金人港で美味しい物を散策する白珠の視線の先に、在る一角が目に止まった。
十数人の持明族、仙舟人、狐族、多種多様な種族が固まっていたため余計に目を引いた。
余程美味しい物があるに違いない。
白珠は心を弾ませながら軽やかな足取りで集団に近づき、何が売ってあるのか覗き込むが、残念ながら食べ物ではなかったため、期待にぴん。と、立っていた耳を下げてしまった。
集団の中心には絵描きが蓙の上に座り、筆を巧みに動かして真っ白な紙に素晴らしい絵を描き上げていた。
墨の濃さを調整しながら陰影をつけ、まるで中で息づいているかのような人物が紙の上に現れる様は感嘆するばかり。萎えていた好奇心が白珠の心から湧き上がり、描いている様を良く見ようと場所を入れ替えながら眺めていれば勝手に尻尾が揺れる。
「あの、良かったらこの方を描いて頂けませんか……」
持明族の女性が一冊の本を懐から出し、開いて中の挿絵を指差しながら、自身ではない別の人物を描いてくれと頼む。
絵描きは口を半開きにして眉を下げてしまい、困り果てる素振りを見せた。あれ程の技巧を持った人間を困らせるほど難しい題材とはなんだろうか。
「罰せられたりしませんかね……?」
「絵くらいなら……、多分……」
「本当に?」
持明族の女性は自身の指を絡ませながら、もじもじはっきりしない態度だった。
挿絵は遠目かつ小さくて見え辛いが、白珠の飛行士としての目の良さが幸いし、目を凝らせば誰が描かれているのか程度は見えてしまった。
白珠の友人であり、五騎士として共に元帥に任命され、肩を並べて豊穣の忌み物と戦う仲間の丹楓である。
本当に問題はないのだろうか。
龍尊の姿絵を売り捌く。
本人は『どうでもいい』と、しそうではある。
しかし、龍の末裔として矜持の高い長老、要するに龍師達などはみだりに偶像崇拝を許せば威厳が損なわれてしまう。などと怒り狂うかもしれない。絵師が困るのも納得だ。
「駄目でしょうか……?」
「うぅーん……、描いて上げたいけど、別の惑星で王族を描いたら不敬罪って一ヶ月くらい投獄された事があってねぇ……」
仙舟を知る人物であれば、龍の角や尾を持った特別な持明族がどのような存在かくらいは知っている。各舟を統治する将軍と並ぶほど地位と権力を持った、豊穣を封じるに欠かせない存在。殊、羅浮の『飲月君』は、仙舟が薬乞いであった時代の遺物でもある健木を封じる役を担う最も重要人物だ。
そんな存在で商売をするとなると、投獄で済むのかは疑問だ。否、絵師である彼が殊俗の民であれば、仙舟人の感覚で投獄されただけでも死活問題になり得る。
「無断は止めて置いた方が……」
龍尊である丹楓と白珠は友人であるが、楽観的な彼女でも彼の難しい立場は重々承知している。流石に、『無断』でやると、相当な面倒事を引き寄せかねないのだ。
「白珠、何見てるんだ?」
止めようとした白珠の耳に聞き慣れた快活な声が聞こえ、勢い良く振り返る。
勢いの良さに驚いたのか瞠目する応星と、その背後には当然のように丹楓が腕を組んで立っており、いつも通り無表情で周囲を睥睨している。
「たっ……!」
ひっくり返ったような声が聞こえ、何かが落ちる音に白珠は視線を正面に戻す。
絵を依頼していた女性が、顔を色づいた紅葉のように真っ赤にして腰を抜かしたようだった。絵師の男性も、手に持った挿絵と丹楓を何度も見比べている。
「なんでこんな所に居るんですか⁉」
声は控えめにしたが、思いの外大きくなってしまい、周りの人間には丸聞こえだろう。
「いや、お腹空いて……、こいつもまだ食ってないって言うからさ……」
工房の仕事を終え、丹楓と落ち合った応星が金人港に彼を引っ張ってきたようだ。周囲の視線が痛い程集まっている。当然だ。公務や職務以外では殆ど外出をせず、殿上人とも言える龍尊が俗人が集う場所に悠然と立っているのだから。
「成る程……」
「んで、何見てるんだ?」
話が一周して戻ってきた。
「この方の絵が凄く上手で、見てるだけで愉しかったので……」
「ふむ、確かに見事だ」
絵師の技術の高さを見せるために、参考として看板に貼られた絵を眺めながら丹楓が零す。
これは不味い。白珠は冷や汗が背中を伝う感触に身震いをした。彼の影響はとても大きいのだ。このたった一言で『羅浮:飲月君が認めた絵師』として広まりかねない。その声が聞こえた人々が、絵師に殺到して絵を買い漁り、早く次を描けとまくし立てて混乱を極めている。
「へぇ、自分を描いて貰えるのか。折角だし、俺等も描いて貰うか?」
「構わんが?」
混乱を他所に、呑気な応星が看板を読んで丹楓に向けた言葉に周囲がざわつき、絵師も目が零れ落ちそうな程応星と丹楓を凝視している。簡単に言う応星にも驚いているのだろうが、かの気難しい龍尊がいとも容易く頷く姿にも戦いているようだった。
「あの、龍尊様……、ですよね?」
「あぁ?」
「お姿を描いても罪になりませんか……?」
「余が許可すれば良かろう?時間をとるようであれば断るが」
大きく無くとも良く通る張りのある涼やかな丹楓の声。
口元に細く長い指を当て、首を傾げれば丹念に手入れされた絹糸のような黒髪が流れ、揺れる様は実に優雅で美しい。周囲に集まった人間達からなんとも言えない声が上がる。
「いえ、お時間は取らせません!是非!」
「では許す」
不敬罪など意に介さず、時間が掛かるかどうかだけで判断しているらしい丹楓に絵師の口角が上がり始める。丹楓の類い希なる美丈夫ぶりは、絵を描く事を生業とする人間には最高の素材なのだろう。
「人が集まってるので、描いて貰うなら早いほうがいいと思います」
「でも、白珠もこの人達も待ってるんじゃないか?横入りは駄目だろう?」
白珠の提案に真面目な応星が、後から来ておいて先んじて描いて貰うのは駄目だと主張するが、このままであれば騒ぎは大きくなる一方。待っていた人間達もお先にどうぞ。と、各々譲っている。
「ほら、皆さんこう仰ってますから」
「んー、そうか?じゃあ、描いて貰ったら?」
応星が丹楓へ顔を向けて促し、丹楓も無言で頷いて肯定した。
絵師は筆を取り、興奮気味に感謝を述べている。
白珠がナナシビトとして活動している最中、どこかの惑星では王侯貴族の姿を描くは素晴らしい栄誉なのだと耳に挟んだ事があった。技術はあれど、街の片隅で姿絵を売っている絵描きには到底届かない世界とも言える機会が天から降って、否、星が連れてきた。彼が応星を見る目も潤んで心の底からの喜びに震えている。
「で、では、描かせて戴きます!」
絵師の宣言を受け、応星が視線を遮らないよう一歩下がると誰とも知れない響めきが複数上がった。応星の行動に。ではなく、丹楓が応星の腰を抱いて引き寄せたからだ。
「共に描いて貰った方が早く済むだろう?」
「えぇ、でも……」
「良いな?」
背の高い応星が、自身よりもほんの少し高い位置にある丹楓の顔を見上げながら身じろぐが、彼がしかと腰を抱き込んで離さずに絵師を見やる。絵師は頷く以外にない。
「いや、離せよ」
丹楓が応星の腰を抱いたまま描いて貰おうとするも、応星が拒否して背を反らしているため、絵師は描きあぐねて筆を迷わせていた。
「応星は逃げませんから、離して上げましょうね」
この子は格好つけなので、抱っこなんてされたら恥ずかしがってしまいます。とまでは言わず、程良く並ぶように白珠が調整してやれば、絵師は並んだ二人を見て安堵し、笑みを深める。
繊細な筆遣いで紙の上に描かれていく二人の姿は実に見事な物で、絵師の技術の高さを遺憾なく発揮している。
時間が経つのも忘れて皆、見入っており、
「出来ました!」
高らかな宣言の後、丹楓の元へ恭しく膝をついて描き上げた絵を献上する姿は感動すら呼び、絵を受け取った丹楓の表情が綻ぶ様に幾人かの女人が倒れた。
「ほぅ、この短時間で凄いな……」
扱う道具は違えど同じ技術者として応星が呻る。
『百冶』にも認められた絵師。の、尾ひれも付きそうである。『貴方達はご自分の発言に対する影響力をもう少し考えて下さい』そんな説教をしたくなった白珠ではあるが、言葉を呑み込むと、
「美味しい所を知ってるんですよ。一緒に行きませんか?」
と、誘う。
人前では宜しくない。
説教は食べた後だ。
暫し代金の『受け取れ』『畏れ多い』との問答があったが、技術者として誇りを持つなら代価は受け取るべきとする応星の説得で、絵師はようやっと支払いを受け入れ、白珠は一般人の様相で騒ぎの原因となった二人を先導して人集りとなった中を掻き分けていく。
実際問題、白珠とて、『五騎士』として選ばれ活躍する仲間である。元ナナシビトで仙舟とは然程しがらみがなく、本人が全く偉ぶらないため目立つ他の四人の陰になり勝ちではあるが、彼女とて決して隠れた存在ではない。
しっかりと注目の的になっていたのだが、人の世話ばかり焼いて視線に気付いてない所が白珠のいい所なのだ。と、表情をころころ変える彼女に憧れを抱く者達は微笑みを浮かべていた。
▇◇ー◈ー◇▇
「そのような経緯であったか」
訓練所の一角にある休憩施設で茶を飲みながら鏡流が息を吐く。
隣では景元が同じく茶を啜りつつ、素知らぬ振りをしながらも耳を立てて聞いている。
「そのせいなんでしょうね、なんか瞬く間に丹楓の姿絵が売られるようになってしまい……」
「迷惑な事に我らもな……。別に奴は五騎士代表ではないのだが……」
ほんの一週間前だ。
龍尊たる丹楓が個人へ姿絵の許可を出した。
抜け目ない商売人の間で瞬く間に広がり、罰せられないのであれば。と、次々に発行して売り捌いている。これがまた観光に来た殊俗の民のみならず、仙舟人や持明族にも売れ行きが良いらしく、龍師達が白珠の想像通り『尊厳が損なわれる』として憤慨しているが、描かれている本人が看過しているため、どうにも動けないでいるようだった。
そして、その仲間である応星、鏡流、白珠、景元まで巻き込まれて続々と姿絵が刷られてしまっている状況だ。
「景元はどう思いますか?」
「立ち絵くらいなら構わないけどね……」
言葉を濁し、景元は端正な顔に影を落としながら困ったように微笑んで見せた。立ち絵以外に種類があるのか。芸術事に疎い白珠は上手く察せず目を瞬かせる。
「あまり見せたくはないのだが……」
鏡流が不機嫌も露わに一枚の棒状に丸めた紙を差し出す。
一度握り潰されでもしたのか随分と皺の寄った紙を白珠が広げれば、鏡流が裸体のまま寝台に横たわる姿が描かれたものが現れたため、白珠は顔に血を上らせ、耳と尻尾の毛を逆立たせた。
「け、鏡流!貴方、こんなの大胆すぎますよ⁉」
「我はこのような見世物にはならん!」
「白珠、これは想像で描かれたものだよ」
鏡流が拳で机を叩き付け、景元が苦笑しながら純粋な白珠へ説明する。
「このような……、春画など我が許可する訳がなかろう⁉」
「今までも私達を描いた物はあったけれど、それは飽くまで検閲の入った伝記や講談だったから、こんな性を前面に押し出した物はなかった。どうも箍が外れた一部が居るようだ」
自らの裸体を描かれ、不埒な目的に使用された事へ憤る鏡流が歯噛みし、肌が見える部分が粟立っている。最早、悍しいとすら感じている心理が見て取れ、白珠はそっと紙を丸めて戻した。
「うぅん、格好良く描かれるのは嬉しいですが、これは……」
如何なる時でも笑顔を絶やさない白珠ですら表情を曇らせ、考え込む。大切な友人が被害に遭っているならば、何かをしたい気持ちはあれど、では、どう対処するべきなのか妙案が浮かぶほどの知恵者でもない彼女は苦しそうに呻った。
「どうした?集まって」
「あ、応せ……、貴方びしょ濡れじゃありませんか!?」
部屋に入ってきた応星を見て白珠は声を荒げて立ち上がる。
外は晴天。局地的な雨などもないにも関わらず、彼は常に身に付けている簪を外し、腰まである長い髪を下ろした状態で水を滴らせていた。
「あぁ、なんか卵投げつけられてさ、汚れたからここの井戸で髪洗った。俺が嫌いなのは構わんが、食べ物を粗末にする意味が分からんよな」
応星は不快感を顕にしながらも肩を竦めて笑って見せる。
「不運だったね。武具の納品だろう?私が同行しよう」
「あぁ、助かる。担当者が急に休んだとかで対応して貰えなくて困ってたんだ」
応星は卑劣な暴行を受けた事も、濡れた髪が衣服までをも湿らせていく不快感を気にしていないかのように笑い飛ばし、景元を伴って施設から出ていく。
白珠は出ていく応星の背中へ手を伸ばしそうになるも半ばで唇を引き結び、手を落として項垂れた。
「どうした?」
鏡流が深く項垂れ、脱力したように椅子に戻ると頭を抱えてしまった白珠の傍へ寄り添い、肩に手を当てる。
「あたし、応星に初めて会った時に言った事が、本当に正しかったのか解らなくなって来るんです……」
初めて会った時分の応星は幼く、長命種の傲慢さ、悪意に押し潰されそうになっていた。それを、短命だ長命だの関係あるものか。そう白珠は応星を励まし、また彼自身も歯を食いしばって立ち向かうようになった経緯がある。
先程の事態へ白珠が言及しても皮肉っぽく口元を歪め、『慣れてるから平気。やった事を後悔させてやるさ』などと笑うのだろう。
「あたしが、応星を苦難の道へ止めてしまったんじゃないか……、って。応星は、優しい子です。大変な努力家で、素晴らしい才能だってあります。本来なら、あんな暴力を受けていいような子じゃないのに、あたしが仙舟に引き止めるような事を言ったから、謂れのない侮蔑や悪意を受けて傷ついてるのに気丈に振る舞って、我慢するようになったんじゃないか。そんな風に考えてしまう時があるんです……」
こんなの、慣れる必要なんて無いのに。
白珠の声色に水気が混じり、吐き出された言葉も滴り落ちて床に吸い込まれる。
華やかで優秀な存在への嫉妬や悪意はどこにでもある。だから是とするものではないが、気にしていては身が、精神が持たなくなってしまう。故に、応星の対処は正しいものだ。標的が何も抵抗しなければ、体のいい愉悦を齎す玩具代わりに嬲り続けるのも人の性。
「白珠、この道は彼奴自身が選んだものだ。きっかけは貴様だろうと、全ての選択までは操作できるまい」
「そうですけど……」
より高みを目指せば目指すほど、仙舟で応星の存在は熾烈となり、燦然と輝く光が強いほど影も濃くなる。元々、命短き者を蔑む風潮が強い仙舟であるなら尚更。もっと彼を歓迎し、温かく包んでくれる居場所があった可能性を思えば、影は別の形で白珠の心をも侵食していく。
「応星は、ただの一言すら貴様への恨み言を漏らしてはおらん。正しいか正しくなかったなど気に病むな」
「ありがとうございます……」
白珠は項垂れたまま鏡流の慰めを受け取るが、覇気のない溜息を吐くばかり。
狐族特有の尻尾も耳も垂れ下がり、罪悪感に萎れる白珠を見下ろしながら鏡流が机に腰掛けるように背を預け、腕を組んで複雑そうな表情で『それに』と、続ける。
「応星が受けておる反感の一部は、彼奴に由来するものではない」
「どういう事ですか?」
応星自身に由来しないもの。
要は彼のたゆまぬ努力、溢れんばかりの情熱、類い希なる才能や、短命種の運命とは関係ない妬みや嫉み、差別感情が想像出来ず、白珠はこの数分でやつれたような顔を上げ、鏡流の言葉を待った。
「我も景元から聞いたのだが、金華猫なる妖怪を知っておるか?」
「いえ、お化けは詳しくないので……」
話の方向が急転された事に白珠は首を傾げながらも促す。
だが、切り出した鏡流の方が不快感を隠しもせずに目を閉じ、眉間の皺も深く口角も下がりきっている。
「鏡流?」
「簡単に言うと、月の精を食み、美男美女に化け、人を誑かす猫の妖怪だそうだ」
「はぁ……?」
言い辛そうにもぞもぞと鏡流は続ける。
「丹楓の尊号は『飲月君』だ。想像力の豊かな口さがない阿呆共がな、応星は『飲月君』を誑かす金華猫であるとして蛇蝎の如く嫌っておるのだ。丹楓の応星への寵愛ぶりは白珠も知っておろう」
「それは、はい……」
「奴の前世は知らぬ。が、少なくとも応星と出会う前の彼奴は個人を見てはいなかった。己の民への責務、仙舟から与えられた役目を全うし、種族全てを庇護する博愛と無機質を絵に描いたような、それこそ俗人とは交わらぬ神の如き存在で、特定の誰かを侍らせ、寵愛するなどあり得なかった」
仲間として皆と親しみ、応星を慈しんで傍らに立つ今の丹楓しか知らない白珠には到底、想像が付かない『龍尊』としての彼の姿。
「応星と出会って、丹楓が変わってしまったと?」
白珠の補足に鏡流が深く頷く。
「あぁ、金華猫とは人を誑かした挙げ句、病や禍を招く疫鬼のようなものでな、そのような怪異と応星を関連付けて、『飲月君』が怪士に誑かされ、穢されたとな……」
「変わる事の何がいけないんですか⁉今の丹楓の方が、あたしは好きです!」
「丹楓は、永劫『飲月君』として君臨し続ける『龍尊』であり、彼奴は飲月君の中でも殊更、先祖返りとも言えるほど強い能力を有しておる。奴を『神』の如く崇める者は、『神』が俗に染まるなど良しとせぬ。我等は奴を『丹楓』として見るが、崇める者は『飲月君』としてしか見ておらぬのだ。故に、丹楓の俗な人間性を引き出してしまう応星が邪魔で仕方がない訳だ……」
「納得いきません!丹楓だって感情はあるし、嫌な事は嫌って我が儘言うんですよ!人だって好きになります!この間、嫌いな食べ物を応星に押しつけてるのだって見ました!龍尊なんて立場だけであの人を語るのは間違ってます!」
白珠に譬えようのない、言葉だけではとても言い表せない感情が溢れかえり、それが膨らんだ尾を震わせながら腕を振り上げさせ、足をばたつかせた。丹楓が一個の人として生きようとする邪魔をするばかりか、応星にまで害を与えるなど到底、赦せるようなものではなかった。
「そのような貴様だからこそ、応星も丹楓も心を開いたのだろうな」
鏡流は柔らかく目を細めて荒ぶる白珠の頭を撫でる。
丹楓を、個として見るならば彼女の意見は間違っていない。ただし、応星を害する感情を省けば丹楓に『飲月君』たれ。とする一族の思考も誤りではない。民を率いる者には安寧を約束する責務があり、長たる役割を持つ者が個人の感情で動けば瞬く間に滅びの運命を辿る。
そうならないために、長に『役割』を自覚させ、徹底して『人間性』を排除し、『偶像』として扱う事は大変有効なのだ。仔を成せず、繁栄とは無縁とも言える持明族は、それこそ種の維持に神経を尖らせているだろう。
それを、たった一人の人間が、殊、蔑んでいた『短命種』が破壊してしまった。龍師達にとって、応星の存在は、仙舟にとっての豊穣の怨敵と同等とも言える。
「ややこしい問題だらけだな」
豊穣との戦にだけ集中出来ればどれほどいいか。鏡流が天井を仰ぎながら、げんなりと声色を淀ませて珍しく弱音の如き言葉を漏らす。
「みんなもうちょっと単純になったら、生き易い世の中になりそうですけど、難しいんでしょうね……」
下世話な姿絵騒動。
五騎士人気が盛り上がっているせいか、より顕著になった応星への加害。
雲騎軍、或いは地衡司に任せるべき案件ではあれど、知ってしまったからには無視も出来ずに心労は溜まるばかり。
「応星が心配です。あの子を護る盾は、あまりにも少ない……」
「あぁ、我も気にかけておく……。今は幼稚な嫌がらせに留まっておるが、賛同する者が増えれば行動が過激化しかねん。景元も、至る所に雀の目を光らせておる故、特に声の大きな者を特定して捕縛すれば一次的にも抑制は出来よう」
ある意味、応星がただの個人でなくて良かった。そう鏡流は考える。
名ばかりとは言え、本人が自ら勝ち取った百冶の称号も応星を護る盾の一部となっているからだ。妬み嫉みの大本でもあるが、その立場があるからこそ迂闊に始末されない利点もあった。
「あたし、応星とご飯でも食べてきます!」
「あぁ、行ってこい。その内、皆で集まって酒でも呑もう」
「はい!」
白珠が立ち上がり、鏡流に暇を告げて走る。
検品でもしていたのか武器倉庫に居た応星に白珠は声をかけ、半ば強引に懇意にしている飲食店へ引っ張っていった。
▇◇ー◈ー◇▇
訓練や面倒な机仕事を終えた夜。
夕焼けの長楽天を歩きながら、白珠は憂鬱な気持ちでいた。
至る場所で誰々の姿絵はどうですか。などと露店に客を呼び込もうとする声が上がっている。
画風は様々で、仙舟に良くある水墨画風の物から、他の惑星から持ち込まれた技法なのだろう、濃い色の絵具で描かれた物もあり、淡い色合いで描かれた水彩画も良く目立っている。
「あら……」
本の挿絵にありそうな一枚絵ではなく、大きな掛け軸に貼られた応星を見つけ、白珠は思わず声を上げて止まってしまった。白い牡丹と共に鮮やかに描かれた水彩画は実に美しく応星を描いており、感情豊かに表情を目まぐるしく変える応星を知る白珠にとって、何やら知らない麗人を見ているような気分にさせた。
他の人には、応星がこんな風に見えているんですね。
しつこく眺めていたせいか、露店の店主が笑みを浮かべながら白珠に近づいてくる。
「すみません、それは売り物ではないんですよ……」
「え、置いてあるのに売ってないんですか?」
確かに、掛け軸には値札がついていない。
とすると。
「ただの自慢です」
店主は鼻息荒く言い切った。
この騒動の切っ掛けとなった例の絵師に金に糸目をつけずに描いて貰った一点物であり、一度とは言え、直接本人を見ながら描いただけに特徴を捉えながらも壮麗に仕上げている。
「もし絵が欲しいのでしたらこちらに沢山在りますよ!」
店主はわざわざ応星を描いて貰っただけあり、置かれている絵も応星の姿絵が多かった。
「応星が好きなんですか?」
絵を眺めながら白珠が訊ねれば、店主の弁舌は止まらない。
簡単に纏めてしまうと、応星は長命種が幅を利かせる仙舟に於いて、短命種ながら自らの腕だけで百冶の称号を得、長命種達に自身を認めさせた憧れの存在だと言う。つい先日、彼が酷い目に遭った姿を見たばかりの白珠は、応星を好いてくれる彼の褒め囃す言葉が嬉しくなってしまい、商売そっちのけで憧れを語る話に聞き入っていた。
「白珠様……」
「あ……」
咎めるような声に肩を振るわせて振り返れば地衡司の役人で、機嫌良く揺れていた尾が垂れ下がる。
「白珠……、白珠様……⁉」
名前を繰り返し、店主は息を呑んで深々と頭を下げた。
丹楓ほどに特徴があるならば兎も角、あの英雄がこんな場所に居るはずがない。だとか、一般人などと話してくれるはずもない。とする思い込み込みも手伝って直接会っても案外気付かないものである。
「気にしないで下さい。それよりも応星をこんなに好きな方が居てくれて、あたしはとっても感動しているんです。あの子はとってもいい子なので、ずっと好きで居てくれるととっても嬉しいと思います」
「も、勿論です!」
白珠は頭を下げる店主の手を取り、慈母のような微笑みを浮かべ、口煩そうな地衡司役人から逃げるように市場を後にする。
この騒動は様々な問題を包含しているが、応星をああも好んでくれている人も居るのだと知ってしまえば悪くもない気がしてしまい、『現金な』と、白珠はむず痒い心地となる。
金人港にでも行ってご飯を買って帰りましょうか。
考えすぎて頭が痛くなり出した白珠がこめかみを揉みながら息を吐き、歩いていれば足下に一枚の紙が落ちてくる。
「あら?」
どこかのお店から飛んできてしまったのか、誰かが落としたのか。
白珠は紙を拾い上げ、そこに描かれた物を見て首を傾げてしまった。絵は五騎士の仲間を描いた挿絵のようであるが、描かれた人物と白珠が知る人物が結びつかなかったのだ。
龍の角を持ち、荘厳な衣装を纏った人物は丹楓だろう。だが、描かれた丹楓は、白く長い髪を降ろし、衣服を乱した応星に似た人物と口付けをしている。
「ぎゃあああああああ!すみません!すみません!」
一人の仙舟人らしき女性が白珠に駆け寄り、呆気にとられている彼女から紙を奪い取ると、脱兎の如く逃げていった。全く理解が追いつかず、白珠は耳を何度も跳ねさせ、頬に手を当てて今見た物を整理しようとするが、頭の中は真っ白だ。
あれも春画のような物なのでしょうか?
しかし、なにやら趣向が違ったようにも?
うんうんと呻りながら考えても、答えらしい物は浮かばず、鏡流や景元に相談するべき案件なのかすら、もやもやとした心は定まらない。
白珠は見た物が頭から離れず、折角、買い求めた食事も進まず、床についても疑問符が頭の中で回っている。
結果、寝不足となり、翌日の訓練に支障を来さないよう冷水を被って強制的に脳を覚醒させ、半ば泣きそうな心地で訓練に挑む白珠の姿があった。
▇◇ー◈ー◇▇
「鏡流、つかぬ事を伺うのですが……」
午前の訓練を終えた鏡流と合流し、訓練所の食堂にて相席した白珠が声を潜めながら彼女の耳に唇を寄せる。
「丹楓と応星ってお付き合いしてるんですか?恋人みたいな形で……」
「何を言っておる……」
相談は早いほうがいい。
白珠は早速、鏡流に事実確認を試みたのだが、困惑の表情を見るに相当な荒唐無稽を晒したようだった。
「確かに、奴等は距離が近いし、丹楓も応星を特別視しておるが……」
鏡流も見目は若いが仙舟人であり、数百年は生きている。
剣と豊穣の殲滅に人生を捧げ、色事に精通はしていないまでも決して疎い訳でもなく、近しい仲間がそのような関係になっていれば気付きそうなものだ。しかし、丹楓は無口で、応星も奇物に関しては煩いが、己を語るような口は持たない。密やかに恋仲となり、静かな情を育みながら隠している可能性もある。
「我なら兎も角、恋仲になった場合、あれが白珠へ言わぬとも思えんが……」
幼い頃から応星を見ている白珠は、彼を弟のように、また子のように慈しんできた。応星自身も心の底から白珠を信頼し、時に軽口を叩きながらも深い情が見え隠れし、彼女の前では一人前であろうと心配をかけぬよう気を張っている。故郷も、家族も失った応星にとって、白珠は母であり、姉であり、時に世話の焼ける妹のようでもあり、何にも代えがたい家族のような存在だった。
そんな応星が誰かを愛した場合、白珠へ相談、報告をしないとは鏡流には思えなかったのだ。
「うーん、でも知り合いが、家族だから恋人が出来ても恥ずかしくて逆に言えない。みたいな事を言ってたりもしてたんですよね」
「そうだな、婚姻を結ぶ報告ならば兎も角、恋仲となると難しいか……」
鏡流は肉野菜炒めを口に放り込みながらも生真面目に悩み、白珠も麺を啜りながら難しい顔で悩んだ。
「いや待て、何故そんな話になった。起点はどこだ」
今まで共に在って、仲間内の恋情を探る話題など出た事はない。
詰め寄る鏡流に、白珠は言い辛そうに昨日見た物を語り、『なんだったんでしょうあれ』そう気弱な声を出す。
「もしもですよ?五騎士の変な噂話の記事とか書かれてたらどうしましょう?本人達が関知しない所で、勝手にお話が作られてるとか……」
「姿絵の事を考えればないとは言えんな……。景元が何か調べておるやも知れん」
なるほど!と、汁まで飲みきった丼を置いて白珠が景元の姿を探すために視線を巡らせれば、静かに茶を飲む姿が視界に入り、勢い良く席から立つと手を掴んで鏡流の元へと引っ張っていく。
「なんだい、急に……」
「ここではなんだ。場所を移動するぞ」
「はいはい」
師匠の言葉には逆らえず、手は白珠に拘束されたままの景元は諦めを滲ませて連行される。
鏡流、白珠、景元が揃って現れると、相応に人が多かった休憩所は瞬く間に閑散としてしまった。上官の居る場所では寛げないだろう。
「皆、すまんな」
いそいそと去って行く兵士達の背中に鏡流が声をかけ、三人は円卓に座ると顔を近づけて密談の様相となった。
白珠が昨日見た物を景元に伝えれば、彼は言い辛そうに口元を撫でた。
「前々からね、絵だけではなく私達の仲を邪推して、好き勝手に扱う物語は在ったんだよ。広まらなかっただけでね」
「そうなんですか⁉」
有名な人物をこき下ろす。或いは下らない噂話を広める。
下世話な読み物を載せる粕取りとされる雑誌は羅浮にもあるが、今の騒動もあって監視の目はより厳しくなって減っているはず。と、景元は二人に話す。
「景元、貴様、そのような物を読んでいるのか?」
「責めないで下さい……。世俗の調査の一環で、中身までは読んでませんから……」
鏡流に詰められ、嫌な汗が流れた景元は喉に詰まった呼気を吐き出すように咳払いをすると、
「大衆娯楽の一環として、そう言った個人の思想、息抜きは容認されるべきものです。そもそも、下品な娯楽雑誌は雨後の竹の子のように次々に名を変え、品を変えて湧き出す物ですから規制が追いついてませんし、殊更に過激な思想を除いて過剰な規制をすれば反発を招きます。娯楽として消費され、忘れ去られるまで待つしか無いのが現状です」
一息に言い切って、景元は場を誤魔化すように茶を淹れに行く。
「ううん……、じゃあ、昨日あたしが見た絵も、その粕取りとか言う雑誌に載ったお話の挿絵だったんでしょうか?丹楓と応星の?」
「あり得るね。師匠、白珠、お茶をどうぞ」
鏡流が茶を受け取り、眉間に皺を寄せながら口を開いた。
「彼奴等はやたらと距離が近い上に他種族同士だ。しかも、今まで誰も寄せ付けなかった気位の高い持明族の長が唯一、気を許した存在となれば、題材としては面白いのかも知れぬ……。いつだったか、どこかの王族が市井の娘を見初める身分違いの物語が流行っていた記憶がある……、それと似たような物なのか……」
鏡流が記憶を掘り返しながら悩み悩み分析すれば、隣に座った景元が同意してみせる。
「えぇ、友人達が題材になっている点を除けば実にありきたりなものです。例えば、仲間と艱難辛苦を打破していく絆と冒険を描いた物、一庶民が将軍へと成り上がる下剋上物語。身分違いや、種族、家同士の確執を乗り越える愛物語。市井の者が為し得ない夢を書いた物語は大衆受けします」
「だからと言って、龍尊や百冶たる者を好き勝手書くとは……」
「正直、題材にする相手も時期も悪いですねぇ……。公になれば不敬罪で投獄されかねません。何でも隠れてやる分にはある程度、見逃してやれるのですが……」
鏡流は難しい顔で飲み干した杯を机に置き、景元は机に肘を突きながら、手を組んで顎を支えつつ遠くを見やる。
白珠も、大事な友人が不埒な真似をされたり、苛められていなければ特別問題視はしないまでも、この場合は判断が難しい。景元の発言を踏まえるならば、二人を貶めたり苛めるために姿絵を描いている訳ではなさそうだからだ。
だが、あの絵には些か如何わしさが匂っていたので、鏡流が怒った姿絵と同類にするべきなのか、良く分からなくなってくる。
「ううー、めんどくさい……」
「とりあえず、規制範囲の話が整うまで目立った行動は控えておいてくれ。蜂の巣は突かないに限る」
白珠が髪を掻き回し、こんがらがった頭の中身を吐露すれば景元が宥め、今は行動を起こすべきではないと釘を刺された。
「分かりました。この事は一先ずはあたしの胸の中に留めておきます」
「そうしてくれると助かるよ」
「そろそろ休憩は終いだ。行くぞ」
各々が席を立ち、訓練場へと足を伸ばす。
白珠は同時に三本の矢を番えて強弓を繰り、複数の的を穿ちながらも応星の事が頭から離れなかった。
▇◇ー◈ー◇▇
夕闇差し掛かる工造司。
露店で買った軽食を持って応星の自宅を訊ねれば不在。
工房へ赴けば案の定、明かりが点いており、白珠はまた寝食を削って無茶をしているのだろう応星を思い浮かべながら戸を叩き、声をかけながら入っていく。
「白珠、どうした?弓でも壊したのか?」
製図室に弟子の職人と共に居た応星が目を丸くして白珠を出迎え、手近にあった椅子を引いて勧める。
「いいえ、また食べてないんじゃないかと心配で……」
白珠が椅子に座り、手に持った紙袋を掲げてみせれば応星は気不味そうに笑っているが、食べ物の匂いに体が空腹を思い出したかのように腹が鳴った。
「貴方って人は……、いえ、今更ですね……。片手でも食べられる物にしたので、ちゃんと食べて下さいね?」
「ごめん、恩に着る……。あ、茶でも飲んでいかないか?淹れるよ」
白珠に軽く叱られた気不味さを誤魔化すように応星が茶を淹れる用意をするために製図室から出て行こうとしたが、弟子が慌てて止めて淹れに行く。
「集中すると他が目に入らなくなるのは凄い特技ですが、体には悪いですね……」
「これでも気をつけてはいるんだけど……」
応星は白珠から受け取った甘い卵が入った面包を囓り、笑って場を取り繕いながらも食べ進めている。それを白珠は急かさず、立ったまま食べている事も咎めず微笑んで待っていた。
「一気に食べると具合悪くなるから、残りは少しずつ食べるよ」
面包をたった一つ食べただけで空腹が落ち着いたのか、応星は紙袋を机に置き、言い訳のように白珠に告げる。
「えぇ、回数を分けてもいいですから、ゆっくり食べて下さい。水分もしっかりね?」
「解ってるって……。時間を惜しんで倒れたら、それこそ時間の無駄。って丹楓から散々説教されたしな……」
「あぁ、らしいですね」
寝台に横たわる応星の隣で、腕を組みながらくどくどと説教している丹楓の姿は容易く浮かぶ。
丹楓は応星と知り合ってから、短命種に関する書物を読み漁ったらしく、熱病を拗らせたり、頭を打っただけでも死ぬ可能性があると知って驚愕し、ナナシビトとして様々な惑星を巡り、多様な人種と巡り会って来た白珠に確認しに来たほどである。
無論、持明族や仙舟人も重病に罹患したり、大怪我をすれば死ぬが、短命種の病は種類も原因も長命種達と比較してあまりにも多く、些細な怪我ですらも命取りになり、食あたりや過労など他の要因でも直ぐに命を落とす事に動揺を見せていた
なのに、応星は生き急いでばかりで直ぐに無茶をする。寝食を疎かにして作業に没頭するなどは日常茶飯事。その果てに栄養失調と過労で貧血を起こして倒れ、丹楓を青ざめさせた。後にも先にも、彼が酷く取り乱したのはその一度切りではあるものの、朱明に居る炎庭君に龍の腕甲を造らせてその片割れを応星に贈り、他者への牽制のために自身との繋がりを示す玉佩を渡すなどの過保護が加速したのは言うまでもない。
ただ、それでも自身を軽視する応星の行動は中々変わらず、睡魔に負けて工房の床で眠った挙げ句、風邪を引いた彼に丹楓が雷を落とした出来事も片手では足りない。ほぼほぼ応星専用と言える仮眠室が工房に出来たのは、その雷を原因とする。
全く己を大事にしようとしない応星には、過保護なくらいで丁度いいのかも知れない。などと、白珠も考え出す始末なのだ。
「仮眠室でばかり寝ちゃ駄目ですよ……?ここ、入ろうと思えばどこからでも入れて不用心ですし……、色んな業者が出入りしてるから、知らない人が入ってきても貴方は気付かないでしょう?」
「別に金目の物なんてないぞ?素材は高価な物もあるが、売る所なんて限られてるから直ぐに足がつく。よっぽどの馬鹿でもない限り手は出ださんだろう」
「この工房……、いえ、工造司で一番の宝は貴方ですよ。貴方に何かあったら丹楓は怒り狂います。あたしだって怒ります。鏡流や景元だって赦しません。貴方を傷つけた人は地獄の果てまで追いかけてやります……。貴方が皆を愛しているように、あたし達だって貴方を愛してます」
今だって、応星に卑劣な真似をする人間を蹴散らしてやりたい気持ちはあるのだ。
しかし、下手なやり方をすれば悪意を持った者はここぞと応星に罪を被せて糾弾し、返って立ち位置が揺らぎかねない。だから皆、我慢をしている。応星が髪を濡らして現れた時でも、誰にやられたのか問い詰め、加害者の胸ぐらを掴んでやりたい程の怒りを抱いていたのだから。
「わかった……、気をつける……」
真摯な眼差しを白珠が向けていれば、応星の白い肌が少しずつ赤らんでいき、上がった体温を隠すように片手で顔の半分を覆った。
「先生、お茶が入りました」
「あ、ありがとう」
「ありがとうございます」
幾分、温めのお茶を受け取った応星が弟子に休憩を言いつけてから立ったまま口に含み、白珠も習って喉を潤しながら目を伏せた彼の横顔をじっくり眺めていれば、
「応星って、美人だし可愛いですねぇ……」
件の掛け軸に描かれていた応星の姿は、誇張も何もなくそのままを映していたのだと認識してしまう。応星は応星だ。顔立ちがどうだろうと特段気にしはしていなかったが、改めて見ると、彼は大変な美丈夫である。
寝不足故に、ややくまが見えるものの肌質はきめ細やかな白皙で、目元を縁取る睫も長い。柔らかそうな唇は淡く色づいて、鼻筋も通っており、透き通った灰簾石が嵌まったような垂れ目がちの眼は端整な顔立ちをどこか幼く見せながら、銀白色の長い髪が儚げな雰囲気を醸し出して優艶とも表現出来た。
応星の性格を知らない人間は、この顔からありとあらゆる皮肉や悪口雑言が飛び出してくるとは想像すまい。
「急になんだ?」
「いえ、最近、姿絵が流行っているでしょう?貴方の姿絵を見かけまして」
「へぇ?」
今一、理解出来ていない様子の応星に、
「もしかして知らないんですか?」
よもやの質問を投げかける。
「姿絵ってなんだ?」
「本当に何でも知ってそうで興味ないとこはどうでもいいんですねぇ。うーんと、ほら、絡繰りや武器の図面にも完成図とかがあるでしょう?それを人にした物と言えば解り易いでしょうか?」
「成る程?それで俺のがあったのか?なんで?」
「この間、貴方と丹楓が絵を描いて貰ったでしょう?それから流行っちゃったみたいなんです」
ふぅん?と、応星は実に気のない返事。
己の姿絵が売られてようと、実害がなければ特にこれと言った興味も感情も湧かないのだろう。この辺り、丹楓と良く似ている。実際は、本人の知らぬ所で妖怪扱いなどの実害が出ている訳だが。
「あぁ、そう言えば……、あの絵、余程嬉しかったのか丹楓の奴、寝所に飾ってるんだ。それで思ったんだが、全員揃って描いて貰うのもいいんじゃないかってさ」
「みんなと一緒に描いて貰うのはいいですね。楽しそうですし、いい思い出になります」
応星の思いつきに笑顔で同意はしてみたものの、不意に白珠の心に疑問が湧いた。
「なんで寝所に飾ってあるのを知ってるんですか?」
「え、見たから?」
「丹楓の寝所に入るような機会があるのですか?」
「うん?あいつの家で酒呑んで、帰ろうとしたら危ないからって止められるし、俺も呑んでる最中に寝てる時があって、起きたら大体、隣で丹楓が寝てる。あ、そうそう、あいつ俺より寝起き悪いんだ。体起こしても全然、目が開かなくて面白い」
「隣って、顔が横にあるんですか?」
「そりゃそうだろ?一緒に寝てるんだし」
応星は、どれだけ己が爆弾発言をしているのか全く自覚がないようで、悪びれもせず笑っている。龍尊が宅へ招いて酒を呑む事を許し、眠っても人に任せず自らの手で客人を抱えて運び、同じ寝台で眠らせている。
しかも、身分違いの者が共寝をするにしても、頭を互いの逆に置いて眠るのが通常で、隣り合って眠るのは情人か我が子である。丹楓が、応星を我が仔のように扱っていると見ても良いが。
「応星、つかぬ事を訊ねますが……、丹楓は貴方に触れてきたりは……、しますか?」
大分、突っ込んだ訊き方であるが、応星は恥入りもせず、
「あぁ、俺が温いからとかで良くくっついてくるぞ?」
あっけらかんとして答えたため、如何わしい関係ではないが、あまりにも無防備に相手を信用しきっている様子が伺える。
白珠は頭痛が湧いたように額を抑える。
「一緒に寝たりする事を疑問に思ったりはしなかったのですか?」
「なんでだ?友達だし、懐炎先生も俺が眠れない時は一緒に寝てくれたが?」
それは貴方が幼かったからです!
白珠はそう叫びたかったが、何が可笑しいのか全く理解していない応星の顔を見れば、ぐぅぅ。と、呻るしかなく、鷹揚に立ち上がると彼の肩を掴み、真っ直ぐに見据える。
「応星、訊いといてなんですが、貴方、それを外で言っちゃ駄目ですよ?ほら、あれです、龍師のおじさんたちが絶対に煩いですから。ね?そこの貴方も!絶対に公言してはいけませんよ!?いいですね……」
大人しく控えながらも会話を全て聞き、両手を口に当てて固まっていた弟子にもきつく忠告し、頷いた姿を見届けると、
「あたし、ちょっと用事が出来たので、お暇します。お邪魔しました」
「あぁ、またな?」
応星へは朗らかな笑顔を向けながらも、白珠は足早に工房、工造司を出ると星槎へ乗り込み、向かうは丹鼎司である。
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羞花閉月の肖像:中