな彼の頭を小突いてやろうとしたが、ここ数年で応星よりも幾分高くなった彼の頭には届かず、大きな手に拳を阻まれて頬を膨らませた。
「景元、こちらへ。対策を練るぞ」
「龍尊様の仰せのままに」
丹楓が二人のじゃれ合いを制し、そこらの木箱に座って考え込んでいる。
描かれた本人が『不快』は重要な要素であるが、民間の私的な活動に介入し、規制を進める理由としては弱く、具体的にどのような被害、損害が出ているかを理路整然と説かなければならない。
市場に活気が出て観光客、民間人が消費すれば経済的な利益が出る。
それは即ち、税収が良くなる事に繋がる。上層部が景元をのらりくらりと躱している理由の一つに、経済の活性化もあり、相手を納得させるには強力な後押しと交渉術が必要になるだろう。
正に丹楓と景元の得意分野となる。
「それに関しては、あたしはお役に立てそうにありませんから、お暇します」
「あぁ、解決するまで出来るだけ応星と一緒に居てくれ」
「応星と、ですか?」
景元からの頼まれ事に白珠が首を傾げれば、
「師匠は剣首、私は雲騎軍の将、丹楓は龍尊で各々実権があり、武力に優れている。だが、君は強肩を持つとは言え操舵手であり、応星は師匠から剣を学んでるとは言え職人だ。もしも、姿絵に触発されて不埒な行為に及ぼうとする人間が居たら、暴力を以て狙われ易いのは君か応星だ」
この言葉に、ぞぞ。と、白珠の背筋へ悪寒が走り、己の体を抱き締めた瞬間、空気に小さな雷が弾けた。そこで、またしても丹楓へ湾曲に伝えるための緩衝材にされた事を悟る。
「景元、今度、ご飯奢って貰いますよ」
「了解」
掌で転がされる憤懣を露わにした要求に景元は片手を上げて了承し、白珠は空気に電気が散って毛が逆立ち、肌が痛む空間から逃げ出した。
▇◇ー◈ー◇▇
「応星、お変わりありませんか?」
「ないよー」
工房の一角で、刃を研ぐ応星の隣に紙袋を抱えてしゃがみ込み、おざなりな返事をする彼を微笑みながら白珠は眺める。時間を決めず、定期的に工房を訪問する事で悪意を持った人間への牽制になるかと思い、白珠は時間が空けば工造司へ赴いていた。
それが功を奏したか、今の所、目に見える被害には遭っていない。
「最近、良く来るけど何かあったのか?」
白珠へは目を向けず、研いだ刃を真っ直ぐに持って片目を閉じながら確認しつつ疑問を口にする。
「応星がご飯食べてるか心配なだけですよ。実際、今日もご飯を食べずに残業してるじゃないですか」
「これが終わったら行くつもりだったよ……」
ちら。と、横目で見ながら言い訳がましく言うが、この作業自体がいつ終わるのやら。白珠は困ったように微笑みながら、応星の好物である肉まんと串焼きを手近な机の上に置いておく。
「食は全ての基本ですからね。きちんと食べないと、作業だって捗らないし頭だって動きませんよ」
「それは判ってるんだけど、ついなぁ……」
まだ納得いかなかったのか研ぎを再開し、応星は無言になる。
目は真剣そのもので、今声をかけても聞こえていないか、良くて生返事が返ってくるだけだろう。
人よりも酷使される白い手は皹、火傷、切り傷、胼胝だらけ。
直近の傷は丹楓が治していると考えられるため、手にある傷跡の多くは朱明に居た幼少期についたものなのだろう。
手の酷使は職人なれば珍しくもなく、応星のそれを誰かと比べる必要性はない。それを言い出せば、白珠も今のように弓を思いのままに繰れるようになるまで何度、弦を弾き、皮膚が破け、手を血に染めたか解らない。
努力や愛、情熱等々目に見えない物を誇り、他者と比べるのは愚の骨頂。どのような経過を経たとて結果が出せなければ意味はなし。とは彼の主張である。
試行錯誤の経過が全く評価の材料にならないと立場的にも、種族的にもそうならざるを得ない悲しい結論ではあるが、概ね正しい。
そして、必ず結果を出してきたが故に『百冶』の名を得た。
「応星、そろそろお暇しますね?」
声をかけても案の定聞こえていないようで、白珠は立ち上がると邪魔をしないよう静かに工房を去る。
入り口から出た所で、入れ替わりに朱い工造司の制服を着た二人の男と擦れ違い、十歩ほど歩いてから振り返る。擦れ違った二人に引っ掛かるものがあったのだ。
狐族は直感力に優れており、商売が得意と言われている。
残念ながら白珠に商売をする才能は無かったが、その直感力は危機を乗り越えるため大いに活躍している。現在、この細やでも鳴った警鐘を無視せず、白珠は踵を返して工房へと足早に戻れば中から激しい衝突音が響き、次々に陶器が割れ、金属同士がぶつかる硬質な音をがなり立てていた。
「応星⁉」
白珠が名を呼びながら研場へと入れば、顔から血を流しながらも既に二人の男を下した応星が立っていた。手には武器を持っているが刃は返しており、峰で打ち倒したのだろう。
「白珠……」
何故か戸惑っている応星を余所に、昏倒している二人を警戒しながら白珠は彼を庇うように前に立ち、しげしげと暴漢の顔や手を観察する。
少なくとも彼女にとっては顔に見覚えがなく、制服が真新しい上に手も傷、汚れ一つも無く、擦れ違った際に抱いた違和感の正体を悟る。何故、もっと速い判断が出来なかった。しっかりと応星を護れていたつもりだった。つもりでしかなかった。
白珠は奥歯を噛み締め、後悔は後回しにして応星へと向き直る。
「応星、傷を見せて下さい!」
「皮を切られただけだ。問題ない」
「しかし……」
二人が問答をしていれば隙と見たか男は懐から匕首を取り出して応星を刺そうとするも、次の瞬間には白珠を庇った応星に手首ごと武器を蹴り飛ばされ、返す動作で頭頂部を踵で蹴り抜かれ、今度こそ完全に意識を飛ばした。
「応星、大人しくして下さい!貴方は怪我してるんですよ!」
「大袈裟だな、大した事ないって」
怪我をしている応星が白珠よりも余程冷静で、顔から流れる血を袖で拭い、軽傷だと嘯く。
だが、多少拭った所で次々と溢れてくる血は止まりもせず、着ている服までも赤く染めていると言うのに、応星はへらへらと何でも無いように笑う。
「大丈夫な訳ないでしょう⁉」
「どうされました⁉」
近くを歩哨をしていた雲騎軍の兵士が騒ぎを聞きつけ、血のついた武器を持って倒れている暴漢と血を流す被害者、慌てる身内に驚いて直ぐ様、仲間に連絡を取り、応星の工房は瞬く間に野次馬と鎧を着た厳めしい人間で埋め尽くされ、大騒ぎとなる。
「応星、傷を見せて下さい、止血剤持ってきましたから!」
応星は床に座り込んだ状態で苦笑しながら顔に血塗れの布を当てて隠してはいるものの、額から頬にかけて右斜め方向に大きな傷が走っている。
手当を申し出る兵士の気遣いにも首を振り、白珠へも頑なに大事ないとは断ってはいるが、どう見ても傷は深く肉まで達しており、血も止まらずにじわじわと応星の命を削っている。心配させたくないあまりの頑固さなのか、弱みを見せられない性格故か。
「いいから手当てさせて下さい!我慢も程々にしないと怒りますよ⁉」
何故もっと自身を大事にしてくれないのか。
もっと頼ってくれないのか。
白珠は怒りと悲しみで蕪雑になった心のままに怒鳴ってしまい、目には涙が浮いている。
「わ、わかった……」
一瞬だけ肩を跳ねさせ、もう怒ってるじゃないか。などの軽口は叩けず、応星は布を顔から外すと直ぐに傷から血液が膨れ上がり、球体の形状を保てなくなると重力に従って皮膚を伝い出す。
「一体、どこが大丈夫なんですか……」
止血用の軟膏を手に掬い、白珠は丁寧に傷を覆っていく。
飽くまでこの場で出来る応急処置でしかないが、血が流れ続けるよりは良いだろう。
「いや、手が無事ならどうでもいいしさ……」
いつでも明るく笑顔を絶やさない白珠が怒鳴った事が怖かったのか、応星がどこか言い訳がましくぼそぼそと理由を口にした。
通常であれば攻撃を受ける直前、人間は自己防衛を本能的に行う。
例えば眼球を護るために目を閉じる。腕を上げて弱点である頭を咄嗟に護ろうとするものであるが、応星の前腕に防御創はない。研ぎに集中していた応星は不意を突かれ、襲撃を受けても顔より腕が傷つく事を恐れて庇わなかったのだ。
目が傷つけば視力を失うかもしれない。頭を突かれれば脳の損傷により絶命もあり得る。知らない筈もない。それでも、応星は己の腕を死守する選択をした。豊穣の滅亡を目的とする彼の悲願のため決して失くしてはならないものだ。
何とも驚嘆する意志の強さである。
「他に怪我は?」
「直ぐに反撃したからないよ。だから仕事に戻ってもいいか?やる事がいっぱいあって……」
「丹鼎司に連行するに決まってるじゃないですか」
短命種である応星の身に、鏡流の行う指導は過酷すぎるのでは。そう懸念した記憶もあるが、身を護る術として役立っている様子に安堵感は増す。が、襲われて怪我をした直後で仕事に戻ろうとする姿勢はいっそ狂人そのものだ。
白珠の『丹鼎司』の科白に、応星は嫌そうに笑う。
主として鎮座している存在を思い浮かべるが故に。
大丈夫。放っておけば治る。を繰り返して動こうとしない応星を、兵士に協力して貰い強制的に星槎に乗せようか白珠が逡巡していれば、慌ただしい足音が駆け込んでくる。
「応星、白珠⁉」
足音の主は景元であり、血塗れの応星を見て、一瞬だけ言葉を詰まらせていたものの、大きく息を吸うと職務を思い出したかのように傍らに膝をつく。
「犯人は捕まったんだから君への事情聴取は後回しでもいいはずだ。直ぐに丹鼎司まで星槎を飛ばす」
「お前も白珠も慌てすぎだ。このくらいなんて事ないと……」
「痛むだろう?治療する理由はそれだけで十分だ」
景元が断ずる科白に白珠も頷き、応星は強制的に肩に担がれ、丹鼎司に連れ去られてしまうのだった。
▇◇ー◈ー◇▇
場所は変わって丹鼎司の一角にある丹楓の丹薬研究室。
仁王立ちをする丹楓の前に据えられた応星は丸椅子に座りながら上目遣いで曖昧な微笑みを浮かべている。
「治療を拒否していたそうだが、その心は如何なるものか?」
「絶対、休めって言うだろ……?」
丁寧な傷の治療と診察を受けた後の詰問に、暴漢と対峙した時よりも落ち着かない心境で応星は自身の両手を摺り合わせ、指を弄り回して部屋の扉を顧みるが、そこに景元や白珠の姿はなく、珍しく怒りを露わにしている丹楓を宥めてくれる仲介人は不在である。とは言え、丹鼎司に連れてきた時点で意固地に助けを求めようとしなかった彼の味方をする二人ではないのだが。
現に、廊下では休ませている間、応星にどうやって護衛を付ける事を承諾させるかを景元と白珠は話し合っている。
「当然だ。傷は其方が思っているよりも深い。出血も多く、鼻腔にも血が溜まって苦しいはずだ。余の術で傷の修復は可能でも失ったものまでは戻らぬ。血を増やす食事を重点的に接種する事と、数日は安静にせねばならん」
「駄目だ。俺はやらなきゃいけない事が山のようにあるんだから、怠けてる暇なんぞない……、もう痛くないから大丈夫だ。仕事に戻らせてくれ」
問答は平行線を辿り、人を頼らない、頼れない頑なな応星に丹楓は口惜しい心地となる。
「回復に必要な休養を怠けと取るか……、応星、職人でない己に価値がないと考えているのなら、思い違いも甚だしいぞ」
厳しい科白に丹楓を見上げる応星の肩が揺れ、唇を引き締め、生唾を呑み込む様子から緊張が窺えた。
「良いか?其方が造る武器は唯一だが、其方自身も唯一のものだ。其方は己を蔑ろにしすぎだ。余は其方を失いたくはない」
「でも、俺はっ……!」
「いいから休め。余が許可するまで部屋から出る事はまかりならぬ、今より其方の仕事は休養に専念する事だ」
丹楓の願いを聞いても尚、反発しようとする応星へ致し方なし。と、強硬措置をとり、先の景元と同様、強引に応星を横抱きにすると廊下へ向かって歩き出す。
一方的な言い分に納得しない応星は暴れて逃れようとするも、丹楓の腕が、龍の尾が彼の体を縛り付けて離そうとはしない。
「余り暴れると気絶させるぞ」
「いたっ⁉」
丹楓が指先に厳つ霊を集め、実に小さな、静電気程度のものを首筋に当てれば応星の動きは止まり、代わりに威嚇の声を上げる。
「疲労は何も生まん。休むのも仕事だ」
「わかったよ……」
あまりにも不承不承で不貞腐れた。そう表現するに相応しい小さな声で応星は大人しくはなったが、小さなくしゃみとともに出た鼻血を袖で擦ると、丹楓の肩にもたれながらも落ち着かず、自らの指を撫で、擦り合わせる動作から、手を離せば直ぐに工房に戻ってしまう心境がありありと現れていた。
工房に籠もる応星は常に何かに追い立てられるように奇物を作り続けている。
飲食を忘れ、睡眠も限界まで削り、手や衣服を墨や金属粉で黒く汚し、『やるべき事』に向き合う異常にも見える執着であるが、彼のような人間は少なくない。
多くの死に直面する災禍に見舞われた者が独り生き残った事によって死した者へ罪悪感を抱き、ありもしない罪を贖うために己を苦境に置く事は有り勝ちで、豊穣の民に故郷を滅ぼされ、独り仙舟へ来た経緯を思えば彼が生き急ぐ原因は明らかであった。
なればこそ、心安らかになる場所を与えたいと丹楓は願うが、どれほど尽力しても応星の心に巣食う罪悪感は消えるどころか焦燥感と共に増していき、想う心は空回りばかりしていた。
「丹楓、応星をどこに連れて行くんだい?」
手が塞がっているため、丹楓が雑に引き戸を足で開ければ待機していた景元が問う。
「余の宮に連れて行く。持明の侍従であれば此奴の言う事など聞かぬからな」
長老たる龍師ならばいざ知らず、龍尊に仕える持明族の者にとっては丹楓の言葉は絶対なのだ。応星がどれほどごねようと、帰ろうとしても帰して良し。との命令がない限り、愚直に従い続けるのだから、応星を捕らえておくにこれほど最適な牢獄もない。
万が一、言葉でも、物理的にでも応星へ牙を向ける者が在らば丹楓の逆鱗に触れる事実は、『既に』周知済みで在る為、下らぬ狼藉を働く心配も無いのだ。
「では、俺は暫く軟禁生活か……」
「そうだ。軽々に逃げられるとは思わぬ事だ。しかと休養に専念するが良い」
応星は苦々しく顔を歪める。
白珠と景元は、そうでもしなければこの匠が大人しくする筈もなく、下手に護衛を付けた挙げ句、口八丁で丸め込まれて懐柔される可能性を考えれば、丹楓の行動が最適解であると納得せざるを得ずに見送る。
「丹楓なら、まぁ、安心ですが……」
「そうだね……」
白珠がぶつぶつ文句を言う応星をいなしながら連れ去る丹楓の背を眺め、後をついていく。
景元にどこか不服な様子が見えたが、直ぐに表情を雲騎驍衛である自身に切り替えていたため言及はしなかった。
「りゅ、驍衛様……!」
外で待機していた雲騎軍の兵士が一度、丹楓に向けた視線を景元へと戻し、かしづいて頭を下げた。丹楓が兵士を一瞥もせずに星槎に向かったせいだ。
「何か進展でもあったか?」
「百冶様を襲撃した暴漢は『自分達は雇われただけだ』と繰り返しておりまして、現在、兵の多くは首謀者の捜索に当たっております」
「誰が指示したかは解っているのかい?」
兵士は一度肯定したものの、いえ。と、直ぐ様否定した。
「指示した者は直ぐに捕らえました。しかし、その者も『自分は頼まれて人を雇っただけだ』との供述をしておりまして……」
応星を狙った首謀者は随分と用心深いようで、指示された者、指示をした者も詳細を知らぬと語る。深掘りしていけば鬼が出るか蛇が出るか。そんな懸念を抱かせるが、何よりも敬愛し、大事な朋友を屠ろうとした加害者を慮る必要も無いとして、景元は続き指示を出した者の捜索を命じた。
深々と頭を下げ、駆ける兵士を見送った景元は、常の朗らかな笑みを浮かべている彼からは想像が付かないほど苦渋に満ちた様相であった。
「景元?」
「あ、あぁ?なんだい?」
白珠が声をかければ取り繕うように微笑んだ景元の頭を撫で、
「貴方も、自分を責めないで下さい。解ってたのに後手に回ってしまったのが悔しいんでしょうが、結果的に応星は無事です」
そう言って慰め、安心させるように両の肩を叩く。
「ふ、はは……、白珠には敵わないなぁ」
景元は眉を下げ、あっさりと看破されてしまった心を恥じ入るように頬を朱に染めて頭を掻く。彼はそこらの大人など凌駕し、捻じ伏せるほどに賢い神童ではあるが、決して神ではない。全てを予見して独りで防ぐなど不可能だ。
「あたし達を一杯頼って下さい。自分で全部何とかしようとしちゃ駄目です。ほら、貴方が良く参考にしている兵法も、人を如何に上手く使うかって事ばかり書いてるじゃないですか。冷静になって、そうじゃないと賢い頭も回りませんよ」
生真面目で穏やかかと思えば応星と互いの意見をぶつけて言い合いをするほど負けず嫌いで直情な性格を持つ景元が暴走しないよう年長者として、五騎士の中では末っ子とも言える彼の乱れた心を整えられるよう誘導してやる。
「応星の身の回りは大丈夫です。龍の宮へ侵入するような輩は間違いなく丹楓が見逃しません。だから、あたし達はやれる事をやりましょう。着実に首謀者を追い詰めるんです」
豊穣を追う巡狩の猟犬としての仙舟の気質を煽りながら強かに白珠は笑い、景元も真剣な眼差しで頷く。
「あぁ、どんな理由かは知れないが、応星を狙った事を心の底から後悔させてやるとしよう」
「その意気です!」
ぴん。と、狐族特有の耳を立て、尻尾を振り回しながら白珠は諸手を天へ掲げ、己も心が怒りに支配されないよう尽力しながらも闘志を燃やしていた。
▇◇ー◈ー◇▇
「君も、指示されたと言うんだね?」
罪を犯した囚人を幽閉する幽囚獄にて、景元は跪く殊俗の民を見下ろしながら詰問する。
応星が襲撃されてから数日の間に暴行犯を、更にその人間に指示をした者を捕らえはしたが、彼は懸命に頼まれた手紙を運んだだけだ。と、主張し、手紙の内容など知らず、依頼金も破格であったため目先の金に眼が眩んだのだと平身低頭、涙ながらに罪の軽減を懇願する。
「俺も、頑張れば百冶様みたいに成れるって思って……けど、上手くいかなくて、資金繰りにも困ってたからつい……。あの方の御身を傷つけるような計画に加担してるとは知らなかったんです!どうか、ご慈悲を……!」
仙舟に夢を見てやって来た殊俗の民は長命種からの差別感情に晒されながら学ぶための時間があまりにも足りない現状を嘆き、必要なものだけを取得した末に出て行ってしまう事が通例だった。
だが、応星が百冶の称号を得てから、幾許か風潮が変わった。短命種でありながら文字通り死に物狂いで学んだ末に己の才を開花させ、命を削りながら腕一つでのし上がった彼に憧れを抱き、留学してくる者も増えた。が、応星が様々な意味で特殊なのだと夢見る者は知らない。
応星には帰る場所などはなく、昏く身を灼くような執念で短命種の身でありながら百冶の称号を得た事実はあるものの、結局、仙舟は有用な彼を繋ぐ首輪として名を与えただけであり、頭目としての実権などは皆無。名ばかりの長となった所で蔑む輩は後を絶たず、足を引っ張ろうとする存在は魑魅魍魎の如く存在する。
応星が、無駄な行いとして余人に感情を向けず、制作に没頭しているため関係が遠い者には悪意が見え辛いだけなのだ。今も昔も、憧れのみでやって来た者は打ちのめされてしまう現実に変わりはない。
ある種、目の前に在る殊俗の民も、証言が真実であれば巻き込まれた被害者と言えるが、犯罪に加担した事実は変わらない。
「君の言い分は解ったから、その手紙を持ってきた人間の特徴を教えてくれるかい?」
正直な話、景元にとって彼の事情などはどうでも良く、下らない言い訳を重ねる愚鈍さに苛ついている。言葉遣いこそ丁寧さを保っているが、声は低く、太陽を填め込んだような金色の眼は冷たく鋭い刃と成って目の前の人間を見据えるばかり。
「えっと、狐族……の、女だったと思います」
「思います。とは断言できないような雰囲気だったのかな?」
「は、はぁ、豪い別嬪でした。化粧も濃くて、声は低かったような?狐族の耳も確かにあったんですが、作り物のようにも見えて断言出来るかと言えばちょっと……」
単純な仕事で貰える破格の金に眼が眩んだ挙げ句、依頼人をよくよく見てもおらず、変装を重ねていたようにも聞こえる証言に景元は指先で顎を撫でた。
一端の職人としての彼を信用するならば狐族の特徴は当てにならず、逆に用意周到な犯罪者で在るならば、敢えてそう見せていた可能性も否定できない。これでは種族も解らなければ、性別すら不明である。
「他に気付いた事はあるかな?」
「わかりません……」
「では、他に思い出した事が在れば、警護の兵に申し出てくれ」
完全に俯いて黙り込んでしまった彼に用はなく、景元は踵を返して幽囚獄を後にし、目的地へと向かいがてら見回りの一環として長楽天の市場へと足を伸ばした。
取り締まりの甲斐もあり、目立った春画は鳴りを潜めているが油断はならず、景元は目立たない程度に全体を見回しながら歩いて行く。
視線の先に、慌てて隠れるような動作をした者が在ったため、真っ直ぐに向かっていけば一度取り締まり対象となった露店の店主であり、景元を見て笑顔を作ろうとはしていても、あからさまに引き攣って歪んでいた。
「あの、もう変なのは売ってませんよ……?」
「それは重畳」
景元は一先ずは微笑んで見せ、売られている姿絵へ体ごと向ければ、判断に困るような物が視界に入り、思わず眉根が寄る。
「あ、これは別に如何わしくもないですし……、ねぇ……?」
背も低く小太りな店主は景元へ媚びを売るように低姿勢で手を摺り合わせながら確認するような言葉をかける。
「こう言うのが、人気なのかな……?」
「へぇ、狐族の耳や尻尾が可愛いってんで、付けて遊ぶのが……」
「人の姿を使って遊ぶのは感心しないけどねぇ……」
愛らしいと言えば愛らしいのか。
己が師や、仲間の頭に狐族らしい耳が付いた絵や、等身を小さく丸くしたような幼さを前面に出した絵が並んでおり、流行の移り変わりの早さに苦笑いしか出なくなってしまう。
「流石にこれで取り締まりはありませんよね、旦那ぁ」
「公序良俗に反する物では、ないけどね」
店主は余程緊張していたのか、景元の言葉に安堵した様子で、
「良かったら旦那も可愛いもんに目覚めて癒やされて下せぇ!これなんかが人気です」
何枚かを手早く手に取り、店主は強引に景元の手に握らせて諂う。
「ふむ、指導の参考に貰っておくよ。幾らだい?」
「いえいえ、旦那からお代なんて貰えませんよ」
「いや、立場上、賄賂紛いを受け取ったとされてしまっては困るからね。対価はきちんと払わせて貰う。領収書も頼むよ」
「はは、なるほど、しっかりしておいでで……」
提示された金額を景元は支払い、市場を後にすると足は丹鼎司へと向かい、龍の宮ノ前に立つ。
「飲月君にお目通りを願いたいのだが」
「どのようなご用件で?」
叩かれた門から出てきた家人は景元を慇懃に出迎えるが、視線はどこか警戒しているようだった。
「友と語らうに理由が必要かな?」
先日の白珠といい、この景元といい。
持明族の龍尊と自らを同等と考える傲慢さに鼻白む家人だったが、
「確認して参ります」
とだけで己の感情は抑え込み、一度頭を下げて主へと報告へ行くも、当然のように許可が出て内心で舌を打つ。
「失礼するよ」
景元がそんな人の心は気にかけず、案内を受けながら長い廊下を抜け、重厚な扉を開いて丹楓の執務室に入れば目の前の光景に首を傾げ、何事か考えようとしたが聞くが速しとして踏み込んだ。
「どうしてそうなったんだい?」
「鼻の詰まりも取れて痛みもないからと脱走を試みた痴れ者を捕らえておる」
丹楓の座る牀には、応星が入り口に背を向けた状態で彼の膝を枕に眠っており、丸まった体には龍の尾が幾重にも巻き付けられて寝苦しそうに魘されている。理由を聞けば納得はするが、これではしたい話は出来そうになく、景元は空笑いを漏らすばかり。
「困った哥哥だ」
自らの力で撃退出来た経験も拍車をかけているのだろうが、まだ首謀者の特定にも至っておらず、警戒するべき時期に保護対象が自ら脱走を仕掛けるとは、何とも頭が痛くなってしまう。
「して景元、何か伝えたい事でもあったのではないか?」
「あったんだけど……」
「応星が居ってはし辛い話か?」
「そうだねぇ、いや、聞かれてもいいよ」
いっそ、聞かれた方が良しと切り替えて購入した姿絵を執務机に広げて見せた。
「春画は流石に目につく場所にはなかったけどね、随分と動揺していたから秘密裏の取引になってると私は見るよ。暗号を知っている者だけが買える。とかね。そんな労力を払ってまで売買したい物なのかは理解しかねるが」
「これはこれで愛らしいな」
「この程度ならね?」
人の話はそっちのけ、他の物には目もくれず、狐族の耳を着けて気恥ずかしげに微笑む応星の絵を注視していた丹楓が景元を見上げる。これ以上があるのか。そう問いたいようだが、応星を気にして言葉を控えているようだった。
「君にも見せただろう?」
「こんな愛らしい絵があんなものになるのか?」
「人の想像力や欲求は度しがたい物なのだよ龍尊殿」
景元の手によって押収、確認された姿絵、こと春画は筆舌に尽くし難い程に生々しく凄艶に描かれており、殊、応星は不興を買い易い立場、本人が他者を意に介さず、傲慢に振る舞う言動もあってか陵辱を題材にした物が多く散見された。景元が白珠へと忠告したのもこれがあったためだ。
仙舟では、短命種は血気盛んで性欲も旺盛、長命種は気が長く穏やかで淡泊などと評する人間が一定数存在しているものの、一見して平穏に見えても裏側に隠れた欲求に際限などはなく、水底に溜まった泥を浚えばどんな醜悪な怪物が現れるか分かったものではない。
「例の襲撃犯もね、目的は応星の暗殺ではなく、抵抗させないために腕や足の腱を切った上で、『拐かせ』と、指示されていた」
抵抗出来ない体にした上で、『何』をしたかったのか。
猥雑な春画に触発されたでも着想を得たでもどうでもいいが、応星を職人として再起不能にした上で辱めたい意図がありありと感じられ、景元の静かな憤怒の焔が燃え盛る熱の籠もった眼差しと、丹楓の玄氷を閉じ込めたが如き酷薄な光を宿す眼差しが交差する。
「その暴漢と指示役は真実を話しておるのか?」
「皆、自己擁護が実に激しくてね、拷問にかけるでもなく良く回る舌だったよ。裏付けはまだだがね」
軽々に己を庇う証言は信じるに値せず、捜査を慎重に続けていくしかない現状を景元は丹楓へ話し、もしも他に首謀者が居るとするなら。へと話題を進める。
「いっそ小煩い龍師共であれば、諸々片付けられて楽なのだがな」
証拠さえ揃っていれば自身の龍尊としての立場を大いに活用し、応星を厭う龍師達を諸共始末出来るのだが、彼等も一族の筆頭に立つ存在が故に決して愚かではない。
星神:不朽の末裔とする自らの種族を至高とし、殊俗の民ばかりか因果応報のために故郷を捨てざるを得なかった持明族を救ってくれた仙舟すら見下すほど矜持の高い龍師が、百も生きぬ応星のために自らが手を汚すような真似をするかは疑問である。
次いで怪しいのは工造司の職人達。仙舟が薬乞いとして不老長寿を求めるために故郷を発ってより前例がない他星出身の人間による『百冶』の襲名。応星さえ居なければ。等と考える者は少なくはなかった筈で、最後に、変則的に考えるなら逆恨みが該当する。
人間、何をどう拗らせて他者に恨みを抱くかなど予想は付かず、些細な事象にすら多大な被害を受けたかの如く振る舞う輩も存在するのだ。
冤罪を避けるために可能性を一つずつ潰していく地道な作業に気が遠くなるばかり。
「もしもそうだとしたら、龍師達が簡単に襤褸を出してくれるとは思えないな。応星、工造司で自分を恨んでそうな人間に心当たりはないかい?」
「有り過ぎて思い出すのも面倒だ」
二人の声に眠りから覚め、口を挟まずに会話を聞いていた応星が景元に声をかけられて体を起こし、長い銀白色の髪を手櫛で解しながら応じる。
「嫌がらせをしてくる人間の顔など覚えるだけ無駄だろう?」
気怠げな様子で髪を掻き上げ、息を吐いて牀の背もたれに体を預けながら応星は景元を見やる。
幼い頃であれば暴言を真に受け、純粋に傷つき項垂れてしまう事も間々あった。しかし、白珠の励ましによって目が覚めた応星は、己の邪魔をしてくるだけの愚物の相手など、それこそ時間の無駄として切り捨てて来たが故に今ここに居る。
他者の感情をまともに受け止めながら生きているのならば、疾うの昔に心は砕け、膝を折っていただろう。
「丹楓、これ外して貰えないのか?」
「ならん」
己の腰に巻き付く尾の鬣を弄りながら文句を言えば、あっさりと丹楓は撥ね付ける。
応星は休んでいるはずなのに、普段よりも疲れた様子だった。何もしない時間が苦痛で仕方が無いと見える。
「応星、君の職人魂は感嘆に値するが、危険な目に遭った自覚はして貰えないか?」
景元が困惑と唖然も半々にして諫めるが、応星は口を曲げて不服を顕にするばかり。
我が身の状況を知って貰おうと敢えて聞かせていたのだが、何一つ伝わっていない様子が徒労感を促進させる。
「別に、こんなもの今に始まった事でもない。放っておけば飽きて止めるさ」
とんでもない科白に景元と丹楓は瞠目し、揃ってぼやく応星を見詰める。
「今までも、このような襲撃があったと?」
「まぁ、な?事情聴取だ現場検証だ、無駄な時間を取られるからわざわざ通報しなかったんだ。襲ってきた馬鹿は叩きのめして外に放り投げておけば大概は勝手に居なくなってたしな」
丹楓の動揺から微かに声が震える問いに、応星は事もなげに答える。
今回は白珠が目撃者となってしまったが故に内々に処理が出来ず、目立つ怪我をしてしまったがために丹鼎司に運ばれて大事になってしまっただけで、類似するような出来事は片手では足りないほど経験している。と、応星は二人に教える。
この襲撃騒ぎも、事が露見していなければ同様に隠蔽していたのだろう。
「何故。なんて訊くのは無粋か……」
「無粋だな。敵意は解り易くていい。殴り返せば手っ取り早く終わる」
朋友が想像以上の悪意に晒されていた衝撃で呼吸が浅くなり、息苦しさを感じた景元が襟の留め具を外し、息を吐く。
「応星、今の言い方だと、手っ取り早く終わらない事があったように聞こえるのだけど……」
指摘に応星が口角を下げながら己の失言と良く回る頭に舌を打ち、まんじりとして睨んでいても景元も丹楓も引かずに言葉を待っていた。
「全裸や下半身おっ立てて迫られるより、暴力の方が対処し易いんだよ……、さっきも言ったが殴れば済むからな」
応星は言い辛そうに小さな声で白状する。
全裸、下半身、との口ぶりから、男女関係なく関係を迫られていた事が知れ、景元はじくじくと胃が痛み出したような気さえしていた。
「殴れなかったのか?」
「最初は優しいんだよ。そういう奴等は……、っ、おい、丹楓、俺の腹を潰す気か⁉」
一度でも懐に入れてしまえば情の深い応星である。
慕ってくれ、信頼した相手の豹変に驚き、上手く抵抗出来なかったのではないか。
丹楓の脳裏には春画に描かれていたような陵辱が浮かび、不快な妄想としていたものが現実に在った事に嫌な汗を浮かせて無意識に応星の体を尾で締め付けていた。
「あ、あぁ、済まぬ。応星、其方は、そのような下劣の輩に操を奪われたのか?」
「操を奪うって?」
「応星、君に誰かとの性行為は経験あるかい?無理矢理、服を脱がされて。みたいなものだ」
「それは無い……、けど……」
互いの言葉足らずを補足し合いながら一先ず、最悪の展開には至っていなかったようで景元と丹楓の二人は胸を撫で下ろすが、
「けど?けど、とは?他に何か遭ったのか?」
曖昧な物言いに景元が応星に詰め寄り、子細を問い質す。
「言わないと駄目なのか?思い出したくないんだが……」
相当に封じ込めておきたい記憶なのか、応星は思い出す事を忌避するような素振りを見せ、視線を落とす。
「朱明に居た頃だし、偶々来てた鏡流に助けて貰ったから大事にはなってない」
最低限の情報だけを告げ、応星は口を噤んで丹楓の上衣の中に潜り込み、貝のように閉じこもってしまった。尾で捕らえられている以上、そこしか逃げ込む場所がなかったのだろう。
程なくして衣の中から鼻を啜る音がし、景元と丹楓は互いの顔を見合わせ、何一つ大事な存在を護れておらず、応星の気丈さに隠された弱さに気づけなかった己等へ失望し、落胆に頭を抱えるのだった。
後編