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スターレイル用

地獄への道は善意で舗装されている

・丹楓様とモブ♀と絡んでるのを示唆する描写
・丹恒は童貞ではない
・設定は相変わらず碌でもない
・マフィアパロ中編






 丹恒等が隣人兄弟と知り合ってから訳三ヶ月ほど。
 春休みが終わって学校も始まり、丹恒は一先ず唯一の趣味とも言える写真に関連したサークルに所属しながら相応に多忙な日々を送ってるものの、他の国の人間かつ無口なせいか、話しかけられても上手く交流が出来ず、未だ友人らしい友人は出来ないままだった。

 会話は専ら丹楓、応星、刃が相手である。
 週に二回ほど応星達の夕食に招かれるようになり、食べさせてもらうばかりもどうかと考え、過不足ない程度には家事を熟す丹恒が手伝いを申し出れば、刃は最初こそ遠慮したものの互いの兄から背中を押されて一緒に料理をする機会が増えた。

 刃の左手は、丹恒の推測通り神経を痛めているせいで指が曲がりきらず、あまり力が入らないようで、中身が入った熱い鍋を運ぶ際も腕を取っ手に引っかけるように運んで危険極まりない。本人曰く、気をつけてはいる。そうなのだが、応星から聞くに皮膚感覚が鈍く、腕を火傷は一度や二度では済まないそうで、呼ばれた時は刃の腕を注視する癖がついてしまっていた。
 新しい傷、火傷に気づいたとて薬を塗るが精々で何が出来るでもないのだが、見られている意識が、気にかけられていると知れば意識がより強まるだろう。との考えもあった。

 無痛症、とまでは行かないにしても、痛みを感じ難い体は生命の危機にすら気がつかない可能性を内包しているため余計に気になってしまうのだ。極端な話をすれば、痛みという警報機能を持たない人間は危険に気づけないばかりか、回避行動が出来ず、死に誰よりも近い存在となる。
 痛覚が鈍い、前頭葉の損傷により記憶の一時的な保持が難しく、興味、関心、感情の欠如が見られる刃は、常に剣の切っ先を突き付けられているに等しい。
 丹楓の事を考えれば、親交を深めるべきではないのだろうが、足掻いた所で逃げられないのなら状況を受け入れ、出来得る範囲で環境を整えた方が余程、有意義である。

 これは諦めではない。

 己に言い聞かせながらの行動は、果たして。ではあるものの。
「刃さん、無理しないで帰られてはどうですか?」
 丹恒が声をかければ、ほんの少しだけ刃の体が揺れ、閉じかけていた目が開く。
 今日は丹恒達の家に二人を呼び、食事を振る舞った後で応星と丹楓がソファーに向き合って座りながら酒を酌み交わしている様子をぼんやり眺めていた。
 丹恒は通訳の茶番があるため、呆けつつも耳を傾けていたが、刃に至っては既に心あらずで視線が遠くを見ており、半眼で不機嫌そうに見え、何度も目が閉じているため、単純に眠さのあまり普段以上にぼんやりしてしまっているのだろう。
 体が眠りに入ろうとして体温が高くなっているのか、白い肌も少しばかり赤らんでいるようだった。
「そうだぞー、心配しなくてもちゃんと帰ってくるって」
「一緒に帰ろう……」
 刃が眉を顰めれば、垂れ目がちの眼がどこか悲しげに歪み、捨てられた犬のように応星を見る。
「お兄ちゃん離れ出来ないな―、お前」
 応星が刃の頭を抱き抱え、撫で回しながらけたけたと笑い、すっかり酔っ払ってい様子だった。酒は好きでも然程強くはないようで、酔わない丹楓に付き合わされれば呑み進める速度も無意識に早まり、最早、酩酊状態と表現しても良い。
「帰ろう」
 他人と同じ空間が心労になるとしたら、もう限界なのだろう。応星も解ったとばかりに刃の背中を叩き、丹楓に謝りながら立ち上がる。
「楽しかったです。また呑みましょうねぇ……」
「再一起我想和丹楓喝酒」
 酔ってふわふわと笑う応星の好意的な科白を伝えれば、
「我们再一起喝酒吧」
 柔らかい声で丹楓が返す。
 部下と接する際も、丹恒に接する際も聞いた事のない優しげな声色。
「あ、また一緒にって言ってくれてます?」
「えぇ、兄も楽しかったようです」
 声色まで使い分けるなんて、本当に人を籠絡する事に秀でた男だ。と、丹恒は内心呆れつつも、茶番に付き合う。
「ちょっと、肩でも貸しましょうか……」
 刃も応星も足下の動きが怪しく、ともすれば二人揃って転げてしまいそうで、丹恒が二人の腕を掴んで支えながら隣への帰宅を手伝う。

 世話のかかる兄弟だ。
 
 それぞれの寝室に送り届け、帰宅すれば丹楓はソファーに戻って残った酒を呑んでおり、背もたれに肘をついて頬付けをつきながら険しい表情をしていた。何か面倒事の知らせがあったか、それ以外に不機嫌になる要素でもあったのか。
「あんまり呑み過ぎるなよ。幾ら酔わないからって内蔵に負担はかかってんだから、応星さんも心配してる」
 本性を知らないからこそでもあるが、こんなのでも倒れたりすればお人好しの応星さんは心配するし悲しむだろう。所詮聞き流されると考えながらも苦言を呈すれば、丹楓が珍しく酒器を机に置いた。
「風呂に行く」
 くどくど煩く言われて呑む気が失せたのだろうか。
 大きめの杯に半分ほど残っている酒を見詰め、丹恒が首を傾げる。
「捨てるぞ?」
 丹楓がどうでもいいとばかりに手をひらつかせて浴室に入り、片付けを進めていれば程なくして水音がし出す。

 丹恒は特に気にもせず、洗い物を片付け、入れ替わりに風呂に入り就寝する。

 ▇◇ー◈ー◇▇

 応星達との食事会から数日。
 丹恒が家で夕飯を作っていれば見知らぬ番号からの電話が入り、通話をボタンを押せばテレビ通話で景元が画面一杯に現れた。
「やぁ、今大丈夫かな?」
「問題ありません」
 わざわざ国際電話かつテレビ通話。何事だろう。と、驚きはしたが、丹恒と景元は交流が少なく、顔を知っている程度の知り合いに等しい。名前を言っても通じない可能性を考えれば、顔を出す方が手っ取り早いとの判断だろう。
 スマートフォンの音声をスピーカーに切り替え、火を消して水場にもたれながら丹恒は景元の要件を伺う。
「丹楓は居るかな?」
「今は居ませんが……、繋がらないんですか?」
「いや、居ないなら寧ろ都合が良いよ。で、用件なんだけど……、あいつ、君から見て何をやっているか判るかな?」
 景元は口元こそ微笑む形をしているが目は一切笑っておらず、冷たい声色が怒気を含んでいた。丹恒へではない、丹楓に対しての怒りだとは思えど、何に対しての怒りかが解らず困惑する。
「なに、って……」
「うん、丹楓がね、こんなに時間かかる事が珍しいんだ。早ければ即決か一週間程度で話を纏めてくるし、遅くたって一ヶ月、あいつの押しの強さは君だって良く知っているだろう?あいつは何に手間取っているんだい?そちらの酒が美味し過ぎてわざと引き延ばしてるとか?酒池肉林に耽るのも程々に切り上げて、いい加減帰って来て貰いたいのだけどね」
 冗談じみた嫌味までつけて景元は丹恒に問う。
 仕事と言えば、今後の学びとして。そんな理由で随行させられた交渉は、丹楓の巧みな話術と押し進める強さから、ほぼ一方的で終わる状況が多く、丹恒自身には何一つ参考にならない場合が多かった記憶が蘇る。

 しかし、応星は一方的で終わらないどころか、交渉が決裂した。

 知り合って一ヶ月と少し、互いの情報を相応に知れた頃だ。
 景元からすれば、丹楓にしては慎重過ぎる遅い着手になるが、本国で不動産の会社を経営していると身分を詐称しながら、丹楓は応星へと出資を申し出た。貴方の作品は素晴らしい。是非投資させてくれないか。と、歯の浮くような褒め言葉を連発しながら。

 金を持っている人間が、芸術家への出資自体は不自然ではない。制作物が多少高く売れようと、制作期間は無収入になり、資材に金もかかるのだから芸術家は常々金の工面に悩むのが当然で、丹楓は二つ返事で応星が乗ってくると考えていた。が、彼は言った『要りません』と、真摯な眼差しではっきり首を横に振り、丹楓とは友人同士で居たいとして断ったのだ。
 出資される者、する者で壁と上限関係が出来、こうして話せなくなるのが嫌だと。

 それでも丹楓は説得を試みたが初手から旗色は悪かった。
 上下関係になど成らない。心配は要らない。と、伝え、断る方が可笑しいと思えるほどの優遇された好条件を出されても、頑として頷かない応星に焦り、捲し立てる丹楓の姿など共に過ごした数年の中でも丹恒は初めて見たのだった。
 この世に、丹楓を動揺させる人間が存在した事に感動すら覚えたほどである。現在、老大の代理を務める景元に知らせが行ってないはずは無いのだが、何を知りたいのか。
 「あ、あー、その、今度の相手がお金にも名声にも興味がなさそうで、欲がないと言いますか……、家族が一番大事というか……?」
「じゃあ、その家族を人質に取る方法だってあるだろう?手を拱いてる理由は他にないかな?」
 家族を人質にされて制作活動が捗るのだろうか。
 不安に押し潰されて何も作れなくなりそうな気もしたが、発想を変えれば単純に命を奪うだけとは限らない。場合によって、病であれば命を救い、そうでなくとも何らかの問題から救ってやるやり方で恩を着せ、搦め手をとる方法とてあり、簡単に言ってのける様子から、丹楓や景元がそれだけの事をやってきた証左でもあった。
「得には思い当たりませんが……」
「そっか、君から見て丹楓に違和感があるかどうかは?」
「最近……、あの酒好きが珍しく呑み残してたな。くらいですかね?」
「酒が不味かったとか?」
「いえ、その直前まで笑って呑んでましたよ」
「君と?」
「あ、いえ、その、狙ってる方と……」
 景元が数秒ほど無言になり、考え込むような素振りを見せた。
「相手はどんな雰囲気の人だい?」
「一言で言うとお人好しというか、自分より人を優先するような?でも、凄く頑固な一面もありますね」
「ふぅん……、とりあえず面白い状況になってる事は分かったよ。ありがとう」
 礼だけを言うと景元は通話を切り、丹恒を置いてきぼりにしていた。
 今の状況が、長く共に仕事をしてきた景元からすれば違和感しかない状況であるらしい事だけは理解出来たにしても、丹恒に丹楓の頭の中身が解るはずもない。

 ちら。と、作りかけの料理を顧みて、丹恒はうぅん。と、呻る。
 現在時刻は時間は七時近い。刃も既に食事を作っているだろう時間帯だ。食事を持って行くと返って迷惑だろうが、他に訪ねる口実がなかった。

 景元も今直ぐ。の意図はないとは思いたい、それでも『人質』の不穏な響きが丹恒を落ち着かなくさせる。体力に優れていた過去ですら悪意の糸に絡め取られてしまったのだから、殊更『今』の刃が武力に優れた者に抵抗出来るだけの力があるのかは疑問でしかない。
 丹楓が居れば、一緒に酒を呑むなり何なりの口実も出来たが、そもそもどこに出かけているのかも教えられていない。

 懐柔出来ているように見えて中々手強いどこか難攻不落に過ぎ、応星に対して今までのやり方が通じないため、策を練り直しているものか。丹楓が帰ってきてから様子伺いでもしようか悩んでいればインターホンが押され、出てみれば刃が立っていた。
「どうかされました?」
「食事は……、もう終りました?」
 視線を落としながら、刃が訊ねてくる。
 まだであると告げると、幾分、安堵の表情を浮かべ、一緒に食べないか誘われた。
「応星が、外で丹楓さんを見つけたから呑んでくるらしくて、今日は遅くなるそうで……」
「え、大丈夫なんですか?」
 言葉の交流はし辛いと知っているはずだが、それでも応星は外で偶然見つけた丹楓の手を引いたらしい。
「前も外で呑んだけど、雰囲気とジェスチャーでなんとかなるとか言ってました。どうせ応星が一方的に喋ってて、丹楓さんが黙って聞いて下さってたんでしょうが……」
 なんと、今回が初めてではなかったらしいと知り、丹恒が応星の行動力に絶句しながらも、言われてみれば思い当たる節があった。応星が酔うと一方的に喋り過ぎて通訳が追いつかない時がままあって、それでも微塵も気にせずに身振り手振りで話し続けていたのだから。
 刃が小さな溜息を吐き、謝罪の言葉を口にする。
「謝る必要はないですから……、あの、俺なら大丈夫なので、是非……」
「人に出すほど大した物でもありませんが……」
 互いに恐縮し合いながらも招かれ、丹恒は刃と共に食事をする。
 兄二人が居ない空間で、話はこれといって弾まないが、ぽつりぽつりとする会話に然程、苦痛は感じず、料理に関しても刃が丹恒と一緒に作るようになってからは、以前のように大量にならなくなり、ほど良く腹に溜まる程になってくれたため、無理に詰め込む必要もなくなって気楽になったのだが、
「あの……」
「はい?」
「自分でも上手ではないのは解ってるんですが、不味いですか?」
 相応に満足してお茶を飲んでいた丹恒が、先程から頬をほんのりと紅潮させている刃の不安そうな問いかけに眼を瞬かせる。
「そんな事は全く……?」
「でも、いつも残してらっしゃるので……」
「え、普通……、あ……」
 何の問題があるのか、ほんの瞬く間だけ理解出来ずに否定しようとした丹恒だったが、刃達以外と関わらなさ過ぎて、風習の違いを忘れていた事に気がつく。
「違うんです。俺達の国では招かれた場合、食べ切ったら『足りないからまだ寄越せ』って意味で、『もう結構です。満足しました』の意味で少し残すのがマナーなんです」
 皿に残していた分を慌てて食べ切ってから丹恒は捲し立て、勢いに面食らった後、刃が薄いながらも微笑みを浮かべる。
「なら良かったです。家事仕事は施設でやらされてたんでそれなりには出来るんですけど、俺はどうにも上手くなくて……」
 応星はなんでも器用なんですが。
 刃が眉を下げながら言うが、『施設』の一言に、本人達以外に親族の気配が見えない事、二人がお互いを唯一として大事にする理由を丹恒は納得してしまう。丹楓のように調べ上げた資料を読めば彼等の情報は簡単に知れるにしろ、それは卑怯な気がして丹恒は一切、目を通していない。
「生活に支障が無いくらい出来れば十分ですよ。俺だって、あいつが一切やらないから仕方なく全部やってるだけで、そこまで細かい方でもありませんから」
「それはそれで大変そうですね」
 丹恒が笑えば刃も釣られたように口元に指を寄せて上品に笑い、朗らかな空気になった所で片付けに席を立った刃の足下がどこか覚束ず、軽く引き摺っていた。
「手伝います」
「え、あぁ、すみません」
 足を痛めているのか。
 しかし、食事の誘いを受けた際は問題なく歩いていたと丹恒は記憶している。誘われてから今まで席を立ってもおらず、いつどこで刃が足を痛めるような怪我をしたのか皆目検討がつかなかった。

 手伝いがてら然程広くはない台所で刃が洗い物を片付け、丹恒が拭き上げをしていれば玄関から鍵を開ける音がして扉が開かれる。
「じーんー、ただいま-」
「お帰り、また随分呑んでるな」
「お邪魔してます」
「晚上好……」
 丹恒が居るとは思わなかったのか、肩に応星を担いだ丹楓の表情が怪訝に歪む。
「うん、あと、足挫いた」
「解ってる。さっきから痛い」
 刃が濡れた手を拭きながら応星に応え、丹楓に礼を言って代わりに肩を貸し、居間の椅子へと連れて行く。
「刃さん、どこか痛いんですか……?」
 一体、どこを怪我したのか。
 食事中は何も言ってなかったはずで、古傷が痛むのか丹恒が訊こうとすれば、応星が手を左右に振って笑う。
「いや、俺のせい。俺が怪我したから……」
 益々分からなくなった丹恒がきょとんとしてれば、
「是联觉吗……?」
 刃が応星の足首にテーピングを貼り、スプレーで冷やす様子を見ていた丹楓が呟く。
「なに?もう一回頼む……」
 丹恒には聞き馴染みがなく、聞き返しても丹楓が返事をしないため刃を見やれば、
「応星、これは何だったかな?」
 刃も上手く説明出来なかったようで、応星に助けを求めている。
「あー、共感覚?とか言う、双子だと感覚共有してて、片方が怪我したら片方も痛いみたいな?」
 酔いのせいか随分と滅茶苦茶な説明であるが、食事をしている最中に刃の顔が紅潮しだし、足元が覚束なかった事、今、足を軽くとは言え引きずっているのは。
「难道所有的痛苦都能传染吗?」
 丹楓が言葉を発し、考え込んでいた丹恒を肘で小突く。
「あ……、お互いの痛みは全部伝わってしまうんですか?」
「いや、傷なら蚯蚓腫れが出来て、少し鈍痛がするくらい……?」
「はは、軽い傷くらいならな」
 ならば、普段の生活からお互いが怪我しないよう、相当注意をしているはず。と、丹恒は思い至り、己が刃を気にかけていた事が、随分と傲慢な行いだった事を知る。それでも、人間失敗はあるため、今日のように無傷とは行かないのだろうが。
「格闘技をしていた時もですか?」
「ですねぇ。餓鬼の頃から、だから刃がいいの喰らって気絶した時とか俺、痛すぎて吐いてましたもん」
 これは既に本人から貰った情報であり、丹恒が知っていても不思議ではないため口にしたが、本人より先に応星が目の前にある髪を撫でて答えれば、刃の頭が申し訳なさそうに下がる。
「すまない……」
 避ける、弾く、攻撃をいなす、カウンターを極める。
 刃の戦い方を訊くと、とにかく回避に専念し、重い一撃を以て相手を沈めていた。そんな戦い方の理由も知れたが、それよりも知りたかったのは、
「今、応星さんが酔ってるのも刃さんに……?」
「あぁ、だからあまり酔い過ぎないで欲しい……」
 刃が気怠げな息を吐いて応星を見上げながら苦情のように言えば、ごめぇん。などと緊張感のない謝罪が贈られる。
「お、俺、そろそろ失礼します」
「そうか、来てくれてありがとう」
 挙動不審に言葉を詰まらせ、じわじわと後退していく丹恒へ刃は振り返り、眼を細めて見送るが、視線が交わると、一気に顔を沸騰させたように赤らめて逃げるように飛び出した。

 食事の最中、刃が緩く頬を上気させ、困ったように手の甲を当てる様に、『今更何か緊張しているのか』『俺と二人だからか』『少しは心を開いてくれたのか』なんて考えていた己が恥ずかしくて堪らず、今直ぐこの数時間の記憶を消し去りたくて仕方が無い。
 顔のあまりの熱さに自宅の浴室へ飛び込み、シャワーを掴んで冷水を頭にかける。
「馬鹿か貴様は、二人が失礼でもあったかと気にかけておったぞ」
「煩い……」
 浴槽にもたれながら、水を被り続ける反抗的な弟が気に食わなかったのか、丹楓が水を止め、猫の仔でも摘まむように服を掴んで引き上げる。
「丹恒、刃が気に入ったのか?」
「あ?」
 細身に見えるとは言え、相応に体重のある脱力した丹恒を片手で持ち上げながら、丹楓が戯けた質問をする。また人を馬鹿にして遊ぼうとしているのか。そうとしか考えられない噛み付くばかりの心境になっていた丹恒が顔を巡らして睨み付ければ丹楓の顔つきは真剣であり、人を煽るような薄笑いは浮かべていない。
「あんたは何考えてんだ?見込みのない相手なんか直ぐに切るだろ?」
 不意に景元の事を思い出した丹恒が、丹楓の腹を探る。
 単純な質問だ。切るのか切らないのか、ならばその理由は。しかし、丹楓は舌打ちをしただけで答えず、丹恒を掴んだ手を離して浴室から出て行ってしまった。

 少しばかり頭の冷えた丹恒は、水に濡れた浴室の床に座り込みながら、いつでも冷静で頭の切れる丹楓が言い返せなかった事実に驚く。初めて籠絡出来なかった獲物に対して意固地になっているのか、別の意図があって見切りをつけられないのか。

 悪魔も斯くやあらんの悪行をものともしない男が、得られもしない獲物への懐柔に懸命となり、固執するなどあり得るのか。あり得るとすれば、応星が何を差し置いても欲する代わりの無い才能の持ち主なのか。
「訊き損ねた……」
 身内を人質に取るような真似を今回はするのか。
 『する』と、丹楓が答えれば、己はどうするべきなのか。
 先程の問いこそ、或いは刃を庇い立てして邪魔をするのか。の、確認だったのか。それならば、何故、言い返さなかった。

 応星と出会ってからの丹楓は、やたらと人間臭い。
 権力で、金で、武力で思いのままに人を操ってきた人間が、何一つ思い通りにならない人間に戸惑い、手を出しあぐね、どうにも空回りが多くなってしまっているようだった。かと言って、応星が策士であるとは考え難い。丹恒が見るに、真っ直ぐで、ただただ情が深い。

 想像でしかないが、丹楓はこの世に誕生して此の方、欲や暴力に塗れた世界ばかりを見てきている。利用する相手にも欲があり、鼻薬を嗅がせ、功名心、金銭、性欲諸々を擽り、揺さぶってやれば良かった。
 欲求が皆無はあり得ないにしろ、確実に生活も、制作環境も良くなる出資を断り、丹楓との友情を選んだくらいだ。応星は欲を重要視していない。丹楓にとっては如何にも扱い辛い手合いになる。
 傍観者としての立場であれば、あの地上の覇者の如く君臨する男が、天才とは言え、ただの人間に惑わされている様子が面白くて堪らないが、完全な無関係では居られないのだから、難しいものである。

 ▇◇ー◈ー◇▇

 翌日、刃の家を丹恒が訪ね、玄関先で昨夜の無礼を謝罪した。

 好意云々こそ話さなかったが、互いを慮る事情があるとも知らずに刃を気にしていたつもりの己が恥ずかしかったのだと。
「こう言うと何ですが、嬉しかったですよ」
「そうなんですか?」
 刃は表情自体はあまり動かないが、今はほんのりと口角が上がっている。
「応星に対しても珍しい動物を見るみたいに騒がなくて、俺の傷も嫌な一つ顔せずに可哀想な人間扱いではなく、当たり前に接してくれたのは丹恒さんや丹楓さんくらいですし、俺もですけど、応星もそれが嬉しくてお二人を気に入ったんだと思います」
 そうなっても仕方ないと理解しつつ諦める事で他者からの扱いを享受していたが、特殊な存在では無く、あるがままを受け入れ接する二人の前であれば、呼吸が楽になるような心地になった。と、刃は語る。

 随分な過大評価である。
 正直な話、特殊な見目だからと騒ぐ必要性も好奇心もなかった。目を覆いたくなるような傷痕など見飽きているため驚きようもなかった。自身を良く見せるために可哀想と口先ばかり憐れんだ所で無意味であり、ともすれば侮辱でしか無いと知っているだけで、応星や刃が思うような善人では決してないのだが、丹恒はそれを口に出来ないでいた。
「その程度の事で気に入って貰えたんなら行幸でした」
「俺たちにとっては、その程度じゃ無かったって事です」
 空とぼけて丹恒は曖昧に笑む。少なくとも、大学生活が終わるまで隣人であるなら、余計な波風は立てない方が良い。このまま、丹楓が二人を狙い続けるにしろ、諦めるにしろ。
「良かったら今日はうちに来ませんか?昨日の食材が余ってるので」
「是非」
 景元がどう出るかは現状、判断材料がなさ過ぎて判らないが、丹恒は奸策を遮る意味も込めて刃を誘った。老大の弟の立場、吹けば飛ぶような危ういものではあっても一定の効力はある。側に居れば、軽々に手は出せない。

 刃と丹恒が親交を持ちながら、一週間が過ぎ、二週間が過ぎ。
 互いの家を行き来するごとに口調も砕け始めてはいたが、応星が制作の佳境に入ったため、家では出来ない作業を別に持っている小さな工房でやるために籠もり始め、顔を合わせられない日が増えたため丹楓は解り易く苛立っていた。容易く得られる想定の家畜が思いの外抵抗した。交渉が微塵も進展が無いまま時間ばかりが無駄に過ぎていく状況が不愉快かつ歯痒くて堪らないのだろう。と、丹恒は見ていたが、丹楓に真意を問うても無視されるばかりでこちらも埒が明かない。
 丹楓が家を留守にする日が増え、相手は景元なのか口論する声が自室から漏れていた日もあった。他者を恐怖に落とすための振りでは無く、本物の激高のようで、内容を聞こうと扉へ近寄ってはみたが籠もった声は内容の把握には至らず、もどかしい日々が続いていた。

 また一週間程が経ち、応星が疲れ果てた様子で『納品してきた』と、倒れ込むように帰宅し、久々に食卓を囲む。
 応星と丹楓の事はさておいて、友人として刃との交流も続いており、丹恒にとっては穏やかな日々が続いていて大変好ましい。

 そんなある日の事だった。
「丹恒」
「うん?」
 刃に名前を呼ばれ、丹恒は自分の机で読書をしながら茶を含みつつ生返事をする。
 今日は休日で大学も休みだった事もあり、刃が丹恒の部屋を訪ねて床に座りながら読書で暇を飽かしていた。特に用事も無く、何をするでもない夕食までの時間潰しだが、何事も無く平和で悪くはなかった。

 のだが。
「うぉーあい……だ、れん……?」
 明瞭ではないものの、心臓に悪い言葉が齎されて丹恒の体が動揺に揺れ、お茶を零して本が濡れてしまう。
「大丈夫か?」
「あぁ……、なん、なんだって?」
「うぉーあいだれん?と思うんだが、どういう意味かと……、そっちの言葉だろう?」
 丹恒が慌てて手近にあったティッシュで本の頁を拭き、聞き直すと己に言われたのではないと理解して安堵するやら、驚くやらで可笑しな体温の上昇があった。
「そうだな。でも、何でそれが気になったんだ?」
 これは大事な言葉だ。
 気になったからには相応の理由があるはずで、先ずそちらを訊きたくて丹恒ははぐらかす。
「……そっちのドラマを偶々見てて聞いた」
「字幕はなかったのか?」
「見逃した……」
 本を視線を落として読んでいるようで、一枚も頁が捲られていないため、嘘だと解り易い。嘘が下手過ぎて、寧ろ可笑しさまで感じるが、そこは敢えて指摘せずに丹恒は
「本当は?」
 とだけ、問う。返事を待たれる時間に刃は観念したのか、椅子から落ち着いた眼差しで見下ろしてくる丹恒を見上ながら口を開いた。

 曰く。
 先日、互いの兄が二人で呑み始め、刃は側に居ても丹恒のように通訳出来る訳でもないため、先に就寝していたのだが、不意に目が覚め、軽い酩酊感と喉の乾きを覚えて自室から居間に出ようとすれば、丁度、酔い潰れた応星を起こそうとする丹楓の姿があった。
 それ自体は特に、またか。と、少々呆れただけで気にはしなかったものの、刃が見ている事にも気づかずに件の言葉を囁やき、応星の肩を抱き寄せて頬を撫でていたらしかった。
 部屋に漂う雰囲気が妙に気恥ずかしく感じられ、音を立てないように刃は自室の扉を閉め、寝台に戻った。との事だった。

「待ってくれ。呑み込めない」
 行動もさる事ながら、あの丹楓が人に気づかないとは。
「本当に刃に気が付かなかったのか?」
「あぁ、俺は強い光自体も苦手だが、差があっても眼が眩むから一気には扉を開けなかった。だからだと思う」
 丹恒も国籍こそ中国ではあるが、異国の血が入ってているのか髪は黒くも目は深翆の瞳で極端な照度の差は苦手である。

 光に眩むから。自体の主張は理解出来ても、矢張り丹楓が微かでも人の気配に気づかないとは、今までの彼からすれば有り得なかった。常に暗殺の危険に晒されている丹楓は絶対に裏切らないと確信を持った人間しか傍に置かない。
 基本的に誰も信用していないからこそ、自身を極限まで鍛え、常に警戒し、周囲を威圧するために裏切り者への嗅覚鋭く、残虐極まる拷問も表情なく行い、懇願する元部下へ鉛玉を撃ち込み、性欲の処理に使う女ですら不穏な動きがあれば、抱きながらでも首の骨をへし折るような行いを躊躇わずやってのける。そんな男だ。
「恐らく我爱的人。だが、本当にこれであってるのか?」
「音は似ている……、自信は無いが、ずっと気になって考えていたからな……」
 確定とまでは言えずとも、主張は覆らず、我爱。の部分は絶対らしい。
 状況から、それとなく意味は察せるが、
「私の愛しい人。だな……」
 意味を伝えると、そうか。と、刃は頷いて未だ丹楓の行動が呑み込めないでいる丹恒を悲しげな面持ちで見上げる。
「応星も男だし、その、嫌かも知れないが……」
「すまん、そこじゃない……、そこはどうでもいい」
 考え込む様子を悪い方向に受け取った刃が丹恒へ口を挟もうとするも手を翳して発言を止める。相手が男だろうが女だろうが関係はなく、丹恒が知る丹楓と、刃が見た丹楓の乖離が激し過ぎて混乱しているだけなのだから。
「俺が知ってる兄は、そんな風に人を愛でるような人間じゃなかった……」
「そうなのか?」
「あぁ……、自分以外のその他大勢なんて、利用する価値があるかないかでしか量って来なかったような奴だ。そんな奴がだ、愛にでも目覚めたとでも?」
 油断すれば即ち死。
 生き馬の目を抜くような利用し利用される立場と世界。
 それを当然として生きてきた人間が、初めて己の常識が通じない人間と出会い、振り回されながらも応星が打算なく、対等に、一人の人間として接しようとするが故に、永久凍土並みの丹楓の心を溶かして落としたのか。
「応星さん凄すぎないか……、ある意味偉業だぞ……」
「そこまでなのか?」
「心のない化け物に愛情を教えてやったようなものだぞ!」
 丹恒が興奮気味に語れば大袈裟な表現に刃は呆気に取られているが、丹楓をやり込められるとしたら、同じような化け物以外に存在しないと考えていたため、革命でも起きたような心境なのだ。
「嫌じゃないのか?」
「同性だからか?さっきも言ったがどうでもいいな」
 血の繋がった子を求めるなら女が必要なのだろうが、人慣れしていなければ下らぬ罠に陥りかねないとして男も女も散々宛がわれ、強制的な脱童貞の末、性行に慣れさせられた身としては、他人にべたべたされると嫌悪感が先立つようになった。ある意味教育の成功なのだろうが、丹楓によって様々な一般的感覚が狂わされたと丹恒は考えている。
 それ故に、丹楓の好む相手が男だろうが女だろうが、最早、丹恒は己が平穏無事であれば良しとする悟りに近い境地に至っていた。
「あぁ、逆に訊きたいんだが、刃はどうなんだ?そもそも応星さんはあんなのでいいのか?」
「応星が自分から誘うくらい気に入ってるのは珍しいから、嫌ってはいないし、俺は……、応星が幸せならそれでいい、邪魔しかしてこなかったから」
 兄をあんなの扱いする丹恒に刃は苦笑し、応星の幸せが第一であると伝えて俯いた。
「邪魔?」
「俺達は親が居ない。それでこの見た目だろ?悪目立ちして虐めなんて当たり前だったし、応星は誘拐された事もあって……、それで強くなりたくて格闘技始めたはいいけど、この有様だ。俺はあいつの荷物にしかなってない」
 途中、刃は言葉を濁したが、自身を卑下する言葉はつらつらと出て来るようだった。
 闊達に見える応星にも、慎み深く見える刃にも抱えるものがあり難儀な兄弟だと我が身を顧みつつ、育った環境がどちらも最悪であるとの結論しか出なかった。なのに、この兄弟は世を憎まず、人を恨まず育った。組織に属する下っ端には、常に己の不運をなにかのせいにしては不平不満を漏らし、他人に機嫌をとってもらおうとする輩は珍しくない。

 自分自身しか見えて居ないからそうなるのだろうが、応星と刃は互いを鏡のようにして、励まし合い、互いを護りながら育ったのだろうとは想像に難くない。
 応星は刃を荷物などとは考えていないだろうが、他人が諭しても大した慰めにはならず、余計に思い込みは激しくなるだろう。
「うちの兄は、正直、恋人にはお勧め出来ないが……、応星さんがどう思ってるかは確認した方が良くないか?」
 周りが盛り上がって本人の意思を無視するのは良くない。との提案に刃は素直に頷き、
話している間に丁度良い時刻になったため、夕飯作りに立ち上がった。

 丹恒自身も愛も恋も解らない手合いである。
 今の今まで、情はあれど誰も愛して来なかった人間の執着を甘く見過ぎていた。

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